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★【連載】山佐木材の歩み(20)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

住宅事業 本格スタートから大飛躍編

 

住宅事業に本格着手

 住宅部門は昭和50年(1975年)頃まで建築課の中にあって、公共工事などの端境期にやるイメージだった。頼まれて注文を取るという姿勢で、多くて年に数棟。むしろ現場では金額の大きい公共事業などを優先、金額が小さくてしかもクレームが付きがちな住宅は敬遠したい気配が濃厚だった。

 しかしながら社長は住宅事業に将来性を見出していた。そして何よりも木材業を以て会社を創業したのであり、既にこの頃には衰退の兆しさえほの見えていた製材部門を、これこそ地域に根ざす産業であるとみなして、あくまでその存続、事業拡大を強く願っていた。そしてそのためには安定した売り先としての住宅事業の進展が何より必要と感じていた。しかしこの難しい住宅事業を仕切る適任の人材に永らく恵まれなかった。三男の典明君が日本大学理工学部建築科に進学した前後から、住宅部門の運営を彼に託す事を強く願い、その卒業を心待ちにしていた。

 世の中に住宅ブームの兆しが見え始めていた。住宅課が建築課から分離され、二十歳台半ばの佐々木典明君が初代課長になった。ここから世の住宅ブームを先取りするかのような奇跡的とも言える躍進が始まる。

 

大隅地区でダントツのシェア

 事業責任者に人を得て、社長は住宅事業の成功・発展に向けて燃えに燃えた。当時は大隅半島が営業範囲であることは自明であり、鹿児島市内進出などということは夢にも考えなかった。今でこそ大隅地区は過疎に喘ぎ、住宅需要は低迷を極めているが、当時の大隅地区には実に旺盛な住宅需要が内在していたのだ。

 大隅地方には独自とも言える風土がある。人と人とのつながりが圧倒的に濃密であった。東京などの都市部と比べれば、鹿児島市内でもまだましな方だが、それと比べてその濃密さの度合いは段違いと言えた。当然のように「紹介受注」という戦略がとられた。住宅部門社員は当然ながら、他部門の社員、他部門所属の協力業者からの紹介も推奨され、事実その協力は圧倒的だった。

 会社と社員、協力業者は運命共同体であり、住宅部門の発展は全社の繁栄につながり、すべてにその余慶が及ぶことに疑いを持つ人はいなかった。何しろ私たちよりもう一つ前の世代の大人たちは、永くつらい不景気の時代を過ごした人たち特有の冷笑的な人も多かったが、それでも何の疑いもなく自社のことを「わがえ(我が家)」と呼んでいたものだ。永い不景気の時代から土木部の進展で会社の成長が待遇の改善を呼び、人の心を緩やかにのびやかしていた。新たな住宅部門の発展に期待は大きく、広範で熱心な支持が広がり、緻密な紹介システムが出来ていった。

 そういう紹介受注の中でも、作ったお客様からの紹介はまた別格だった。お客様の満足感が無ければ大事な友人知人への紹介(推薦)はあり得ない。お客様の希望に叶う家造りのために営業、現場担当者も我が事として真剣に努力した。狭い地域社会では会社の信用もさることながら、個人の信用も、良くも悪くもたちまち拡散するのだ。

 

台風対策

 大隅半島は台風の常襲地帯である。強い台風が来れば、家には大小何らかの被害がでる。台風の予報が出ると特別勤務体制を組んで備える。深夜でもお客様からの電話には応答する。またお電話が無なかったお客さまにも、雨風の激しかった地域に、一軒一軒夜明けから様子確認のお見舞いをしていった。

 台風一過、早朝から何班にも別れて、トラックに資材や道具を積み込み、被害があったことが確認された家々を訪問、その場で対処できるものは即時済ませていく。あるいは案件によっては応急処置のみを施して後日きちんと修理する。社員のみならず、協力業者の皆さんも一緒になって、数人ずつの班が何組も編成された。これらの処置はお客様から非常に感謝された。

 それとともに技術陣の努力により、「耐風性能」そのものも次第に強靱化されていった。ヤマサハウスの住宅造りを調査された木質構造の専門家であるO先生が、その構造性能を高く評価された。当時沖縄では台風被害とシロアリ被害を恐れて木造建築が殆ど無かった。かつて沖縄の住宅事情調査をされたO先生は、今のヤマサハウスならば沖縄の気象条件にも完全に対応可能でふり、「高い建築費に苦しんでいる沖縄の人たち」のためにもと、沖縄への進出を熱心にお勧め戴いたものである。

 

営業員たちの驚異的な取り組み

 全社的なバックアップ、既存顧客からの好評も相まって、受注件数は伸びていき、あっという間に年間受注件数100棟を超えた。その頃には建築後の定期点検やアフターサービスを専属に行うサービス班も作られた。現場や営業員たちも実績を競い合い、切磋琢磨に努めた。

 会社発展の牽引車が土木から住宅に移りつつあることが予感され、住宅営業強化の流れがある中、各部門に人材提供が要請された。父君が地元神社の総代、農協理事など努める地元の名士だったこともあり、永野易美君の名前が挙がった。永野君は地元高校の建築科を卒業して、途中入社で建築課に所属、しばらく現場担当をしていた。所属の建築課としては、どちらかと言えば「惜しくない」として要請に応える形で差し出されたように思う。ところが住宅課の営業に配属されるや、彼は俄然驚くべき変貌を遂げた。

 配属後暫くして一ヶ月に何と5棟を契約したのだ。だいたい月平均3棟の実績があればトップクラスとして敬意を表されていた。皆驚きながらも「素人のまぐれ」とまだまだ余裕があった。ところが彼はその後もその数字を継続した。「月5棟」の永野標準が、あっという間に会社標準となった。永野君に加えて、松元政信、前村一見と言う人たちがこれに追随、定常的にこの数字をこなし始めた。一人で月に5棟、年間60棟である。彼らを手本にして多くの営業員たちが実績を競った。

 この事業モデルで住宅事業は十数年発展に発展を続けた。最盛期には年間施工件数が500棟に及んだ。当時の高山町、内之浦町などでは、町の年間建築棟数のシェア50%を越えていたと思う。「人口1万数千人の過疎の町に本社を置く会社が年間施工500棟の実績!」と、田辺経営などを通じて全国的に話題になったのもこの頃である。

 ただ時代や社会の変化に伴い、この事業モデルは終焉を迎える。典明君を中心にして、時代に合った新しい住宅事業の事業モデルが構築されていくことになる。

(佐々木 幸久)