メールマガジン第94号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(21)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

損害保険代理店事業の開始

 

中原君の入社

 総務部に中原君という人が入社した。この中原君は社内スピーチコンクール編(2021年11月メルマガ92号 山佐木材の歩み19)で、N君として本欄に一度登場している。

 恩師春田千秋先生に、私は高山中学校一年の時に担任して戴いた。その後先生は神野中学校に転勤、ここで神田稔君は一年から三年生まで先生の薫陶を受けた。その後春田先生のご紹介で、神田君は山佐産業に入社、爾来五十年になる。その春田先生から中原君の紹介を受けた。先生が校長を務める学校の教頭先生の子息で、県内の大学を卒業予定である。先生からのお話しであっては否やのありようもない、私も神田君も当時総務部にいたので、総務部に迎えた。

 

 初対面の中原君の第一印象はその顔色で、あまりに真っ白なのに驚いた。真面目でおとなしく、仕事は一旦覚えれば手堅く何の不足もなかった。ただ進んで人に話しかける風が無く、放っておけば机について一言も話さぬまま一日を過ごす事もある。神田君と彼の行く末を話し合った。総務の仕事は確かに彼に合っている、このままこの仕事をさせていても、彼にとって不満ではないかもしれない。しかし有意義な人生、と言う観点からはこのままでは良くないだろう。といって営業や現場の仕事は彼の良さを活かせないだろう。何か彼にふさわしい仕事は無いだろうか。散々考えて浮かんだ答えが損害保険の代理店業務だった。

 人との適度な接触がある。といって一からご縁づくりをするのではなく、既に家作りでご縁のできたお客様がお相手である。結構な事務作業があるが、それについてはこの2~3年の仕事ぶりを見てても問題ないだろう。伸長著しい住宅部門、その工事保険、完成後のお客様の火災保険だけでも、人一人の仕事として十分であるように思われた。「余計なことをせんでも」という他の役員の声もあったが、実現に向けて神田君といろいろ動いた。

 

社長の保険についての考え方

  社長の交通事故に関する認識は峻厳そのものだった。決して交通事故で人を不幸にしてはならない。弔慰金、保証金など払えばそれで責任が果たされるものではない。多額の任意保険にかかっていることで、運転者に万々一心の油断があってはならない。常に運転者の責任を感じ、緊張して運転業務にとりくむべきである。それが社長の信念からくる方針だった。

 

 毎週安全運転に関する意識や技量高揚のための勉強会が行われた。毎週のことだから、中身も次第に緻密に厳密になっていった。○○間の道路は事故が起こりそうな場所があるから、通行をしないようにというような申し合わせもあった。或いは事故を起こす車の車内が共通して乱雑で汚いと言う情報があり、朝の仕業点検では車内清掃も行われた。個人の通勤用車両も社有車に準じた。

 勉強会への参加費がそのまま交通安全積立金となった。車通勤の者は通勤手当の中から通勤時事故に備えて、この積立金に参加する。年間数百万、事故無く十年経てば、社員の万一の事故のための社員自身による資金数千万円が造成される。これらに要する会社の費用は恐らく保険料よりも多くを要しただろう。

 私の警察の方々との付き合いについて、交通取り締まりは事故防止に有意義であり、それ違反のもみ消しを考えるのは以ての外、と申しつけたのもこの姿勢から出ている。

 

損保代理店業務の開始

 そのようなことで、損害保険代理店事業開始の社長承認の為の資料に、事業の収支見通しとして車保険は考慮せず、お客さんの住宅、および会社施設の火災保険等のみをもってした。ともあれ事業はまず中原君一人で開始した。その後事業は拡大して従事者も数人となり内容も手広くなり充実、今では立派な一事業部門として繁盛しているようである。

 なお車保険についてだが、私たち後継者は先代社長ほどの覚悟を持つことが出来ず、社用車すべて対人・対物の任意保険に加入している。ただかつての事故防止に対する厳しい認識は、各会社にあたかもDNAのように承継されているようである。

 

 中原君も40年勤続を果たし、今は個人事業主のような形で、のんびりと楽しく仕事をしているようである。彼の善意があってこそと思うが、古くからのお客さんや退職した社員たちの間をも回っているようで、時に楽しげにその消息を聞かせてくれたり、また貰ったからと焼き芋やタケノコを持ってきてくれたりもする。 


木材部門の分離  山佐木材の誕生

 

 木材業を核としながらも社長の考えで多角化したきたそれぞれの事業は、国の高度成長期に準じて、時期を少しずらしながら成長していった。土木部門が昭和40年代から、住宅部門が昭和50年代から、別会社となっていた家具販売部門が昭和50年代後半から、それぞれ著しい成長期に入った。

 一方木材部門の売り上げはなかなか伸びなかった。全社的な売り上げ高の中で、製材部門の売り上げ比率が低下したのである。製造からスタートした家具の事業も、製造直売から仕入れ販売へと変化していった。会社は製造業であるよりは建設業の業態になっていった。

 三十歳そこそこの私の判断基準は底が浅く、ただ数字の面でとらえて、伸びる事業を伸ばす体制にするべきと考えた。創業部門であるものの停滞から脱することが出来ない製材事業を切り離して、別会社とすることを提案し実行した。

 

 いずれの日か社長の跡目としてグループ総帥は自分とのことは夢寐(むび)にも疑っていなかったから、もし木材会社が苦境に陥ったときは何らかの手を打てるはずと考えた。

 社長は当時果たしてこの提案をどう考えていたか。特に強く反対された記憶がないので、事業実態からしてやむを得ないと判断したものと思う。そして自分が木材部門は守って見せると深く決意していただろう事は、後の行動で如実に示された。これらのことは次稿以下で述べる。

 

木材部門の売り上げが伸びなかった理由

 あの頃製材部門はなぜこうも売り上げが増えなかったのだろうか。何もしなかったわけではない、例えば社長が散々迷った挙句にようやく導入したフォークリフト(今と比較して実に高価だった)は、工場の風景を一変させた。丸太土場から四人掛かりでトロッコに積み、トロッコを押して製材機まで運び、下ろす作業は危険であり、合図や時に怒号が飛び交っていた。それがフォークリフトで一人で黙々と作業、スピードも従来よりも数倍速くなった。生産性は上がり、住宅部門の伸びと併せて、取扱量も倍増した。それでも製材部門の売上高は伸びない。

 

 木材会社経営に当たり、国外も随分見てきた今は、当時の木材部門の苦境を俯瞰して見ることが出来る。実は国際的にもまた国内でも大きな価格革命が進行中だったのだ。

 丸太1m3の値段は今と比べて名目でも3倍以上だったが、実質価格は驚くほど高かった。当時の丸太1m3は、当時の平均賃金一ヶ月分より高かっただろう。山を売って息子を東京の私大に出したという話は当地でもざらにあったが、売った山の面積はせいぜい一町歩(=約1ヘクタール、1ha=約10,000m2)か、もしくはその半分くらいだったのではないか。伐採費や運搬費の支払いをして、それでも東京での4年間の生活と学費を賄うに余りあったのだ。また焼酎も当時高かったものの一つだろう。当時焼酎一升の値段は土工の一日分の賃金とほぼ同じだった。

 

 価格革命が起こった要因を次のように列挙できると思う。

1.インフレ、金利高

2.好景気

3.我が国力の増強と共に円安から円高へ転換

4.石油価格の安価

5.農業・林業の劇的コストダウン(我が国以外の先進国)

6.貿易の増加

7.賃金上昇

 

 当地での住宅1棟の建築費は、昭和40年代に平均500万円程度だったろう。それから十数年たち、もちろん家の仕様も高度化し、面積も増えてきていたが、3倍程度になっただろう。また建築費に占める木材代の比率は、かつて25%程度だったのが10%程度まで落ちてきた。

 

 当時賃金は大きく上昇した。土木工事は社会資本の整備と併せて、地方の経済対策的な要素もあったので、政策的に賃金の上昇を工事費に反映させたので工事高は上がっていった。住宅や家具購入も所得水準の向上や、子供たちの成長に合わせ、そして何よりも住宅公庫融資の充実に伴って、建築面積も広くなり、質も格段に向上、工事金額も年々上がっていった。

 国内サービス産業的な事業と対比して、国際的な競争環境下にあった基礎資材や農産物は昭和40年代辺りから、長い長い価格低減圧力にさらされたきたのである。

 

 このような情勢下でも、社長の木材事業が本業で、後からの事業は一種の副業という感覚は、言いはしなかったが心の中には厳然としてあったように思う。一部重複するかもしれないが、創業のいきさつを今一度振り返ってみることにしよう。

 

社長の木材業、製造業への思い  山佐産業の始まりは木材業から

 山佐産業は佐々木亀蔵社長により、木材業を以て創業された。前身は「九州樫材工業株式会社高山工場」で、本社は熊本市にあったそうだ。社長の父である佐々木佐太郎は、自身も製材工場、建設業、海運業(木炭や米を大阪へ運ぶ)など経営していたが、地区代表としてこの会社の役員でもあったようだ。敗戦後の昭和21年3月に教師を退職、高山町(現在の肝付町)に引っ越して、当時もう父佐太郎は既に亡くなっていたのだが、その縁故であったろうか、この会社の高山工場に勤務するようになった。そして昭和23年、九州樫材工業の解散を機に、ここ高山工場を買い取り、山佐産業としたものである。

 

 戦後の混乱と激動の時期に、素人経営での運営は困難を極めたものと思われるが、その間苦闘と様々な失敗を経ながら木材業を営んできただけに、この事業への愛着は一方ならぬものがあった。

 ただ父佐太郎の遺訓があったと聞いているが、木材専業ではなく、早くから多角経営を志向して、チャンスがあれば果敢に挑戦した。建設、家具製造、そして時期的にはもう少し経ってからだが、前々回の本欄で述べた住宅事業への取り組みもその一つである。

 但し大きな基本線があった。それは本業に関連する事業への進出であり、大本は木材関連になる。また事業用の土地買収には積極的だったが、投機目的のものは固く禁じられたものだ。安易なあるいは投機による利益は人の心を毒する最大のものとして自らにも厳しく律し、私たちにも強く求めていた。あくまで努力しこつこつと稼いでいくべき、これが終生変わらぬ姿勢だったと思う。

 

 なお付記すると、当地産物の商品化という願いは強かった。当地は有名な広葉樹資源の産地であった。製材も後に住宅ブーム到来で針葉樹に切り替えたが、当初は広葉樹中心であった。この桜(さくら)、椎(しい)、椨(たぶ)、樫(かし)などの広葉樹を用いて家具製造を始めたことはすでに記した。

 その販売会社として設立した家具販売会社の名称を「山佐物産」とした。この会社は私たちの母、佐々木律子に託され専務として獅子奮迅の働きをした。名称は「家具の山佐」(現在の「オンリーワン」)と変更され、次第に家具産地からの仕入れが増え、自社製品の比率は次第に減少、しまいにはゼロになった。

 堅実ながらも成長して、豊富な内部資金を蓄積した。必ずしも財務内容が安定していなかった当時の山佐産業は、時に融通してもらうことがあった。社長としては、会社の名称変更も、そして自社製品から次第に仕入れ販売に傾斜する方向性に、言いたくてもこの業績を目にして、それがまさに専務の手腕によるものであり、強く主張するのは控えたものと思う。

(佐々木 幸久)