メールマガジン第90号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(17)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

鳥越一平さんのこと

 昭和50年代から30年以上のご厚誼を戴いた鳥越さんのことを、この記述から外すわけにはいかないだろう。高山町(現 肝付町)で、水産業(定置網網元)、牧畜業(肉牛肥育牧場)、商業(精肉の卸・小売り)を営み、相撲取りのような体躯で、大きな頭にぎょろりとした目はこわい。実際仁義に外れた物言いや、行動にはとても厳しかった。

 それでも笑うと何とも愛嬌のある顔つきになる。お茶目でなかなかのユーモアの持ち主でもある。老いも若きも皆が「一平さん」と呼んでいた。若者たちは腹が減ると遊びに行けば、肉や魚を腹いっぱい食わせてもらえる。町長選挙では一方の旗頭であり、その点での同志でもあったからお付き合いは長く続いた。いろいろとお世話になったものだが、牛タンやテールはもちろん牛ひれなども、多めに欲しい時には頼む事になるのだが、快く応じてくれた。

 

 いくつかエピソードを上げてみよう。

 こんなことがあった。結婚して間もない頃、職人の親方さんの主だった方々を自宅にお招きすることになった。今はずいぶん高くなって買うのを躊躇するほどたが、当時牛タンとかテールはなかなか売れないと鳥越さんから聞いていたので、それをお願いした。

 宴会当日の朝、会社にいた私に家内から悲鳴のような電話があった。驚いて帰ってみると、鳥越さんから届いた大きな箱に、牛タン、テールが数本ずつそのまま入っている。目方にすれば三十数kgあったのではないか。鳥越さんのいたずらっぽい顔が目に浮かんでくる。

 それから終日自宅で大奮闘、汗みどろで牛タン煮込みとテールスープ、大鍋二つの料理が出来上がった。残ったらどうしようと案じたが、幸いこの肉料理は好評で、おおよそ十人の人数で殆ど平らげた。私も二十歳代、ほかの皆さんも皆三十歳代で本当に若かった。後々もこの夜のことはたびたび話題に上り、楽しかった、うまかったと言ってもらった。

 後日参加者の一人皆元板金塗装の皆元社長が、うまかったからとこの牛テールを職人さんたちにふるまうことになったそうな。鳥越さんから肉を分けてもらい、料理したところ、肉が硬い、油っぽいやらで食べられなかったということだった。そこで料理法を伝授することになった。最初はひたすらあく取りをして、あとは弱火でじっくりひたすら煮込む。肉や骨から出る深い滋味があるので味付けは塩だけでも良い。冬はこれに大根でも入れれば最高だと。鳥越商店ではこの頃からテール、タンの小売りを始めたとか。店で調理法を聞いたら私に聞けと言われたと言って、2、3人の知り合いから電話があったものである。

 

 定置網漁にも鳥越さんの尻について何度かお邪魔した。不漁や時化(しけ)など漁業の厳しさがあるものの、時に大漁があり、その喜びは何にも代え難いと聞いた。漁の得物を漁協の市場におろして港に帰り、近くの自分の苫屋で朝食である。鳥越網元と漁師たち10人くらいか。量が少ない値が付かないなどの雑多な魚を、大鍋に大量に入れる。水をひたひたにして、囲炉裏の熾火に焚きつけや薪を足して煮る。煮えるまで焼酎を飲みながら待つ。味付けはほぼ塩のみ。身と汁をどんぶり 一杯についでもらう。朝は3時半に起きて飯抜きでもう8時を回っている。腹ペコで、世の中にこんなうまいものがあるかと思った。

 

 ずっと後のことだが、父が大病を得て入院、一応治癒して病院から帰ってきたとき、お電話を戴いた。お見舞い代わりに仔牛の肉を上げるというのである。確かに仔牛肉は病み上がりに良いかもしれないと有難く、早速若い社員に車で取りに行ってもらった。ところがすぐに帰ってきた。手ぶらである。首を振りながら何やら解せぬ風だ。聞くと「お見舞い」に一平さんが準備していたのが仔牛一頭分で、トラックでないと積めないというのだ。「これをどうするんですか」と聞いたら、「幸ちゃんがいけんかすっどじゃねや(どうにかするだろうよ)」と言われたという。確かにちょっと困るのだが、こういう諧謔みがお互い良く通じ合った。

  体調が悪いらしいと聞いたのがいつだったか。弱った風を見せたくもなかろう、直ってから全快祝いをすればと見舞いを引き延ばしているうちに、「亡くなった」と聞いた。少し遅めの時間にお通夜に行った。顔を拝むと様々な想いに圧倒され涙がどっと溢れ出て、嗚咽がのどから突き上げてきた。   

 


(株)家具の山佐与次郎店の建設

 11月のオープンに向けて、建築部としては工期を厳守すべく総力を挙げて建設に取り組んだ。現場監督は権現領(ごんげんりょう)豊君に決めた。通称「ゴンちゃん」、無類の好人物ながら、経験豊かで馬力がある。ごつい武骨な風貌にして、本人が書いた文字や図面を見ると、これが女性が書いたような几帳面なきれいなものでびっくりしたものだ。この困難な現場遂行にふさわしいと思われた。

 ただ一つ懸念材料があって、このゴンちゃん、無敵無類の大酒のみなのだ。何ヶ月かの鹿児島市内でのアパート暮らしになるが、単身では恐ろしいことになりそうだと、生活管理を奥さんにお任せするのが良かろうとお願いした。賢い人なのでお願いして現場事務管理も併せてお願いすることになった。幼い子供二人を連れて、暫く自宅を留守に。現場にいると、奥さんの放送呼び出しが聞こえる。「ゴンちゃん、ゴンちゃん、お電話です」。

 

 この頃鹿児島市内を車で走っているとき、ラジオの市政報告のような番組で、赤ちゃんが便所に産み落とされて(※注)消防が出動、便所の壁を壊して無事救出した、という内容だった。そのラジオで放送された住所が、お産で帰っている妻の実家と同じで、びっくりして実家に駆けつけてみた。うちではなかったがどこかごくご近所のようだった。当方の娘はそれから2、3日して、妻の伯父さんがやっている産婦人科医院で無事誕生した。娘と誕生が2、3日違いの方がトイレで、ということは極めて安産に健康に誕生したということだと思うが、どこかで元気に暮らしておられるはずである。

 

※注 若い人のために注釈をしておく。この時代の一般家庭の便所(トイレとは言わない)は、殆どが水洗ではなく、便槽式で便槽の上にまたがって用を足す。便槽の中では固形物が上を覆っていて、水分は下にある。赤ちゃんが生れ落ちても、赤ちゃんは軽いので恐らく固形物の上に乗っかっていて、危ないことは無かったものと考えられる。

 

 家具の山佐・与次郎店建設は工期内に完成し、慌ただしい開店準備を経て予定通り開店した。開店に際しての状況は、元オンリーワン社長上大迫正氏の「株式会社オンリーワンの歴史」に譲る。 

 

引用 上大迫正著「株式会社オンリーワンの歴史」

<与次郎店出店前夜>

 大きな転換点が来たのは昭和51年(1976年)です。

 同期の佐々木明文氏が家具の山佐の外商部門で大いに気を吐いておりましたが、このままでは地方の家具店で終わってしまうという危機感を強く持ち、将来鹿児島市への出店を考えておりました。正にそのタイミングで、当時鹿児島銀行の高山支店で貸付担当をされていた方から、鹿児島市の与次郎に土地があるとの情報を得ました。土地代は高いが将来値上がりするから購入する価値はあるし、銀行も融資をする用意があるとのことで、トントン拍子に土地購入、建物の建設へと進展しました。恐らくその話があってから建物の完成まで1年かかっていないのではないでしょうか。私の記憶では、当時の家具の売上は3~4億円程度。その時代に凡そ2~3億円の投資ですから、相当思い切った決断であっただろうと推測します。その詳細は残念ながら私には分かりません。

 

 私にとって運命的な巡り合わせが来るのはその時で、51年11月の鹿児島支店オープンにあわせて、山佐グループで初めて産業と家具との人事異動を行うこととなったのです。第一号であり後にも先にも私だけ唯一の例です。

 「青天の霹靂」であります。丁度1年前に子供が生まれており、高山の地に根を生やすべく家賃1,500円の町営住宅に自前の風呂を作ったばかりでした。人事の話があったのが4月頃で、9月1日を以って異動となり早速鹿児島市内にアパートを借りることとなりました。

 なにしろ山佐グループで初めての鹿児島市内への挑戦ですからグループを挙げて協力体制を敷きました。特に夏休みの土木工事が少ない時期には、産業のほぼ全社員が、鹿児島市内の肝属方面出身や知人友人を1軒1軒ローリングし、「11月に家具の山佐の鹿児島支店がオープンしますので、どうぞおいで下さい」と数名1組で「志野焼き」の湯のみ茶碗5個組をお配りしたものです。凡そ2万個(或いはもっと多かったかも)位の茶碗を配って回りました。

 その間、明文支店長と律子専務は、他のメンバーを連れて大川や日田などの家具産地を回りオープン用の商材を買い付けに。私は他社のシステムを勉強するため1週間程度、大分の家具店で研修し、準備に余念がなかったのですが余りにも準備期間が短い上に、私も甘く見ていたものですから、実際にオープンした後はその凄まじさにただただ右往左往するだけという体たらくでした。

 

<オープン初日>

 昭和51年(1976年)11月21日が鹿児島支店オープンの初日ですが、50台程度の駐車場しかない店舗に入りきれない車が延々と道路上に並び、店内はお客様が数珠繋ぎで前にも後にも進めない状態。メーカーの応援なども頂きましたが、ただただ唖然として何も手付かずという状態でした。当然オープン特価ですから、数量限定のはず(例えば30本限定の90cm食器棚19800円など)が倍以上も売れてしまい、メーカーに頼み込んで更に増やしてもらうとか、1ヶ所しかないレジでは、前のお客様の頭上を飛び越えて伝票とお金が飛んでくるという混乱でした。そのとき私は「小売業」を、「鹿児島市という市場」を甘く見ていたことをイヤというほど痛感させられました。

 

 私は、レジにおりましたが、当然経理事務も殆ど手につかず、高山から応援に来ていた「島田さん」という女性にオンブにダッコ。お任せするしか手の打ちようがなかったのが事実です。律子専務は流石に泰然とされていて、深夜1時頃までかけて商品の発注準備、金銭の合わせ方、伝票の整理、配送準備など先導して頂きました。売れ方の余りの凄まじさに4日ほどで一度閉店し、更に1週間くらいかかけて再オープンしました。その他、オープンに関してはエピソードに事欠きませんが、私にとっては殆ど「恥じ」ばかりですので、敢えて封印して思い出さないようにしています。(引用終わり)

(佐々木 幸久)