メールマガジン第91号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(18)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

活発な社員研修 研修所をつくることを提案

 社長からは再々叱咤激励された。眠ったような地方にあって自分たちまでも眠ったような意識や仕事ぶりではいけない、いずれは競争の厳しい都市部で勝ち残っている企業との競合になるのだからと。「大隅インディアンになるな」というユニークな言葉も出たものだ。

 社員たちの見識を高め維持するために、社長から管理者もまた部下たちも外部研修に参加する、させるよう絶えず指示が出た。研修の場で都市部の発展している会社の社員たちと接することで刺戟を受け、気持ちを改める効果もまた確かにあったものだ。

 

 一方部門長としては部門収益を上げることも重要な職責であり、経費削減のために研修費の支出をためらうことは考えられた。そこで社長が決めたやり方は、研修に派遣しようがしまいが、ある一定の基準で最初から研修費を年間予算として各部門に割り付けることだった。

 ただ研修に出かければ受講費はもちろん、旅費も必要である。航空券などは現在は工夫すればかなり安くで入手できるが、当時は非常に高かった。研修費は惜しまないにしても、余計な費用はやはり押さえたかった。同一研修に何人も行くよりは、一人あるいは二人が行って、内容やもろもろの情報を同僚や部下に伝達する。あるいは専門家を呼んで指導を受けるやり方もあるのではないか。とはいっても会社の会議室では電話や来客に呼ばれるなどどうしても気が散る。

 

 そこで小さな研修所建設を建議した。提案としては、会社を離れた場所に和室と台所、ふろが付いた、おおよそ数人から多くて10人くらいが合宿できる総面積30坪くらいのこじんまりとしたものだ。

 最初は首をひねっていた社長であったが、これと思ったことは何事も徹底しなければすまぬのが社長の性分、生まれたばかりの研修所はその後大きく展開した。小さな研修所に同じくらいの面積の玄関とロビーがついて、これに120畳の大広間が付く本格的なものになった。風呂や台所も大きく改築されて数十人の合宿に耐えられるようになり、これまでの研修室だった和室は講師控室のようなものになった。

 

 その後社長の構想は、命がけのライフワークとして若者の全人教育というところまでに深まっていった。大広間では共同生活には不適である。研修所の広い敷地内の一角に、二階建ての良知塾が建設され、社長はその晩年の数年を一年のほぼすべてを若者たちと起居を共にした。

 その時の最初の頃の一人が山佐木材の有馬宏美社長であり、もう一人が、有馬君より2年遅れて入社したヤマサハウスの森勇清社長である。森君は社長逝去後の数年を、この良知塾で後輩たちと生活を共にし、その間佐々木亀蔵の教えを伝え、早寝早起きし、体つくりや勉学に打ち込むなど共に過ごした生活慣習を維持した。

 

 こういう建物の建築にも当時ならではの時代背景があった。あの当時戦前に作られた木造の「講堂」を壊して、鉄骨造りの体育館に建て替える工事が真っ盛りであった。新築工事を受注すれば、解体工事で発生する古い木造の小屋組みを引き取らなければならない。処分する業者もいたようだが、社長はこれをなるべく活用するように心がけていた。入手した小屋組みは寿命が来ていたわけではなく、実にしっかりした頑丈なもので、小屋組のまま倉庫に大事に保管された。当時会社は非常な成長期にあり、建物は常に不足していた。

 一方一年間の工事の合間合間には必ず暇な時期がある。そういう時にこの小屋組みを用いて、必要な社内の施設、倉庫、工場建屋、事務所を建設するのだ。今の山佐産業の本社事務所も、どこかの学校のかなり大きな講堂の小屋組みが基である。研修所の120畳の大広間もそのような由来である。


警察、署員の皆さんとのお付き合い

 かつて社員の事故死があり、労働安全、交通安全は社長の強い信念で、会社としても徹底して取り組んでいた。社員に対する交通安全指導講話を、地元の高山警察署に再々お願いした。署員講師の多くがまことに話し上手で、聞き手の心をとらえて放さず、勉強会の効果は高まっていった。

 警察と民間とのお付き合いでは、警察署管内の商工関係者と警察で作る「交通安全協議会」、「警察官友の会」などがあって、私も長くこれらの役員を務めた。

 

 署員の皆さんとお付き合いする中で、同じ公務員とはいえ県や町の職員とはまた違う側面があった。一言でいうと大変厳しい勤務と考えられた。終夜勤務する当直や、何かあったときは呼集に応じる役目(その日は禁酒が原則だ)も頻繁に回ってくる。まじめな住民との温かい交流がある一方で、向き合う相手には油断のならない無法者もいる。酒を飲んでの理不尽な言いがかりをつけてくる者もいる。そのストレスは大変なものと想像できた。ある時警察の窓口で突然包丁を振り回す者がいたとのことで、その一撃に対処する手軽な木製の盾を提供したこともある。

 

 このような厳しい勤務に対する慰労の気持ちもあり、また愉快な如何にも男らしいさっぱりした気性の人が多くて、よく自宅にお招きした。柔剣道、逮捕術などで鍛えた、若くてあきれるほどに旺盛な食欲に応えるにも、鳥越商店にはお世話になった。素材が良ければ手抜き料理でもおいしいと喜んでもらえたものだ。

 

 あるとき社長から厳しい面持ちで訓戒を受けた。「警察の皆さんとお付き合いするのは良いことだ。ただそれを利用して社員の交通違反などをもらい下げる(無かったことにしてもらう)ようなことは決してするなよ」ということだった。取り締まりは交通事故を起こさないための大事な取り組みで、違反で捕まってこれが身に沁みて、事故を起こさないで済むことになり本人にとっては不運どころか大きな幸いなのだという事である。これには私も全く異論はなかった。

 宴の初めに、社長からのこのような指導を受けたこと、そして自分はそれに全く同感であることを披瀝すると、明らかに眉を開く人がいた。聞くと親しい人から違反の取り下げを依頼されることはたまにあることで、まじめな警察官にとっては非常な心の負担であるらしかった。地域住民との付き合いにはそのようなリスクもあるのである。

 このようなお付き合いは長く続いたので、家づくりの相談を受けることも再々あったものである。

(佐々木 幸久)