メールマガジン第87号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(14)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

企業理念(使命感)の確立  タナベ経営の指導を受ける

 社長がある時タナベ経営の主宰する経営者向けセミナーを聞いて、これにいたく感激、我々にもたびたび受講命令が出た。何事も徹底して行わなければならない社長の性質があって、さらに次の段階として経営指導の年間契約となり、コンサルタントたちが会社に出入りするようになった。同社との長い付き合いの中でも、特に二つの心に残る出来事があった。

 

 一つは昭和46年(1971年)「企業使命感」の確立と、それに関わる諸々のことであり、わが社発展を方向づけた出来事である。

 もう一つは昭和50年(1975年)、「佐多岬国民宿舎事件(部長制の創設と担当部署の総入れ替え)」である。まさにタナベ経営演出、社長佐々木亀蔵主演の劇的な事件であったのだが、時期はもう少し先の事であり、その時に詳しく述べることにしよう。

 

 「郷土が誇る企業を作る」という言葉は、社長佐々木亀蔵の会社経営についての熱い思いを、タナベ経営指導部が受け止めこの表現に集約した。社長は自分の信念をよくもこのようにうまくまとめてくれたものよと感銘、そしてこれがそのまま山佐グループの企業理念(タナベ経営の言葉で「企業使命感」)となった。社長ほどの熱さに欠ける身としては、自分の会社をこのように称する事に、正直いささかの気恥ずかしい思いを抱いた事は白状しなければならない。

 この企業理念のもとに、事業を通じて地域に貢献すること、そしてそのことを広く地域社会に表明する、そして関わる内外の人たちにその志に共鳴を得られることという方針が決まった。この年の10月、タナベ経営が「進発式」と名付けているイベントを実施することが決まった。

 

 社長から表明された企業使命感「郷土が誇る企業」づくりを、より具体的な策として表現する「十の誓い」作りは若手社員たちに任せられた。初夏の頃から秋にかけてこの作業に取り組んだ。タナベ経営からはこの作成のために助言者として、かねての担当ではなく、小森さんという方が派遣された。

 小森さんは他のコンサルタントたちとは全く異なるタイプの方だった。まず寡黙で、最初から自分の考えや意見を言うことが少ない、経営指導の様々な手法、例えばともすればこういう場で使いがちな、カードを用いてデータなどを整理するKJ法なども一切使わない。

 大柄な小太りの方で、フィルター付きのたぱこを更にフィルター付きのパイプに刺して、ぷかりぷかりと吸いながら、皆が熱く議論しているのをじっと聞いている。ひとしきり議論が続いて尽きると、やおら立ち上がり、「君たちが言いたいことはこんな事だろうか」と言いながら、黒板に言葉を書き付ける。まさにその一文が私たちの気持ちにぴったりはまることがあるし、更にやりとりを続けながら得心のいく言葉を紡(つむ)ぎ出していく。

 卒業後には入社することが決まっていた弟二人も、大学の夏休みに、この意義ある作業に是非にと誘って参加してもらった。 

 

 出来上がって、確かに私たちが作ったと思って深く満足したが、事実は小森さんがいなければ今の形に出来上がることは決してなかったと思う。昭和46年(1971年)10月16日に「進発式」を行った。関係官公署、取引先、全従業員が参加、質素ながらも思いも掛けない賑やかな式典と成った。

 


小森さんからのお手紙

 後日この時ご指導を受けたタナベ経営小森寿一さんからお手紙を頂戴している。お手紙自体は見つからないのだが、社内報「やまさ」第3号に抜粋が紹介されている。お手紙を戴いたいきさつも併せて、一頁分をそのまま再掲する。なおこの社内報やまさの創刊については、次回あたりに紹介する。

 

(引用 小森寿一様の手紙 社内報「やまさ」昭和50年1月号から) 筆者注(中略)も社内報掲載のまま

 

お手紙を戴いたいきさつ

 もう会社でも知らない人が半数以上になるでしょうが(筆者注 つまり4年間で社員数が倍以上になったということ)、4年ほど前、十の誓い、監督者憲章を作ったとき、これらが優れたものになる原動力となって下さったのが、当時田辺経営におられた小森寿一さんです。

 この二つを作った時のことはまたの機会に紹介することにして、今日は小森先生からのお手紙を一部紹介します。これは昭和49年度の経営計画書をお送りしたものに対して戴いたもので、約二千字に及ぶ長文のものです。届いたのはもう以前のことなのですが、ちょうど各部門で予算委員会がさかんである時期、肝に銘ずべきご意見かと思います。(社内報やまさ 編集部)

 

 拝啓 秋も深まり皆様方にはご清祥にお過ごしのことと存じます。(中略)

 最近はそちらの様子を聞くチャンスもなくなってしまいましたが、方針書から見ますと量的な面では長期計画を大幅に上まわり、好業績を上げておられる様子で、ご同慶にたえません。この様子ならおそらく全員一丸となって常に難関に挑んでおられることと思い、安心いたしております。(中略)

 

 ただちょっと気になりますことは、私の手もとに御社の48年度の経営方針書がございますので、お送りいただいた49年度方針書と並読しますと、幾分マンネリ化の傾向がでているような感じを受けることです。燃えたぎるような、あの進発式の情熱が、方針書から見る限り、少し薄れつつあるような感じがいたしますがどうでしょうか。(中略)

 量の拡大の時代が終わった今こそ中身の勝負になってきた、と言えましょう。とすれば、あの「グループ十の誓」と「現場監督者憲章」に皆さんがこめられた精神こそ、今あらためて心に銘する時にきていると思います。あの一章一章を読みかえしますと、あれがあのまま全社員の日常の行動の血となり肉となって息吹き、企業経営の根幹となって具体化されるならば、どのような激変の時にあっても、いかなる環境の悪化の中にあっても絶対に後れを取らぬ原動力となることが断言できると思います。(中略)

 

 これまでの量的拡大時期をあらためて再チェック、経営体質内容の面でたらざる面、量的拡大に後れをとっている面をピックアップすることが重要だと思います。(中略)

 そうした熱情が方針なり計画なりに現れ、それを行動に移してゆこうとする力が方針書に表現されてこそ、これからの本物の成長に直結するものではないかと考えます。(中略)

 郷土が誇る企業というのは内容第一、それも人材が中核となることですのでこういう面から掘り下げることはやりすぎることはない、と考えます。(後略)

(本誌編集部)

以上、再掲終わり


若手有望な社員たちが続々と入社

 伸び盛りになると何事も良い方に回転していく。この頃から若い有望な人たちの入社が相次いだ。特に昭和48年(1973年)には後年会社経営の骨格となる人たちが入社した。弟の明文、典明が東京の大学を卒業して帰ってきた。上大迫正氏の入社もこの時である。頭脳明晰で清明な上大迫氏の入社は、当時の会社にとって画期的であった。

 

 この時期の様子を確認すべく上大迫氏に連絡を取ったところ、数年前の平成24年(2015年)彼が株式会社オンリーワン(旧社名「株式会社家具の山佐」)の社長時代、幹部たちに読ませるべく「オンリーワンの歴史」という、40頁を超える大部の手記を書いていたことを知った。さっそく送ってもらい読むと、あの頃の佐々木亀蔵社長の心意気や、成長期にあった会社の様子が活写されている。同時代を共に生きたものとして、違う立場から見た様子がとても面白い。同手記から彼自身の自己紹介と、入社のいきさつの部分を引用する。

 

(上大迫正氏手記「オンリーワンの歴史(平成24年)」から引用)

 

 私は創業家(佐々木家)とは血縁・地縁のない人間です。ではなぜ縁もゆかりもない人間が、佐々木家の家具事業部門である「オンリーワン」という会社の代表をしているのか?

 その「そもそも」を少しお話します。

 

 私は、昭和40年(1965年)「宮之城高校」(現さつま中央高校)を卒業し、同年九州大学の文学部国文学科に入学。専門は「日本国文学」(いわゆる古文で、平安時代の「和泉式部日記」が卒論)です。当然ながら、当時は高校の国語の先生が最も平均的な就職先でした。

 しかし、時代は学園紛争真っ只中。大学全体の卒業式も出来ない上に、唯でさえ就職の難しい時代に就職先として狙ったのが「放送局」。高峰の花で、結果就職浪人となりました。昭和44年(1969年)、卒業の3月末になっても就職先もなく、住み込みの家庭教師先を出ざるを得なくなった私は、とりあえず新聞紙上で見つけた「西南大学生協・書籍部」にアルバイトのつもりで仕事先を見つけました。

 ところが正社員として採用され4月から早速仕事に就きました。この職場は年代も近い職員ばかりで、おまけに「株主」が学生ですから運営主もほぼ同年代の人たちばかり。給与は安かった(ちなみに初任給26,000円)ものの仕事は楽しいものでした。

 当時、大学生協は学生運動の影響で、いわゆる左翼と言われる「革マル」、「中核」といった派閥に別れ、大学同士で「内ゲバ」などという行為が日常茶飯事となっていました。(中略)

 

 しかし、職場自体は居心地がいいものですから、そのまま2年くらいそこにいる間に、「労働組合活動」に携わらざるを得ない状態となりました。学生の生協という、いわゆる左翼運動の中の「労働組合活動」に矛盾を感じつつ、やがて「労組の委員長」に祭り上げられました。そして、入職4年目、どうにも委員長が負担になり始めた頃、昭和47年(1972年)の11月頃に「田辺経営」の福岡事務所で合同面接会があるとの連絡が、私の知人から入りました。彼は、鹿屋で山佐産業の佐々木亀蔵社長と懇意にしており、私を紹介してくれました。現会長佐々木幸久氏と、故人となりました前山佐産業社長木佐貫大史氏が、わざわざ福岡まで面接に出向いてきて下さいました。

 そこで初めて大隅の端っこに、地方企業ながらも大きな野望を持った事業家が居ることを知ったのです。

 「人材供給県として子や孫を中央の企業へ送り出すばかりでなく、優秀な人材を地元に残し、親元で中央並みの生活が出来るような企業を作る」という理念に心動かされ、年末には亀蔵社長に会うために直接伺いました。当時はまだ現在のような立派な建物でもなく、まさに大隅半島の端っこという場所であったにも関わらず、亀蔵社長の果てしなく青くさい夢に大いに共感し、

「私が社長の夢を実現して見せます」

というくらいの身震いするような感激を覚えたものです。当時亀蔵社長60歳前くらいでしょうか。

 

  翌年の3月に前職を辞し高山の地に居を移しました。山佐産業への入社です。同時期に大卒6人が入社という前代未聞の出来事だったと聞いています。現山佐産業社長 佐々木典明氏、家具の山佐(オンリーワンの前身)前社長 佐々木明文氏とは同期の桜であります。その他にも数名の大卒と高卒、合計20名弱が入社し、山佐産業の未来を担うべき人材が丁度揃いつつあった時代です。その意味でも画期的な時期であっただろうと思います。この頃は佐々木亀蔵社長の自伝記「執念」にありますとおり、昭和46年(1971年)10月の田辺経営指導下の「山佐グループ進発式」から丁度3年目の、いわゆる企業としての成人式を迎えた頃で、正に亀蔵社長の念願がひとつひとつ叶っていく時代であったのだと思います。(「執念」をご参照下さい)

(佐々木 幸久)