メールマガジン第88号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(15)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

社内報「やまさ」の創刊

 急速に若い人たちが増えてきた。新しく入社した若い人たち同士でも、あるいは永年勤続して来た比較的年輩の人たちとの間にも、齟齬が出てくる可能性は十分にあった。これを少しでも解消し、様々な立場の社員たちの円滑な意思疎通のために、何か策を講じる必要があると考えられた。社内報を作るのはどうだろう、という発想が生まれた。 

 実は私にはこのような経験があった。中学3年の時に山口隆男先生指導のもと「科学クラブ」が創部されて、1年生から3年生まで20人くらい優秀な理科好き部員が集まった。何かのきっかけで部誌を作ろうということになった。ガリ版刷りの素朴なものではあるが、それでも初歩的な編集作業があり、共同作業がある。大変さもあるが、共に作る楽しさがある。そして何より出来たものを手にした時の喜びや充実感は忘れがたいものだった。その思いは続き、高校の化学クラブに入った同期3人を中心に何号か作った。

 

 元気な若手が増えた今、あのような楽しさ、充実感はわが社でも通ずるだろうと思われた。何人かに声を掛けてみると、中に強い関心や共感を示すものがいる。各部門からこういう人たちが集まって、共同作業をし実際に物が出来ていけば必ず良い効果が生まれると確信した。毎月続けるだけの話題も豊富にあると判断、創刊に向けて主導した。少しでも多くの社員たちに関心を持ってもらうべく、少しく策を弄した。懸賞付きの誌名社内公募をしたのである。 

 昭和49年(1974年)11月号として発刊した創刊号は、記念文集の形式を取った。そして思った以上に社内外の反響は大きかった。誌名募集、決定の経緯を、梅木真美子編集委員が創刊号巻末に書いている。

 

社内報「やまさ」創刊号より再掲

 (引用)

誌名「やまさ」決定の経過

 この度の社内報誌名選出にあたり、「私のこの名称が一番」と自信満々、個々の知恵をしぼつた力作を集約、選出した結果、皆の盲点をついた格好で、渡口氏の案の「やまさ」に決定いたしました。

 この決定結果に対し、歯がみをした面々の中から傑作を数点、紹介します。

 まず「やまさ」に次点で迫った横山氏の呼べば答えられるような皆の協力によって運営される会社をとの理由により「山びこ」、金山氏の社内報を通じて会社、従業員との対話をとの理由により「ふれあい」、望月氏その他数名の推薦の「竹の子」、その他「牛歩」、「オアシス」、「香木」、「山流」、「大樹」、「芽生え」等。

 これらの推薦理由を読んで、感心したり、笑ったり、うなずいたりしながら、選ばれることも勿論だが、このような企画に対して自分なりに進んで考え、協力する事の大事さ、有意義さを感じました。(梅木)   (引用終)

 

 ちなみに梅木さんは地元高山高校を卒業、総務所属の、当時二十歳前後。創刊当時11名の編集委員中の紅一点である。

 なおこの創刊号に、3人が編集後記を書いている。上大迫正さん(第2号からの編集長)、前村一見さん(この当時は製材工場長代理、のちに住宅部営業に転じ、異例の成果を上げる)、私佐々木(創刊号限りの編集長)である。私を除くお二人の文を紹介しよう。

 

(引用)

上大迫正氏の編集後記

 期待していた以上に、誌名の応募点数が多く、佳作揃いであったこと。作文の提出もスムーズで、編集委員としては、大変助かった。遅くまで残ってわりつけや、打ち合わせをした後の、夜食のおいしかったこと。それ以上に、皆で、アーでもない、コーでもないと言い合うこと、これが青春でなくしてなにであろう。(引用終)

 

(引用)

前村一見氏の編集後記

 一気に盛り上がった社内報、私も一言でもと思いのまま記してくれたすなおな気持ち、さすが山佐グループの力強いものを感じました。

 秋の夜長に、文集を書くより昨夜のテレビの続きを見たいと考えがちの人も、人は人の刺激に魅せられ、たまにはペンを取る事も書き終わって何かほのぼのとしたものを皆が味わってくれたようです。

 池に投げた小石が、大きな輪をいくつも作って行くように同志の輪から、はずれぬように次号も皆参加しよう。(引用終)

 


社内報「やまさ」のその後

 創刊号への投稿の呼びかけに社員の半数以上が応じた。すべておおむねそのまま採用したので、創刊号は思いがけず厚いものになった。関係したもの、投稿した社員たちはおおいに手ごたえを感じたと思う。

 そしてそもそもは、社内の円滑な意思疎通の道具として発足した社内報「やまさ」であったが、恐る恐る配布した社外各方面から、意外にも非常な好評を博した。

 毎号巻頭に、社長佐々木亀蔵の、月々の言葉の揮毫と巻頭言が掲載されて、これはかなり評判になった。この巻頭言は後に、「執念」という一種の自叙伝として刊行された。

 また記事も社内のみでなく、各方面の見識豊かな方々にも執筆をお願いし、快く応じて戴いた。次第に営業や広報のこの上ない小道具となって、引っ張りだこになり、急速に部数が伸びた。社内関係向けにはせいぜい数百部あれば足りるものが、発行部数は数千部に及んだ。

 

 こんなことも思い出すのだが、新しく受注した工事の着工手続きとともに、現場担当の社員を連れて、県事務所の工事担当課に挨拶に行った時のことである。社内報にたまたまその社員の誕生日紹介記事が出ていたのを、県の担当者が読んでくれていたようで、それが話題になり初対面とも思えない雰囲気になった。

 また住宅の営業においては、契約前から契約後着工まで、そして工事中、完工後居住されてもずっと、担当者は毎月出来上がったこの社内報を持参する。多くのお客様はそれを待ち望んでいて下さったのである。

 

 社内報を社外報に使うという「矛盾」は、社内で時々問題視する意見が、生まれては消えた。ある時とうとう、社内報、社外報を分離すべきという意見が勝ち、なかなかスマートな立派な社外報ができたが、それを届けられた社外の読者(お客様方)の多くが、「前のを持ってきて」と言ったようである。この時は社外報は数号で停止にならざるを得なかった。

 

 思えばあの頃、人への関心や好奇心は今よりもずっと高かった。また当時人と人との間合いや距離感の取り方が適度であり、いわば人と人の付き合いの練度が、今よりも数段高かったように思う。この社報を通じて、知人が家を作ったことを知れば、素直にめでたく機会があれば見たくもある。といって押しかけて迷惑をかける気は毛頭ない。またもちろん訪い(おとない)を受けた方も、心から嬉しい。

 また親戚、知人あるいはその息子などが勤めていて、それが記事に出ているれば、団欒(だんらん)の中での話題として明るく快い。そのようなことから、少し大げさかもしれないが、地域のかなりの方々から月々の発行日を、「心から」待ち望まれていたのである。

 「社内報」をあの時期あれほど「社外」の人が喜んで読んで下さったのは、社外、社内の垣根が、思った以上に、低かったのかもしれない。「個人情報」というような、一種尖った言葉を認識することは、当時は全くなかったように思う。もちろん時代の経過とともに、それは徐々に変化していったことを自覚せざるを得なくなったのだが。   

 

 平成24年12月休刊(廃刊)となり、純然たる立派な「社外報」にその立場を譲るまで、実に38年2ヶ月、通巻458号に達した。驚異的であるのは、数十頁のこの「やまさ」を、この間一号の欠号も無いのはもちろん、決まった発行日に対して、ただの一号も一日の発行遅延も無かったのである。

 この偉業を貫いたのは、上大迫第2代編集長がきちんと土台を作り上げ、その伝統を受け継いだ歴代編集長、及びそれを支えた編集委員達である。

 

第2代編集長 上大迫正氏

第3代編集長 春田直治氏

第4代編集長 青山正孝氏

第5代編集長 神田稔氏

第6代編集長 佐々木裕隆氏

 

 そして忘れてならないのが、一貫して全面的な協力体制で取り組んでくれた鹿屋市の総合印刷さんである。ちなみにカラー多数を含む約50頁に、あの金額でずっと続けてくれたのは、まさに総合印刷さんの商売を離れた大いなる心意気のおかげであったと思う。 

 ちなみに発行総数を勘定すると、毎月平均5,000冊として通巻458号、累計230万冊になる。金の事を言うのも何だが、印刷代1冊100円を総冊数に掛けると、印刷代だけで2億3千万円になる。その他の直接・間接経費を入れると、所要総経費は少なくともその2倍半にはなるだろう。38年間という長期間にわたるとはいえ、社内教養費+広告費として、その費用対効果は如何であったものか。 

(佐々木 幸久)