メールマガジン第99号>会長連載

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★【連載】山佐木材の歩み(26)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

闘病

 前立腺ガンの当時標準的な治療法だったと思われる外科手術は、本人の強い意思で拒否、内科治療を続けていた。そうこうしているうちにガンが肝臓に転移していた事が分かった。ある私立医科大学付属病院にその分野の手術の名手がいると紹介する人があった。父は母を伴いその病院に入院した。付き添いは出来ても宿泊は出来なかったので、母は入院が長期化する事も考え、病院近くの安宿を探して投宿した。手術を前に息子三人上京、手術前の父の見舞いのあと、その宿に行ってみたが、その余りの粗末さに声を失ったものである。医療費が高額になってもいいように少しでも節約しているというのだ。

 手術の前日に担当医師(教授)から説明があった。悪いところをすべて摘出する、手術はかなりの長時間になるだろうが快癒するだろうとのことだった。しかし思いがけず短時間で「手術中」の赤色灯が消えた。顔を見合わせながら、術後の説明を受けた。開腹したところ手を付けられなかったというのである。ただ本人を苦しめている個所をいくつか手術で補正したので、本人は暫くかなり快調を感じられるだろうと。 自宅に帰ることを何よりも願っていた父に、「退院後家でまず何を食べたい?」と聞いたら、「キビナゴの味噌汁、頭を取らないで」という希望だった。

 確かにほんの暫くの期間であったが、自宅での平穏な静養が続いた。

 

担当部門変更を相談

 「社長に何かあったら山佐木材は潰される」という悲鳴のような声が私の耳に届いた。成長を続けている部門の中にも、当然ながら心無い人もいる。「社長の庇護のもとに、製材部門の連中は業務改善にも努めず、のうのうとしている」という批判が内在していたようだが、社長の留守中それをもろに製材の担当者たちにぶつける者がいたのだろう。

 

 製材部(山佐木材)の責任者は笠木篤徳氏(故人)で、製材業務には精通していて通常の運営には問題ない能力を備えていたが、時代の変化の中で、日々難しくなっていく顧客と、それに直接接する住宅部門が望む変革を、昔気質の職人である笠木さんに期待するのは土台無理な話だった。また後の社長、有馬宏美君も入社数年、未だ二十歳台である。

 製材を除く他の部門は、弟二人を含め後継者として衆目の一致する者たちがずっしりと控えていた。既に六十歳代後半の笠木さんを後継者として考えることは難しい。社長の心中を推し量れば、純粋にこれまで自分の手で直接運営してきた製材部門の行く末が心配でなかったはずがない。ただグループ総売り上げが100億円に達していた当時、他の部門はほぼ等しく30億円前後に達している中、木材部門のみはわずかに5億円の売り上げであった。誰かを後継指名することが憚られ、当面自分で直轄するしかないと諦念の境地にあったことだろう。

 会社の決算期は4月末であり、3月という月は翌年度の人事や予算を立てる時期である。この頃父は自宅の仏間にベッドを置き、蚊帳を吊って寝ていた。3月のある日、翌年度の予算のことなどもろもろ2人のみで打ち合わせる中で、自分を山佐木材の担当にしてくれないかと切りだした。これにはさすがに驚いたようで、「土木部はどうする?」とまず聞いた。

 

 当時高度成長は過去のものになっていたが、それでも私が後継者と目されていた土木部門は、まだまだ利益率も高く、技術者人材の層も厚かった。それについて私の考えを述べた。そして木材部門の運営についても、今現在具体的な内容を持っているわけではないが、グループだけに頼らない技術や商品を開発するつもりであるし、自信を持っている旨も述べた。

 そして今でも私の耳底に残る言葉を発した。「お前がやってくれれば木材部門もどうにかなるかもしれんなあ」。

 後日松岡文夫氏(故人。当時山佐産業顧問、元自衛隊陸将補)が、「大変喜んでおられましたよ。良いことをされました。」と言ってくれた。

 

 なお当時の土木業界を振り返れば、「談合問題」で大きく揺れていた。私もその世界に入っていたのだが、マスコミの論調とは別に、私は必ずしも談合そのものに否定的ではなかった。当時の発注者(役所)は、個々の土木業者の技術力や施工能力を良く掴んでいた。今度のA工事は難関で、〇〇建設などのレベルでは「怪我をする」、つまり工期遅延、赤字、事故などを起こす可能性を懸念するというのである。次の次に発注予定のC工事はもっと簡単で、工事金額もそれほど変わらない、この辺りを狙わせるのが良いのではないかなどとそれとなく漏らされる。

 それらを基に土地勘、発注地域周辺の工事実績などを基に業者間で受注調整するのだ。何より「相互扶助」の精神も基調にあった。ある業者が何かの都合で手元が苦しいことがわかれば、それも参照しつつ調整する。元請で取ることは出来なくても、下請けの名目ではあるが、その仕事の何割かを、ピンハネしないで回してあげることすらあった。もっとも、それを悪用して泣きまねする者が時にはいたものだが。

 ところがこれら良い工事の完成を目指す発注者の基本的意向は、「官製談合」という名のもとに、完全に否定された。そして談合は新たな局面として、政治家あるいはその虎の威を借る者たちの世界に変貌していった。私の好んで居住したい環境ではなくなりつつあった。

 なお山佐産業の門田社長に聞くと、現在の発注、受注状況は大幅に改善されているようで、それならと大いに納得している。

 

父佐々木亀蔵の死

 ガンがついに骨に転移していることが分かった。全身に強い痛みが襲い、普通の痛み止めでは効かなくなった。近くの上園ルミ子先生に往診をお願いした。痛みは激しかったようで、先生が来られて痛み止めの処置をしてくれると「先生が天使に見える」と言っていた。

 次第に痛みへの対応が自宅では不可能となり、鹿児島市医師会病院に入院、死までの三ヶ月余をそこで過ごした。家族でかわるがわる病室に泊まった。7月与次郎ヶ浜で花火大会があって、病室の窓からそれを家族全員で見た。それからほどなく、昭和62年7月30日ついに父の寿命が尽きて、病の苦しさからも解放された。

 

 ガンによる死は脳溢血、交通事故などによる急死などと比べて必ずしも悪い死に方ではないように思う。何より死まで一定の時間があるから避けがたい別れへの心構えができる。ただあの苦痛は本当に見るに見かねたし、自分も出来れば避けたい。

 そもそもなるべく薬を使うことを避けるために、ぎりぎりまで投薬を抑え、痛みが耐えがたくなってから処置する、すると注射以外では苦痛を緩和できない。薬剤が一挙に全身に回って、痛みは一瞬で消えるが、様々な精神的な副作用が見られた。

 

 父の死後苦痛緩和についていろいろ調べてみたが、WHOが推奨する緩和ケアとして、ある方法が提示されていることを知った。それによると麻薬をむしろ積極的に利用する、痛みがあっても無くても一定の時間ごとに(確か6時間ごとに)、適量のモルヒネを摂取するというのである。痛みをこらえない、モルヒネを悪者扱いしないで、積極的に使用する。定期的に、そして注射ではなく経口でというのだ。

 これをもっと早く知っていたとして、お医者様にあるいは社会にご理解を得られただろうか。確かに苦痛緩和には非常に良い方法のように思われたものだが。あれから30年近くたって、今はまたやり方が変わっているものだろうか。 

(佐々木 幸久)絶筆