メールマガジン第97号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(24)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

建設会社と協力業者即ち下請け会社との関係

 建設会社は納入業者や下請けの協力業者に対して発注権を持っている。住宅建設は公共建設などと比較すれば、1件当たりの工事金額はそれほど大きくないものの、件数が多い上に仕事が通年であり、納入業者さんたちは見積もり依頼をすればすぐにも飛んでくる。住宅部の若い人たちまで下にも置かぬ対応をする。まあそれでも経験不足やミスの連発などで、時には軽くあしらわれる者もいないではないのだが。

 

 木材は価格相場のゆるやかな低下により住宅の原価シェアとしては下がりつつあったが、山佐木材の一社指定のようなものだから、最大の取引先である。「協力業者」の一つであることは間違いないのだが、その中で山佐木材は異色なのだ。創業以来のさして広くも無い質素な事務所の一角に社長が坐っている。住宅部門の担当者たちは社長の面前で、何か苦情があったにしても言いにくい、あるいは予算が無いときでも大っぴらに値引き交渉をしたりは憚られる雰囲気になるのはやむを得ないだろう。

 

 また現在ではそんなことは全く無いが、当時は他社製材工場の見積もりが一切取れなかったらしい。業界の重鎮である佐々木社長への一種の仁義だったかもしれないし、見積をしてもどうせ買ってくれないだろうと見切られてもいたのだろう。

 これらのことは住宅部門関係者の心情のなかで、結構大きな葛藤として内攻していたことを知ったのはずっと後のことだった。  


有馬宏美君(現山佐木材社長)の入社

 社長は当時建設業関係の役員と、木材業界では肝属木材組合の理事長、県木連の副会長、鹿児島県森林審議会の委員などをしていた。職務への取り組みは誠実で熱心であり、その信条から我田引水のような事は無かったので、県庁の林務部職員たちは業界絡みの案件などについては相談相手としてあてにしていたように思う。また森林審議会の会長であった鹿児島大学赤井教授などとも、林業や製材のあり方など良く意見交換していたようだ。

 この頃、有馬宏美君(現山佐木材社長)が入社した。当時の県林業部黒田部長は母方の伯父であった。赤井教授の教室(大学院)修了である。私も確たる話を聞いた記憶はないのだが、三人の間で有馬君入社について何らかの話があったとしても不思議ではないだろう。

 


北海殖産様との取引について検討開始

 国家石油備蓄基地建設が進む中で、港湾荷役などを目的とする「志布志湾マリンサービス株式会社」が設立される動きがあった。そしてこれに地元企業二社が参加することになり、一社当たり10%の出資をする事となった。この1社として山佐産業が選定されたのは、故鶴田辰己県議(現鶴田志郎県議の父君)のご配意であっただろう。同社との対応は土木部所管となったので、同社前田利祐社長(親会社日本郵船の九州支店長他の兼務)とは定期的にお目に掛かった。加賀百万石のご当主というお血筋だけに品格は争えぬものがあって、当方関係者一同深く敬意を以て接した。

 

 そういう中で、雑談の中でだが前田さんから私に北海道にある前田家森林(北海殖産株式会社)の話が提起された。8,000haの森林のうちスギ林が3,000haもあるとのこと。当時の私は木材についての知識は全く無かったのだが、この話には大いなる興味を覚えた。色々と内容を確かめ、まず山佐木材の幹部たちに情報を流し、意見を聞いたうえで社長に伝えた。

 社長はその話に、木材のようなかさばるものを国の真北と真南間の流通は考えられないと否定的だった。またどちらかと言えば温帯林で育つイメージのスギが、寒い北海道で育った場合の材質についても懸念があったようである。

 

 ところが当時の鹿屋営林署長は以前道南地区の役所に勤務した事があったようで、この話を耳にして「道南地区はスギ生育の北限であり、幾つかの林分があるが、北海殖産のスギ林は特段に見事だ」と見解を述べられた。その話に一転、とりあえず検討してみようということになった。

 視察兼事前交渉役として、笠木部長、有馬宏美君、そして元下屋久営林署長日高正(あきら)顧問。前田ご当主も現地に赴かれるとのことで、礼儀上私も行くべきではないかと言い立てて、役目違いながら同行することになった。新婚旅行以来の北海道行きに胸が躍った。

 

 函館駅から青森行きのローカル線に乗って、「木古内(きこない)駅」で降りると、明治の頃に建設された風格ある木造洋館があって、ここが北海殖産株式会社北海道事務所の社屋である。

 早速広大な山に分け入り、小川に鱒が遡上しているのを見つつ、立派に育った立木を感嘆しながら見る。山荘のような宿に泊まって、夕食もそこそこに議論が始まる。先方は国有林出身の専務、所長、お二人の現場主任、こちらが先に述べた三人の計七人。現場のことがわからない前田さんと私は議論の輪に入らず(入れず?)、薄暗い照明の下で、議論の様子を横目で眺めながら、酒を啜っているしかない。伐採のこと、木取りのこと、運搬のこと、そしておそらく価格のことなど、時に声が大きくなると「うまくまとまれば良いが」と前田さんがつぶやき、私もうなづくのみ。それでもどうやら話が収束してきたようで、皆が宴席の座に戻ってくる。明日の近くの取引先製材工場で「試験挽き」をする予定であることが披露された。

 

 翌日数本の丸太を試験挽き、一本目に鋸が入って材面が現れると、見事な色味、木目、肌合いが現れて、まさに多くの人が好むスギの見た目の良さがすべて現出した。思わず「おう」と感嘆の声、さらに試験挽きを進めても同様であり、先々代のお殿様が選び抜かれた品種の確かさが証された感じである。まだ価格や細かい詰めなども出来ていない中、当方が話を進めたい気持ちになった瞬間である。当方の反応に先方もわが意を得たりと、とにかく難しい問題はこれから詰めていって、後は双方歩み寄ればいいではないかとの共通認識に至ったのだった。

 先方からも所長、実務の工藤主任など来訪され、細かい交渉や木取りのやりかたなど検討が重ねられた。北と南でやり方が違うことも改めて認識した。遠隔地からの運搬に関しては、ご当主が海運の専門家であることが、大いに貢献した。

 

 半年後の初夏に第一船が志布志港に入港した。最初は年に二隻、その後に年一隻になったものの以来三十数年毎年続いている。なお十年近くにわたって、相互訪問が続いた。先方は全職員と伐採業の親方さんたち、当方は主として製材関係者が主で、時に山佐産業の住宅部門が加わった。こちらはなるべく秋に訪問、次期伐採予定の森林を見る目的があり、紅葉を見ることが出来た果報者もいる。また工藤主任(後に所長)が海でのサケ釣りを段取りしてくれて、私も体験できたが忘れがたい思い出として残っている。

 

 なお年間2隻から1隻に減ったのは、年を追うごとに材価がますます下がり、船運賃を負担することが双方に負担になってきたことと、また住宅工法の変化により、あのような美しい色味を表に出す必要性が減ってきたことによる。残念なことだ。北海道でもっとスギの良さが認識、評価され、北海殖産のスギ材利用が高まれば良いがと思う。

(佐々木 幸久)