メールマガジン第79号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(6)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

追憶番外編 その2

ラ・サール高校の生徒会

 高校に進学すると、中学校科学クラブの同期達と化学クラブの門をたたいた。高校でのクラブ活動は文化、体育系併せて、当時年間活動費が総額で約百万円、その予算割り当てを、先生は入らず生徒会幹部による予算会議で決定する仕組みになっていた。当時の化学クラブの年間予算はこの何年かずっと4,000円で、中学校での科学クラブに比べてもいかにも少ないと感じた。近く開かれる新年度の予算会議に、増額を申請しようとニ年生部員に提案したところ、難色を示された。生徒会は体育系の力が強く、文科系の当部が突出した要望・提案をすると反発を受けて、せっかく永年確保している活動費が減額になりかねない、その時責任を負えるのかというのである。

 

 諦めきれずに三年生のクラブ先輩に、中学校時代の山口先生の元取り組んでいた活動実績を示して考え方を説明したところ、「面白いじゃないか、挑戦してみろよ」と言ってくれた。そこで予算会議への提案を一年生に任せてもらい、これまでの5倍の2万円で予算申請、放課後から深夜まで続く生徒会予算会議に、資料を準備万端整えて、必死の思いで臨んだ。案ずるより産むが易し、私たちが要望した2万円はあっさり承認された。相談にのってもらった三年生が人望のある人で、恐らく生徒会幹部に「今度の一年生は活きがいいぞ」くらいの耳打ちをしてくれていたのではなかったろうか。硫酸一本(500g)が50円の時代であったからなかなか使いでがあった。

 

 結果的に一年から三年生まで、化学クラブの部長をすることになった。どこのクラブでも二年生が1年だけ部長をするのが通例であった。今振り返ってみて、気に入った物事にはとことん集中するが、生涯にわたるバランス感覚に乏しい私の特性が、十数歳にして既に現れていた事になる。


佐々木雄爾先生のこと

 同窓会誌「小松原(通巻33号・平成22年2月発行)」に、佐々木雄爾先生の追悼文が3件掲載されている。私は卒業期が14期なのだが、5期上の9期高元昭紘さんという方が「佐々木先生を悼む」を書いておられる。これを読むとラ・サールに赴任したばかりの新婚の佐々木先生とこの9期の方々が、終生水魚の交わりをなさっていただろうことが伺われる。

 氏の追悼文から先生の略歴を引くと、昭和6年(1931年)に伊万里市の数百年続くお寺の長子としてお生まれになった。昭和29年(1954年)九州大学国文科を卒業、その後同じ学科の後輩の方と結婚なさるのだが、奥様が鹿児島純心高校に国語教諭として採用となり、先生は前の勤務先の高校を辞めてラ・サール高校に赴任された。高元さんも私たちもこのご縁で先生の謦咳に触れることができたのである。私たちが教えを受け卒業する昭和40年(1965年)に退職、長崎造船大学を経て佐世保高等専門学校の教授として、定年まで二十数年勤務された。

 

 先ほどの同窓会誌に私の追悼文も掲載されている。まずその最初の部分を引用する。

「佐々木雄爾先生」
 自信と不安が混在していたあの時期、例えば小林秀雄や、福田恒存の文章を通じて、本を読む楽しさ、文章の奥深さ、そして何よりも自分の目で見て自分の心で感じることの大切さを教えて戴いたと思います。それは不安定な小舟がこれから波立つ海に漕ぎ出す用意に、船底に小さな安定板を付与されたようなものだったという気がします。

(中断・以下は後掲する)

 

 佐々木先生は佐世保高専教授時代に1冊、定年退職後に2冊、計3冊の本を出しておられる。

 

◎「森鷗外 永遠の希求」

平成4年(1992年) 河出書房新社

◎「長明・兼好・芭蕉・鷗外 老年文学の系譜」

平成16年(2004年) 河出書房新社


 

 本についている帯に、以下のようにこの本の紹介がされている。佐々木先生の原稿を前にして、出版社の担当者の感激と心意気が伝わってくる思いがする。なお「老年文学」という言葉は先生が創られた言葉である。

 

帯「甦る古典文学
 古典に老いの光芒を見る
 日本の代表的な古典に、全く新しい、強い光を当てた異色の評論。

 長い間誤解されてきた芭蕉の辞世の句も、鷗外の遺言も、本書によって甦った。」

 

◎「日本の国風(くにぶり)三点セット」

平成21年(2009年)  文芸社

 

 

 

帯の紹介文
表「懐かしき日本の面影 あの情緒、情景はどこへ行ってしまったのか?のどかに過ぎた日々を思い起こさせてくれる本」


裏「あわただしく、めまぐるしい現代人に贈る著作。この小著が、かつて日本の自然・風俗・文化等『国風(くにぶり)』に底流している豊かさをしのぶよすがとなり、読む人にいくぶんかのまどかさをもたらすことを願っているーーーあとがきより」


 

 なお高元氏の追悼文よるとこの本の原稿を出版社に渡して3日後に先生は逝去なさったそうだ。

 

 最初の著作「森鴎外」についてこの本の「序」で、この本を出すことができたのは、「私が三十年以上も前に鹿児島ラ・サール高校の教諭をしていた頃の生徒であった高元昭紘氏の御尽力と、河出書房新社の中野俊一氏、岡村貴千次郎氏のお陰である。この三氏と、三氏にめぐり会えた幸運とに対し、深い感謝を捧げる。」と結ばれている。

 

 これらのご著書を読んでいると、五十数年前海べりの松籟のもと教室で聞いた先生の肉声が聞こえてくるような気がする。
 若いときに先生からは、師としてあるいは十数歳の先輩として社会や己に向き合う青年の心構えについて教えを受けた。今これら先生の著作を通じて、これから確実に迎える死に向き合う、老年の心構えについて教えを受けている気がする。

 

追悼文続き「佐々木雄爾先生」
 手元に先生の三年前のお手紙があります。あるとき何かのきっかけで、会社で出している社内誌を先生のご自宅に送りました。思いがけずそれに対する感想と、文章への批評(文章指導)を書いて送ってくださったものです。
 誰しも必要に迫られて文章を書く機会がありますが、その際の実に貴重なアドバイスだと思い、合掌しつつお手紙の一部を引き写します。

 「(前略)それから、大企業ならばともかく、地方の中小の企業で、『やまさ』のようなレベルの高い社内報を長期にわたって発行し続けるのは至難のことであろうと思います。ご存じかも知れませんが、昇君(筆者注 昇幹夫君筆者と同期)の令兄は九期生で、鹿児島市で産婦人科の病院を経営していますが、彼も、『スペースメール』という病院報を出しつづけています。昨年九月に41号を出しました。『やまさ』も『スペースメール』も、自社のPRにとどまらず、企業を通して社会に貢献するという姿勢を社員や地域の人々に知らしめるという役割を果たしており、大きな意義があると思います。
 そう言う次第で、私も小さな声で声援を送りたくなってこの手紙を書き始めましたが、私に出来ることは、『やまさ』の文章について私見を述べることだけです。
 普通の読者は、筋の通らぬ文章、間違った表現に出会った時、どこがなぜおかしいかはっきり指摘はできなくても、どこかおかしいとかわかりにくいとかいう印象を持つものです。そしてその印象が雑誌の評価につながるので、文章のミスはできるだけ少なくする必要があると思います。」中略

 「文章をチェック、修正するのに文法の知識などは要らないと思います。虚心に、注意深く読んで、おかしいと感じる表現を直し、分かりにくいと感じる表現を分かりやすく言い変えさえすればすむことです。」

中略)

  「昨秋の十四期生の同窓会には出席されましたか。私は、西岡君から誘われましたが、体調不良(肺の持病)のため欠席しました。十四期生の諸君も、はや還暦を迎えられたことに感慨を覚えました。私は来年まで生き延びれば喜寿です。私がラ・サールにいたのは昭和三十二年から四十年三月までですが、あの頃のことを思うと往事渺茫、夢まぼろしの感があります。(略) 一月九日 佐々木 雄爾 」

(佐々木 幸久)