メールマガジン第72号>会長連載

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★【新連載】山佐木材の歩み(1)

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はじめに

 本メルマガの70~71号で座談会の様子が紹介された。

 山佐思い出座談会     ~山佐木材が始まるまで、エピソード0 前編後編

 

 座談会の中で述べている通り、先々代である父、佐々木亀蔵が亡くなって32年。私の山佐木材時代が32年、その前の山佐産業時代が20年、通算52年間を両社で過ごしてきた。

 山佐産業、そしてそれから別れた山佐木材の来歴については、私以外にもう詳細を語る人もいまい。加えて私の歳のこともある。佐々木亀蔵の畢生の著書「執念」を語り始めた当時の父よりも、私はもう数歳の年上になっている。この「執念」に匹敵するほどの難事業になるかもしれないが、始める潮時かもしれない。

 

 なるべく私事を離れて会社のことを主体に語りたいが、かつての時代背景が今とはあまりにかけ離れている。その時代背景を抜きにして、会社の来歴を語り、かつ知ることは不可能と思う。そして時代背景を語ることは私の体験や直接の見聞を語るしかない。しばらく昔話に付き合ってほしい。

 


追想  昭和20年から35年(1945~1960)

 

父との情景

 あれはいつのことだっただろうか。時期はおおよそ秋、もう陽も暮れかけて従業員さんたちもすべて帰っている。父に促されて、自宅に隣接する製材工場の一角に立っている。

 当時小学五年生だった私に、父が諄々と語りかけた内容は、おおむね次のようなものだった。

 この工場の土地の面積が4000坪余りある。

 この面積で農業を頑張っても、一家族が食うや食わずの生活だろう。

 土地は狭く人は多い。皆貧しくて農地を増やすことも難しい。これからも貧乏を抜け出すことは中々難しいだろう。

 今この地のこの土地に工場があって、ここで従業員が50名働いている。つまり50家族が一応の生活を送っている。もっと事業を大きくしてさらにこの地に働く場を作る、それがこの地にとっていかに必要な大事なことか。そのことをよくよく考えることだ。

 

工場の情景

 父子二人が立った場所より奥のほうで製材工場は、一部二階建てになっていた。その二階部分が目立て室だった。製材工場で使う帯鋸の目立て(研磨)を行うのである。一日中目立て機がしゃっしゃっと火花をたてていた。

 目立て室の一角に鞴(ふいご)のついた炉があった。炉に木炭をくべて鞴(ふいご)の手押しポンプを押すと炎が盛んに熾(おこ)る。田町さんともう1人西尾さんというおじちゃんがいて、2人は、鍛冶、板金、はんだ付け、溶接、時には鋼の焼き入れなどもする。

 2人とも親切な人だったから、子供の私には絶好の遊び場で、作業を飽かず眺めていた。時に銅板の端切れ端と硫酸銅をもらって帰り、鉄板に銅メッキをしたり、電池を壊して炭素棒を取りだし、食塩水を電気分解してみたりとたわいのない遊びに興じた。

 

 田町さんは父の父、佐々木佐太郎が戦前、製材の本場静岡から技術者として招聘した人と聞いていた。

 後年つまり田町さんの足下で遊んでいた頃からすると30年以上経った時のことだが、私が山佐木材の社長に就任して暫くして、田町さんが「佐々木家の社長4人に仕え申した(もした=ました)」とポツリと私に述懐された。父の父佐々木佐太郎、父の兄(佐太郎の長子)源一、父亀蔵、そして私である。戦前戦中戦後の、大変な荒波の中での60年以上の貢献であった。

 

教室の情景

 当時は貧しく、教室には弁当を持ってこられない子供がいた。持ってきてもふかした芋を新聞紙に包んだもの、麦や芋などのかて飯に梅干しとたくあんのもの。昼食時には恥ずかしがって教室を出る子や、弁当を包み紙で覆い隠して食べる子もいた。制服の肘や膝にあて布をあてて盛大な縫い跡のある子も多かった。すべてが貧しいなかにもその貧しさは一様ではなかった。

 

 農家の子供たちは家庭の労働の担い手の一員だった。「農繁休暇」というものがあった。田植え時期、稲刈り時期は、子供たちは手伝いを求められ、学校ではこれをやむを得ぬこととして、公休とすることが認められていたのである。

 農家の子供たちは熟練した有能な働き手だった。学校林の下草刈りに行ったときのことだ。級友の女子が実に手際よく鎌で草を刈る。見ていると時々石鹸ほどのちびた砥石のかけらを取り出すと、これを利き手に持って、柄を上にして立てた鎌の刃をシャシャッと研ぐ。これで切れ味が抜群に復活するのだ。愚図な私などが大汗を掻いている間に、その子は楽々と何倍もの仕事をしている。その鮮やかな手際に感心して聞いてみると、毎朝早く家で飼う牛の飼い葉として近くの土手や畔の草を、ひとてご(一手籠)刈って、牛に与えてから登校するのだという。

 

 教室の生徒の数も多く、定員ギリギリの55名で6学級。ある年、新学期早々に転校生が一人増えて、急遽クラス替えが行われて7学級になったほどだった。

 中学校に進むと通学地区が広がった。電気が通じていない地区から通う生徒がおり、夜の自宅での勉強が思うに任せないK君のことを先生が心配して、家庭訪問で親に相談したが、貴重な油を使ってランプを灯して勉強することを、昔気質の父親はよしとしなかったようだ。

 この後、担任の故春田千秋先生が放課後、生徒が帰った後の教室にK君を呼んだ。春田先生はK君にそっとお金を渡した。青いお札、多分岩倉具視の500円だったろう。「これでランプの灯油を買いなさい。親御さんに気を遣わず思い切り勉強しなさい」。60年前灯油はいくらしていたのだろう。たまたま私は一人居残りしていて、少し離れた席からこのやり取りを見ていた。春田先生の静かで穏やかな声が今でもよみがえる。 

 

勤評闘争

 先生方への親の信頼は厚かった。度の過ぎた悪さをすると先生に叩かれる。それを親に訴えると、先生に心配をかけたのか、先生に申し訳ないと親からまた叩かれる。参観日などには、何かあったら遠慮なく叩いてくれと聞かん坊(キカンボ=いたずら坊主)の親が先生と話している声を聞いたものである。卒業後は悪ガキこそが厳しかった先生と無二の付き合いをすることが多かった。

 そのような中、小学校6年生の時、学校で初めて先生たちのストライキがあった。のちにそれが「勤評闘争」と言われるものだったと知った。親たちにとっては驚天動地のことだったろう。

 わが町にはその素地があった。社会党の県会議員さんがおられて、安定した支持地盤を持って連続当選しておられた。小さな町の中でも分断があり、決して一枚岩ではなかったのである。

(佐々木 幸久)