メールマガジン第50号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第7話)

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「これまでのタツオが行く!」(リンク

6.関東大震災被災 

 2月に丸ビルがオープンしてから半年が経過した1923年9月1日、丸ビルの構造設計の担当者の一人であり、山下寿郎(三菱合資会社副技師長)の補佐役に当たる川元良一は、いつも通り机上に図面を広げながら、ある感慨に耽っていた。この半年はまさにあっと言う間に過ぎ去ったと呼ぶにふさわしい毎日であった。誇張ではなく建物は毎日のように問題点が発見されて、その対応に追われていた。もちろん我が国で最も巨大なビルの管理を担当しているわけであるから、仕事には誇りを感じていた。しかし、最近になってそのような問題の発生も一段落しつつあった。たまには、この数年を振り返って感慨に耽るというような、そんな時間が取れるようになった時期でもあった。

 

 そんな矢先に川元は、突然すさまじい揺れと響き渡る大音響に襲われて度肝を抜かれた。20世紀初頭、我が国最大最悪の災害となる、関東大震災(M7.9)の勃発であった。

 揺れはほとんど何かに捉まらずには立っていることはできないほどのものであった。音響の方は、様々な音がよせ集まった轟音ではあったが、おおむね大きなものとしては3種類に分けられた。一つは雷のようなゴロゴロというような音、もう一つは大砲の発射音のようなドーンという低い響き、もう一つはガラガラというものが崩れ落ちる音であった。それらは後で考えれば、最初の音は地鳴りの音、次の音は浦賀沖地震で増設したブレースの破断音、最後の音は、間仕切り壁に多用されたホローブロック(穴空き煉瓦)の崩落音であったのだろうと思われた。 

 

 川元は地震の揺れについては、前年の浦賀水道沖地震の時よりも遥かに長く、おそらくは10分以上は続いたのではないかと感じていた。さらには、その10分の間に最初の大揺れを含めて少なくとも3度の強い揺れを感じていた。川元はこのような揺れ方から考えて、途方もなく大きな地震が東京を襲ったものと想定して、大きな被害が生じているものと覚悟を決めた。しかし被害状況が判明するに従ってそれは、川元の予想を遥かに超えるものであることが、明らかとなった。

 

 即ち、関東大震災による死者は約10万人、喪失家屋は約20万戸にも及ぶ前代未聞の大災害であることが明らかとなったのである。特に浅草から下町にかけての被害は惨澹たるものであった。丁度地震が発生した時刻が昼食時に当たっていたことも災いして、地震の直後に随所から火の手が上がり、下町を中心に東京は文字通り火の海と化したのであった。業火から逃れてさまよう多くの人々の群が、丸ビルに流れ付いたのは夕暮れ近くになってからであった。三菱合資会社は、逃れて付いた多くの人々を保護するために、丸ビルの供用部を解放した。その結果、丸ビルはまさに野戦場と化したのであった。三菱診療所の医師達が怪我人の治療に当たる一方、合資会社社員による炊き出しも行われた。このような三菱の社業を度外視した救助活動は、約半月以上にも及んだのであった。

 

 このような三菱合資会社の対応は、世論の賞賛を浴びることとなり、結果としてその舞台となった丸ビルも、地震に強い建物として記憶に残ることとなったが、事実は異なり、丸ビルはこの地震により、またしても大きな被害を受けていたのであった。

  

図1)北側外壁面の被害 
図1)北側外壁面の被害 
図2)内壁被害のスケッチ
図2)内壁被害のスケッチ
図3)3階の被害平面図
図3)3階の被害平面図
図4)外壁構面のRC補強配筋(図面と解体後の写真)
図4)外壁構面のRC補強配筋(図面と解体後の写真)

 

 復旧及び補強設計は山下、川元等の三菱合資会社の技術陣により直ちに着手された。彼らが最初に手掛けたのは、帝大地震研究所の大森等に働きかけて、丸ビルの固有周期を把握することであった。大森等は、三菱の要請に応えて直ちに測定作業に着手したが、その結果もたらされた値に、三菱の技術陣は愕然としたのであった。というのは、丸ビルの固有周期は、前年の浦賀水道沖地震後に施した補強にも関わらず、工事中の鉄骨のみの時に測定したと同じ、1.1秒となっていたからである。

「またしても、完全に煉瓦とコンクリートの剛性が失われています。昨年の補強は何の意味もなかったということでしょうか。」川元は暗嘆たる気持ちになって、山下に尋ねた。

「補強材が破壊することで、この程度の被害に納まったとも言えるのではないか。いずれにせよ、この地震はあまりにも規模が大きすぎたように思う。致し方無いと言えば怒られるが、むしろ倒壊しなかったことを喜ぶべきかもしれない。問題は補修をどうするかだ。」

「やはり、前回と同じように全ての煉瓦とコンクリートを打ち直す必要があるのでしょうか。」

「当然そうなるだろう。しかも今回は、建物を使いながらの補強となるから、費用が嵩むのも覚悟せざるを得ない。」

 

  そのような状況の中で山下等が立案した補強計画は概ね以下のようなものであった。即ち、

①座屈・破断したブレースを取り替える

②外壁面の煉瓦,鉄筋コンクリートを全て取り去り,新たに鉄筋コンクリートで剛強なベアリングウォールを構築する

③鉄筋コンクリートの耐震壁を新設する

④1~8階の内柱を鉄筋コンクリートで包む

 

 ちなみに、この改修補強により、鉄骨帳壁煉瓦造であった旧丸ビルは、我が国最初の鉄骨鉄筋コンクリート構造として生まれ変わることになる。旧丸ビルを起源とする鉄骨鉄筋コンクリート構造は、日本独特の構造形式であるが、耐震的には極めて優れた構造として、やがて中大規模建築の主流の構法として、定着することになる。

 

図5)内壁構面のRC補強
図5)内壁構面のRC補強

 

 さて、その改修工事に要する補強費用は約500万円と見積もられたが、これは旧丸ビルの当初の建設費総額の2分の1にも及ぶものであった。復旧・補強工事は、東京に本拠を構える日本の有力な建設会社数社に工事を請け負う意思を打診したが、東京の全ての会社は、既に抱えている工事への対応に追われていることと、その巨大な予算を伴う工事のスケールに怖気付き、工事の請け負いを拒絶したのであった。

 山下等は東京の建設業者をあきらめ、さらに数社の地方の業者に打診した所、大阪の大林組から三菱の提示した予算で工事を請け負う旨の回答があった。かくして、丸ビルの耐震補強・復旧工事は大阪の大林組が担当することとなった。そのような宇世曲折を経て、丸ビルの修復補強工事が完了するのは、大正15年7月のことであった。

 補強工事が完了すると直ちに、大森に固有周期測定を依頼したが、その結果は補強後の丸ビルの固有周期は約0.5秒であり、充分な補強効果が確認されたのであった。

 

図6)補強改修後の丸ビル(外装はタイル貼りからモルタル塗りに変更されている)
図6)補強改修後の丸ビル(外装はタイル貼りからモルタル塗りに変更されている)

 

次回予告

 次号では、修復工事後の旧丸ビルの変遷について、阪神淡路大震災を契機に解体されるまでの半生を振り返る。

 

(稲田 達夫)


参考文献)

1)三菱地所社史編纂室編:丸の内百年のあゆみ「三菱地所社史」、1993年

2)三菱地所編:丸ノ内ビルヂング技術調査報告書、1998年

3)震災予防調査会報告第百号丙、1926.10