メールマガジン第43号>社長連載

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★【社長連載】 Woodistのつぶやき(10) 

 「我が国林業七不思議(解題編)

  山元収益が確保できるくらいに丸太価格を上げられないの?」

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私が思う「我が国林業七不思議」

  • 不思議その1.それでもなぜ皆伐するの?
  • 不思議その2.山元収益が確保できるくらいに丸太価格を上げられないの?
  • 不思議その3.再造林率を高める方法はあるの?そして実際にそれは可能?
  • 不思議その4.同じ山を長伐期、短伐期と簡単に切り替えられるものなの?
  • 不思議その5.他の林業国ではなぜ再造林コストが20万円以下なの?
  • 不思議その6.他の林業国ではなぜ伐採費が2000円以下なの?
  • 不思議その7.なぜ我が国で他の林業国並の低コスト林業が出来ないの?

不思議その2.山元収益が確保できるくらいに丸太価格を上げられないの?

 今回はこの「不思議」に取り組みます。

 

丸太価格の推移

 表を見ても丸太価格の乱高下が見て取れます。昭和55年(1985年)頃に最高値を付けたあとは、それ以降30年以上にわたってずっと低落してきています。基本的に木材の供給体制は世界的に安定しているようなので、恐らくこの傾向は今後も続くでしょう。

日本の丸太価格の推移(林野庁資料より)
日本の丸太価格の推移(林野庁資料より)

林野庁での提言

 平成10年(1998年)に林野庁では、戦後始めての森林林業基本法改正に向けて、識者を講師に呼び庁内勉強会を始めました。なぜか私も講師の一員に指名されました。 

 その頃の状況を述べます。長期的に下落傾向にあった丸太価格は、とうとう2万円の大台を割り込み、心ある林業者はこのままでは林業の持続性を維持できなくなると嘆いていました。

 一方でますます存在感を高めて輸入製材品に対して、丸太価格がいくらなら対抗できるものか私なりに試算してみました。製材、乾燥コストを欧米並みに引き下げるなど相当に努力すれば、丸太価格が13,000円なら国産材も、輸入製材品と十分対抗できると考えられました。しかし林業者は20,000円無ければ持続的林業経営は出来ないという、しかしそれを解消する林業、木材産業の構造改革をしなければ国産材時代は来ないというものでした。

 

 そこでこれらの根拠や対策案を盛り込み、かなり意欲的なレポートを作成、長官以下幹部諸氏の前で勇んで提案しましたが、この時は極めて冷ややかな反応しか返ってきませんでした。がっかりして、帰り際当時農林水産政務次官であった鹿児島県出身の松下忠洋代議士のところに立ち寄り、私の提案レポートを渡して帰りました。 

(林野庁で、平成10年12月9日  レポート冒頭まとめ)

勝ち残る国産材 価格ギャップの解消

 林業、素材生産業者は持続可能な林業を維持するためには1m3当たり、当面20,000円は欲しいところである

 国産製材が国際的競争力を持てるための原木価格は、仮定として13,000円である。両者の価格ギャップは7,000円である 

 このギャップこそが、国産材低迷の根幹である

 これを埋めることが出来れば、国産材は再生する

 それに向けて林業の構造改善を行う必要がある (引用終わり)

 

松下政務次官の反応 

 あとでその提案レポートを読んだ松下氏から、思いも掛けず高い評価を受けました。私の提言を「7,000円のギャップ」というキーワードで表現、再々問題提起して下さいました。

 

 森林林業基本法改正については、林野庁が試みていた勉強会ではなく、委員会方式で有識者を交えて根本的に議論するよう後日自民党から強い申し入れがあったと聞きました。法改正のための「基本問題検討委員会」が設置されました。松下政務次官からの推挙であると思いますが、私もこの委員会に委員として参画しました。2ヶ月半で7回というハードなスケジュールの中で、私は自らの予測と提案を基に、国産材の抜本的な国際競争力を作るべく施策を講じるべきことを強く主張、長時間の議論も挑みました。

 しかしながらまだこの時点では13,000円という価格予測は、「そのような低価格はあってはならないこと」、「そのような価格帯にならないための施策を講じるべき」と捉えられていたのです。松下忠洋という希有の政治家は本質を捉えておられましたが、その他大勢は事態を容認せず、結局「7,000円のギャップ」という根本問題への対策は打たれることなく、需要拡大策や様々な林業振興策に政策の大勢は定まりました。

 しかし実態としての丸太価格はこの委員会の翌年には私の予測した13,000円に至りました。為替相場にも依りますが、その後もそれを上下する範囲で国際相場と均衡しています。まさに世に言う「並材丸太は1m3=100$」の世界に入りました。

 円相場は今後も大きな変動要因であり、志布志港から最近急増している丸太輸出にも影響し続けるでしょう。

 

当社の丸太仕入れについて

 製品価格でも熾烈な国際競争がある以上、丸太価格のみを高く設定することは不可能なのです。

 丸太価格は上げられなくても、やり方次第で林業所得は上げられます。

 一昨年曽於地区森林組合さんと「原木供給協定」を結びました。月間1,500m3、価格は原則年間固定という取り決めにしました。この協定は当初から大変好調に推移し、現在では月間2,000m3近い入荷になっています。

 丸太は伐採現場から原木市場を経由せず、直接当社工場に搬入されます。トラック運搬費や市場の取扱手数料も不要で、かなりのコストダウンになりました。曽於地区森林組合では山主さんへの還元もはかり、受け取る立木代もかなり増えたそうです。

 また得られた収益の中から、補助事業と併せて組合でも負担しすべての山の再造林を実施しています。

 

 

若い頃体験した「狂乱物価」の時代

 丸太価格は長期的に安定していると述べました。突然高騰する可能性は極めて少ないと思いますが、世の中は考えられないことが起こるものです。私が若い頃体験した木材や石油の価格暴騰は、もはや社内に体験として知る人はいないと思います。そこで備忘のためにも以下に述べることにします。

 

 今を去ること四十数年、昭和40年代後半私が二十代の頃です。若い人には信じられないと思いますが、「木材ショック」、そして引き続き「オイルショック」という一大事が起こりました。物価は高騰し、それは暴騰とも言っていい水準で、その頃出来た言葉「狂乱物価」に翻弄されました。その後会社では年間30%以上の賃上げをしましたが、それでも物価高騰をカバー出来ないほどでした。

 

「木材ショック」

 木材業は長引く不況で、営林署では国有林の立木の入札をしても応じるものは無く、予算執行に困り切っていたようです。そんなある日社長が営林署に呼ばれました。突然の呼び出しに何事ならんと待ちかねていた社内は、帰ってきた社長の回りに集まりました。浮かぬ顔の社長が言うには、署長からまさに三拝九拝懇願されて、断り切れず購入を引き受けてきた、しかも二山もと言うのです。

 ベテラン役員は「社長のお人好しも度が過ぎる」と公然と非難するし、どうやって損失を最小限に出来るか、社内は騒然となったものです。

 重苦しくも伐採の準備に入り、まさに始まろうかという頃、低迷続きの木材価格が突然上昇を始めました。一山5,000万円で二山、当時1年分以上の量である約1億円相当の木材が、何と2倍から3倍に跳ね上がったのです。

 浅ましいもので社長を責めていた私たちが、今度は儲かる算段に夢中になりました。ところが社長が「この山の木材が続く限り一切値上げせずにお客に提供する」と断固宣言したのです。おおよそ300棟の住宅に相当する木材があったと記憶します。今は建築費に占める木材代の比率は数%ですが、この当時は建築総工事費の20%以上を木材が占めていましたから、暴騰した木材を旧価格で見積もれば、お値打ち感は半端ではなかったはずです。

 現在のヤマサハウスの隆盛は、恐らくこの時の社長の決断に端を発したものと今の私には分かります。

 

引き続き「オイルショック」が

 昭和40年代は土木工事全盛時代で、昭和43年入社の私はこの活況を呈していた土木部に所属していました。入社してすぐ、「これからモータリゼーションで道路舗装が活発になる、一般土木の予算が減額されて舗装工事に重点的に配分されていく」と言う情報をキャッチしました。

 当時当地域の国道、県道などの舗装事業は全国大手2社と地元大手4社で独占的に行われていました。稼ぎ頭の土木工事が減少、舗装工事には入れない、これは大変なことになると思いました。

 

 といって当社が新たに進出することは既存業界と大きな軋轢も懸念され、また数億円の新たな設備投資、技術者の問題があって、社内で反対の声が強かったのは当然でした。

 それでも国道県道を除く町道農道の舗装率は殆どゼロで、これらがすべて舗装化されるならビジネスとして多いに可能性があると主張する若干25歳の若造の提案に、当時の役員さん達が最終的に合意、私が招聘した技術者に現役員を超える報酬や処遇する提案にも、快く同意されたのは立派なことでした。

 

 舗装用合材を作るために必要な重油は、最初20KL入りのタンクを設置しましたが、夏頃には石油の入手に不安の声が出始めたので、急遽50KLタンクを併設しました。

 忘れもしない操業開始直前、昭和48年(1973年)秋のオイルショック。私の泥縄の50KLタンクが出来たばかりで、この時ばかりは随分嘲笑されました。「あのタンクに油が入ることは永遠にあるまいよ」。なにしろ建設現場で生コンを頼むと「生コン車の帰りの軽油を提供してくれれば持って行く」、軽油を準備できない現場には行けない、というほどの逼迫した石油事情でした。

 

 ところがそこに救いの神が現れました。松田さんという知り合いの石油スタンドの親父さんです。「俺が見つけてきてやろう」。半信半疑でいましたが、舗装部門開設の待望の日の朝、12KL積みのタンクローリー(油送車)が5台、2個の石油タンクの横に一列に並びました。大手の石油取扱店がドラム一本さえ調達できなかったのに、一体どうやって?

 あの感激は今でも忘れません。ふんだんにある燃料のおかげで、操業当初からフル操業、初年度に思わぬ好業績を上げることが出来たものです。

 

 以上で七十翁の昔語りを終わります。 

この項終わり

次回は不思議その4.同じ山を長伐期、短伐期と簡単に切り替えられるものなの?

 

 (代表取締役 佐々木 幸久)