M田のぶらり旅・「椋鳩十文学記念館と龍門司焼」

第15回 姶良市加治木町 椋鳩十文学記念館と龍門司焼

 加治木郷土館から仮屋町の通りをさらに西へ200mほど行くと、「椋鳩十文学記念館」と書かれた看板が立っている。案内に従って右に折れたさき、松の木に囲まれた記念館の入り口が見えてくる。

 椋鳩十といえば、『大造じいさんとガン』。小学校の教科書に載っていた。主人公のガンの名前は「残雪」だった。どんな展開だったか。はっきり思い出せないなぁ。などと考えているうちに門口に着いてしまった。そこの木陰に、タイル張りの碑が置かれていた。

  


 

 碑には、銅色の陶板に、椋鳩十が創作する物語の原点と加治木の住まいへの愛着をしたためた随筆「物語のふる里加治木」がとても丁寧な文字で焼成され、はめ込まれてあった。

 私は、まず、この随筆を読んで、家の周りにやってくる動物や鳥の名前の多さにうれしくなった。蛇、ネズミ、スズメ、イタチ、カラス、モズ、ヒヨドリ、三光鳥、ムクドリ、レンジャク。短文の中に動物3,鳥7種が織り込んである。椋鳩十というペンネームが表すとおりに鳥の名前にもくわしかったのだろう。動物や鳥をモチーフにした物語が多いのも頷ける。

 そして、さらに、この陶板が龍門司焼川原氏の手によって焼かれていることから、まちの歴史の深さと椋文学という加治木の双璧を同時に感じとれるような気がした。

 記念館はこの奧に静かに建っている。作品原稿や書斎など内容も豊富で、子供も大人も楽しめる展示がうれしい。児童文学の館で、存分に物語の世界に浸ってみるものよろしいかと。

  

 

 さて、門口の陶板に「龍門司焼」とあった。郷土館で受けた説明によると、

龍門司焼は1598年(慶長3年)島津義弘が朝鮮の役から帰還する際に連れて来られた陶工たちによって開かれた窯が始まりで、1607年(慶長12年)義弘が加治木館に移城したとき、陶工たちも帖佐から加治木に移っている。そうして、義弘の死後も加治木に留まった陶工の子孫が、1718年(享保3年)頃現存する龍門司古窯を創設した。古窯は、昭和30年4月、龍門司焼企業組合の新窯が築造されるまで、二百数十年間にわたり焼成に使われていたという。前述した陶板制作にあたった川原氏は、藩政時代からこの窯を代々主導してきたと伝えられる川原家の継嗣だろう。

 椋文学を堪能したあと記念館を出て、企業組合の窯場に行ってみることにした。地図で見ると県道55号線を鹿児島空港に向け北に4km上ったシラス台地の中腹にある。

 

 

 裏山の木々に囲まれた敷地の、手前に焼成の燃料となる大量の薪が丹念に積まれた焚き物小屋、正面の切り妻平屋建てには販売所と製陶作業場が配置されている。左の暖簾をくぐると、棚にはたくさんの焼き物が、器の機能やデザインごとに分けられて陳列されていた。釉薬の色も多彩で見飽きることはないが、黒釉に青流しは「黒薩摩」と呼ばれているこの窯のイチオシのようだ。

 右奥の作業所では、土間の囲炉裏にくべられた太い焚木がゆっくりと炎をあげている。作業場の基本的な暖房はこの炎なのだろう。さらに奧、ろくろを据えた作業台と絵付けの机がいくつも並んでいた。来場者は職人さんたちの作業のようすや登り窯も見学できる。

 

 

 横長の建屋の裏側、作業所から出入りがしやすい位置に登り窯が造られている。訪れたのがちょうど春の窯出し祭のあとだったので、空になった窯室にはもう熱は残ってはいなかったが、作業のなごりを見ることはできた。新築されてからおおよそ70年を経た窯は、古窯に比べればまだまだ若いのだろうが、木造の煤けた小屋組は美しく、石積みにも風格を感じさせるものがある。 

 

 

 加治木を散策して、あらためて以前から気になっていたこのまちの魅力や楽しみの原点に触れることができたように思う。やはり世の中知らないことばかりなんです。

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椋鳩十文学記念館:午前9時~午後5時 (月曜日・12月29日~翌1月3日休館)

龍門司焼企業組合窯場:年中無休・午前8時30分から午後5時30分(年末年始休業)

参考・引用:

 加治木郷土誌 平成4年11月2日改訂版

 加治木郷土館配付資料

 姶良市ホームページ

 龍門司焼企業組合 パンフレット

(M田)