M田のぶらり旅・「仮屋町通りから加治木郷土館・図書館へ」

第15回 姶良市加治木町 仮屋町通りから加治木郷土館・図書館へ

 天ぷら蕎麦の大黒屋からひとつ南の交差点を西に折れると姶良市加治木町仮屋町にはいる。

 通りの北に加治木高校、柁城(だじょう)小学校と並び、南には大樹に囲まれた家屋敷が残されている。薩摩藩では、主要な城下に麓(ふもと)と呼ばれる武家屋敷群が置かれていた。県内では出水市や知覧などの麓は古い景観を保存しながら、観光地化されたまちには大型バスで訪れる人も多くなっているようだ。

  

 

 加治木の麓、仮屋町を通り沿いに西へと歩いてみよう。

 まず、目に飛び込んでくるのは、学校の通りに面する石垣である。その組み方は豪快でしかも緻密だ。県内にあるほかの武家屋敷群の石垣が四角い切り出し石や、丸石で積まれているのに比べ、ひとつひとつ異なる形の切り石が一分の隙もなく組み積まれているのである。たしか鹿児島市鶴丸城跡の石垣もこんな感じだった。西南の役で放たれた無数の砲弾痕が残るあの石組みに似ている。どちらにも、なにか特別な格の高さを感じさせるものがあるなぁ。

 興味は湧いてくるものの、その品格の高さを裏付ける理由はまだわからない。

 このみごとな石垣を日々見ながら登下校する学生や子供たちは個々の大切さや、ワンチームとなることの力強さを知らず知らずのうちに身につけていくのではないだろうかなどと思いつつ、積み石の手触りを確かめながら歩くのであった。

 

 

 柁城小学校の正門を過ぎるとすぐに「加治木郷土館」と表札のかかった石門が見えてくる。この町の歴史や風物の資料が展示されているだろう。左奧にはおもむきのある木造の図書館も隣接している。早速訪ねてみた。

 

 

 郷土館に入ると最初に藩政時代の加治木を表すジオラマが置いてある。それをのぞき込んでいると学芸員のかたが来て、加治木の伝説や戦国時代から藩政時代の歴史的なできごとについて、展示資料を見ながら実に丁寧に説明をしてくださった。

 いわく、「さっき通ってきた加治木高校、柁城小学校、図書館が置かれている地所を居城として選び、城としての性能を満たすための堀や城壁を整備したのち、御殿を建てたのは、関ヶ原の戦において、撤退に家康軍の中央突破を敢行した島津義弘なのです。その後彼は1607年11月に引っ越してから、1619年85歳で亡くなるまでの12年間、17代目島津家当主として、ここ加治木屋形に住み、執政したのです。」

 なんと、義弘公は73歳で新居城の設計と工事を指揮したのだ。しかも遡ること7年前、66歳で合戦場を命からがら駆け抜けたことになる。恥ずかしながら始めて知りました。同い年であるわたしは、その超人的な身体能力と胆力に、驚き恐れ入るしかない。

 義弘公亡き後、藩政時代を通して、この屋形は島津本家に次ぐ家格を持つ加治木島津家の居城となっていたとのこと。なるほど、ここの石垣と鹿児島のあの石垣がよく似ているのも腑に落ちた。

 三百年以上続く加治木龍門司焼の歴史や資料を始め興味深い展示を堪能させてもらった。

 

 せっかくなので、隣の図書館で郷土誌などをお借りして、教えてもらった歴史のページをめくってみたくなった。図書館と左手に続く研修室(旧郷土館陳列館)は、国の有形文化財に登録されている洋風の木造平屋建て、高い床下、漉きガラスの窓が年代を感じさせる。

 母屋からせり出して設けられている玄関で靴をスリッパに履き替えて、加治木石で積まれた階段を数段上がると、穏やかな光量のなかに静かな空間が広がっている。板の間の床は温かさも心地よく、木製のテーブルでゆっくりと閲覧することができた。そして、授業を終えた小学生や高校生が学校の図書館とはひと味違った空気感を持つこの図書館を愉しんでいる雰囲気も伝わってくるような気がした。

 郷土誌の伝説欄から、どうも気になっていた「柁城」小学校の訓読みとその由来を知ることができた。柁は「かじ」、城は「き」と読めるのだ。これを「だじょう」と音読みさせるのは、やはりこの町の成り立ちに根付いているようだ。

 図書館を出て、もう少し西へと歩いてみよう。

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加治木郷土館:火~日曜日 午前9時~午後5時  (祝日・年末年始休館)

加治木図書館:火~日曜日 午前9時~午後5時  (祝日開館)

参考・引用:

 ・加治木郷土誌 平成4年11月2日改訂版

 ・加治木郷土館・加治木図書館ホームページ

 ・文化庁文化遺産オンライン

(M田)