メールマガジン第47号>稲田顧問

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

★【稲田顧問】タツオが行く!(第4話)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「これまでのタツオが行く!」(リンク

4.旧丸ビル着工

4.1 新工法に対する世間の見方 

 桜井小太郎等の努力により、大正9年7月、紆余曲折を経て、旧丸ビルは遂に起工式の日を迎えた。工事が始まると、大型重機を駆使した米国方式の新工法が大きな話題を呼んだ。

 当時の代表的な構造学者である内藤多仲は、旧丸ビルの工事の状況について、回顧録の中で以下のように述べている。

 「第1次世界大戦で漁夫の利を占めた日本は非常な好景気を呼んだが,ドイツを敵にしたためヨーロッパとの交易がとまり、その余波からアメリカとの交易が盛んになって、アメリカ一辺倒の傾向が強まったといえよう。建築界もその例にもれず、日本の技術は遅れているということから、丸ビル、郵船ビル、日石ビルをはじめ多くの建築を相次いでアメリカに注文した。いずれも設計、施工ともに完全なアメリカまかせで、ジョージ・フラー会社などが進出してアメリカ人のセールス・エンジニアが活躍し、アメリカ式建築が一世を風靡した観があったのである。(省略)いわば速さと経済と簡単さをモットーにしたもので、注文した側はそれみろ、アメリカに頼めばざっとこのとおりと鼻高々で、ああいうふうにしなければいかんというのが当時の風潮というか常識になってしまった。こうしたアメリカ万能の空気の中で、私は大正10年から11年にかけて日本興業銀行、歌舞伎座の構造設計をした。これがビルらしいビルを作った初めである。私は設計に当たって全面的に自分の方式を主張したが、なかなか容れられず,結局アメリカ式と半々で妥協したが、「耐震壁をいれる。」ことと「鉄骨のまわりは必ずコンクリートで包む」ことを絶対条件とした。」

 

 一方、旧丸ビル建設の注文者側に身を置いていた山下寿郎(三菱合資会社副技師長)は、当時の状況を回顧録で以下のように述べている。

「丸ビルが我が国事務所建築として、従来その比を見ないほどの巨大な各階床面積を持つものであるところから、地震動による建物各部位の振動が一様ではあり得ないことを憂慮して、当時の京都帝大日比忠彦の地震動による建物各部位の応力計算法を適用して演算を試みた。採用した震度は0.15で、これによって生じた応力が鉄骨構造の破壊強度に達するも止むを得ないという仮定のもとに、試算して得た数値に基づく構造図を、詳細図に作成、さらに試算の要領書を添えてフラーのニューヨーク本社に交渉におもむく桜井技師長に、アメリカ側に提示されるよう手配したが、この説明書と詳細図とは、遂にアメリカ側に示されることはなかった。」

 これらの逸話を見ていると、当時の巨大プロジェクトの中に居た山下と、外から見ていた内藤では、工事に対する見方・印象は大きく異なるものの、当時既に実践経験を十分に積んだアメリカ式建築に対し、不足する経験を自らの信じる理論で補うことにより立ち向かうとする、当時の第1線の日本人構造技術者の悪戦苦闘ぶりが、まざまざと目に浮かぶのである。

 

4.2 浦賀水道沖地震

 さて、第2話でも述べたように、フラー社の開発した画期的な施工法を前提として提案された契約工期は30ヶ月であり、何事も無ければ大正11年秋には丸ビルは竣工するはずであったが、大正11年4月26日、浦賀水道付近を震源とする大きな地震(M6.8)が東京を襲い、旧丸ビルは1~5階の内外壁に大きな亀裂が生じるという被害を受けた。

 浦賀水道沖地震とは、後になってみれば、関東大震災の前震ということになるのだが、勿論そのようなことは、桜井や山下は知る由も無い。

 東京丸の内の揺れとしては、今の基準で言えば、震度5強程度と思われるが、明治維新以降、東京にはあまり大きな地震は無かったことから、彼らはさぞや驚いたであろうことは想像に難くない。まして、元々地震の無い米国東海岸を拠点とするフラー社の技術者の狼狽ぶりは、相当なものであったようである。この地震による旧丸ビルの被害が如何ほどのものであったかを示す、興味深いエピソードがある。

 

 当時、東京帝大の地震研究所には、大森房吉今村有恒という2人の傑出した地震学者が居た。彼らは、建物の地震による損傷は、振動現象により生じること、および振動現象は建物の固有周期と深く関わると考えていたが、このような見方は、1950年代以降、理論化されたとするのが一般的であることから見ても、大森らの研究がかなり先進的なものであったことが推し量れる。

 大森らは、建物の固有周期が短いほど耐震性が高いという仮説を立てて、多くの建物の固有周期測定を行っており、旧丸ビルについても、工事中(大正10年12月)、殆ど完成時(大正11年2月)、浦賀水道沖地震直後(大正11年5月)に固有周期測定を行っていた。大森らが行った旧丸ビルの固有周期測定結果を表4-1に示す。

表4-1)旧丸ビルの固有周期測定結果
表4-1)旧丸ビルの固有周期測定結果

  

 

 それによれば、殆ど完成間近の大正11年2月に観測した旧丸ビルの固有周期は0.9秒程度であるのに対し、浦賀水道沖地震で損傷を受けた直後の大正11年5月の固有周期観測結果は1.1秒程度まで伸びている。この値は大正10年12月の鉄骨上棟時の1.1秒に近い値である。つまり、鉄骨に帳壁煉瓦を貼り付けることである程度確保されていた耐震性が、地震により殆ど損なわれてしまったことを意味している。

 

 予てより、大森等と親交のあった山下は、この固有周期の観測結果が示す意味の深刻さを、直ちに理解したものと思われる。一方、フラー社の技術者がこの結果をどのように理解したかは不明であるが、予てより、フラー社の提案する柱梁接合部ディテールに疑念を抱いていた山下は、この機を捉えてプロジェクトからフラー社を排し、三菱合資会社独自で被災した建物の改修にあたることを決意したのである。

 

次回予告

 次回は、山下等が、浦賀水道沖地震を被災した旧丸ビルを、どのように補修したか、その苦労と、プロジェクトを何とか完遂しようとする心意気について、考察する。

(稲田 達夫)


参考文献)

1)三菱地所社史編纂室編:丸の内百年のあゆみ「三菱地所社史」、1993年

2)三菱地所編:丸ノ内ビルヂング技術調査報告書、1998年

3)武内文彦編:丸ビルの世界、かのう書房、1985年

4)斉田時太郎著:丸ノ内ビルヂングの構造と振動、建築雑誌(日本建築学会機関誌)、1927年