━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 山佐木材ウッディストのたより  2022/9/30 追悼臨時号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

このたびは弊社代表取締役会長 故佐々木幸久儀の逝去に際しまして

数多くの御厚志を賜り厚く御礼申し上げます。

おかげをもちまして葬儀告別式を滞りなく済ませることができました。

故人への生前のご厚情に感謝申し上げますとともに、

今後も変わらぬご指導ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。

  


 

「弔辞」

本日ここに故佐々木幸久様の合同葬を執り行うにあたり、謹んで御霊前に哀悼の辞を申し述べます。

九月十九日 ご療養の甲斐も空しく、会長の訃報に接し、ご遺族並びに私ども従業員一同落胆哀愁この上なく誠に残念でなりません。

 

顧みれば、昭和六十二年 先代佐々木亀蔵社長亡き後、山佐木材株式会社の社長に就任されましてから、新しい経営感覚で社内の改革を精力的に進められました。その一つが製材工場・木工工場の主だった従業員たちを集め、事業発展のため、今後どのような山佐木材の事業展開を図ればよいか、夜遅くまで勉強会を開き、一年以上にわたり論戦が繰り広げることとなりました。

その中、毎回準備されていた、会長の手料理 ビーフシチュ―の美味しさは未だに忘れられません。

当時勉強会の検討結果として、木材関係の各方面から時期尚早と言われた、国産スギ材の構造用大断面集成材を一つの事業の柱にすることを会社の方針として定め、集成材製造方法の研究と集成材事業を軌道に乗せるべく開発研究をスタートさせました。

 

また製造だけではダメだという会長の先見性に基づいたビジョンの元、スギ材大断面集成材を用いた設計と現場施工を行う事業を開始しました。

忘れもしません。第一号の受注建物として、鹿児島市内にあります城山観光ホテル(現城山ホテル鹿児島)様レストラン棟ホルト建設、途中設計変更する難工事でありましたが、見事に完成することが出来ました。

以来平成の三十数年間にわたって、千数百件の施工実績を残す事業として育て上げてこられました。

ひとえに会長のビジョンと指導力の賜物であります。

 

勿論その間、リーマンショックなど、経営的に苦しい時期を幾度も乗越えながら、会社の先頭を走る会長の御姿はいまでも胸を詰まらせるものでありました。私達従業員一同は、そんな会長の背中をただひたすらに追いかけて参りました。

近年は、新たな事業の柱としてCLT事業の展開、鉄筋入り集成材SAMURAIの開発に強い想いで取り組んでおられました。

 

一方、会社経営を続ける傍ら、木材業界においてもご活躍されました。

戦後植えられた多くのスギやヒノキなど生育する過程で、やがて来ると言われた国産材時代、しかし現実にはこの業界は、長い長いトンネルの中にあり、先の観えない状況でありましたが、平成十七年、産学官の多くの参画者から成る【儲かる林業研究会】を立上げ、林業・林産業の生産性という視点から課題究明にあたりました。

平成二十五年には、【超高層ビルに木材を使用する研究会】の発起人の一人として、これまでほとんど木質構造が適用されることがなかった、非住宅中大規模建物、特に超高層ビルにターゲットを絞り、従来コンクリ-トで構成される床・壁・天井を国産材に置き換えることにより、木材の新たな市場の開拓を通して、国土保全と環境の両面から、問題解決を図ろうとする活動において中心的な役割を担っておられました。

そして、本年一月には、【かごしまJAS材等生産者協議会】の設立に尽力され、鹿児島の森林林業と林産業の架け橋となり、鹿児島に育つ木材の有効活用の道を開く活動を始められたところでした。

 

まだまだ、これからだという時、今月九月はじめに病気が発覚し、ご自宅でのご療養されている間も、これからの活動について構想されている最中でありました。

本当に最後の最後まで奮闘努力されていた姿に対して、畏敬と追慕の念 禁じがたいものがございます。

まさに当社の今日ありますのは、ひとえに会長の秀れた見識と豊富な経験をもとにしたご活躍と、卓越した指導力に負うところが大であります。

 

また私達を取り巻く、木材業界にとりましても、ますます多事にして今後ご指導を仰ぐべきこと極めて多い時期に、急逝されたことはまこと痛恨に堪えない次第であります。会長が生前に残された数々のご功績を振り返りますと、私どもは誠にかけがえのない方を失った哀惜の念に堪えないのであります。 

この上は私ども一人一人が会長から頂きましたご薫陶をそのままに、全力を傾注して社業の発展を図ることこそが、会長のご恩に報いる道であると信じ、その決意を御霊前にお誓い申し上げます。

悠久の空にある御霊の安らかなご冥福を祈りつつ、深い哀惜の思いを込めてお別れのことばと致します。

 

令和四年九月二十二日

葬儀委員長 山佐木材株式会社  代表取締役社長 有馬 宏美

 


 

「弔詞」 

 佐々木幸久君へ

佐々木幸久君がこんなに早く逝ってしまうとは。

「長幼序あり」を誰よりも分かっているはずの幸久君ともあろうものが、先輩の僕を差し置いて、こんなに早く、しかも急に先立つなんて誰が想像できたろう。同じ高校の卒業仲間として君とは半世紀にもわたる長い期間、良く語らい、良く飲んだものだ。

 

君は仕事中毒では?と思わせるほど、山佐産業、山佐木材の発展に心血を注ぐ反面、忙中閑ありでちょっとした時間を作り友人との飲み会に参加したり、仲間作りをするのが上手だった。君とは数えきれないほどの酒席を共にしたが、必ず会社のPRも忘れない愛社精神の持ち主だった。最近は集成材とか、CLTとか素人には分かりにくい言葉を操って、耳にタコができるくらい聞かされたものです。人懐っこい笑顔と分かりやすい語り口に僕らはいつも引き込まれたものだった。

 

飲み方は豪快そのもので、特に「酒」は銘柄にも詳しく、ぐいぐいお猪口やコップを空にする姿は豪快そのものだった。だから飲み過ぎての失敗談も多く、あれは二人ともまだ30歳前後のころだったろうか。高校の同窓の集まりで、僕らは一番の若輩者。君は先輩たちからのお酌を、調子よく次々に飲み干していたが、さすがに限界に達し宴会半ばでダウン。大広間の宴席のど真ん中で大の字で寝てしまった。しかもその「いびき」がまた凄いもので、周りの会話がかき消されるほどの大きさで、先輩たちに「後輩に佐々木幸久なる豪快な人間がいる」と印象付けるには充分な一夜となった。

 

また佐和子夫人も一緒に定期的に七、八人で食事をすることも多かった。幸久君を幹事役に鹿屋市のとあるフランス料理屋で食事した時、幸久君の触れ込みにしてはちょっとお粗末なメニューが続いてしまった。僕らも少し失望した。会計の時、幸久君は少し怒った表情で店主に「金は半分だけ払っておく。残りは会社に取りに来い」と言葉を投げつけた。いつもは温厚な彼の言動だったから、店主も考え込んでしまって反省したらしく、借金取りには来なかったと後日聞いた。あれは正義感が強く曲がったことが嫌いで真っ正直な幸久君の一面を垣間見る一夜だった。

政治にも関心を持ち良く選挙にも携わったが、勝ったり負けたりの中で、彼とは殆どいつも同じ陣営で戦ったのも、今や僕の誇りとするところです。

 

仕事柄 出張の多い君は、家庭はほぼ佐和子夫人任せだったが、昔からかなりの子煩悩で、一粒種の「真理ちゃん」を相当に可愛がっており、酒席にもよく同伴した。彼女の大学入学の時などは飛び上がるほど喜んでいたことなどが懐かしく思い出されます。

 

御父上の亡き亀蔵さんの伝記や社史はごく最近になって既に書き終えたと言っておりましたが、幸久君はあの若さですから、まだまだし残したことは多かったと仕事好きの本人は思っているかもしれません。

大丈夫ですよ、幸久君

君はあんなに立派な家庭の守り神「佐和子夫人」がおられ、会社には「真理ちゃん」が中枢に控えております。

何よりも会社の後継社長の有馬さんは君が誰よりも高い評価を与えていた方で、二人といないしっかりした後継社長と承っております。後顧の憂いは必要ありません。

どうか全ての心配事を忘れて安らかに、静かに、そして暖かく天国からお見守りください。

私共は、今はただただ脳裏から離れない幸久君のご冥福をお祈りするのみでございます。

 

さようなら幸久君。

 

友人代表 園田勝男