メールマガジン第96号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(23)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

会社を支えていた人たち

 昭和50年代初めに分社した当時、山佐木材を支えていたのは丸太調達を含めて工場運営全般を仕切る部長の笠木篤徳氏と、製材の要である鋸の研磨・機械設備のメンテなどでベテランの目立て師、田町常蔵氏そして販売・計理を仕切る田代節子女史である。

 

笠木篤徳さんのこと

 笠木さんは当時すでに六十歳代で、やせた小柄な人で、いわば知謀の人だった。親が大工の棟梁で、本人も若い頃その下で大工修行をしていたと聞いた。丸太を見るとその用途がわかって、その製品の値段から逆算して、丸太の値をつけることが出来る。

 製材の原料である丸太仕入れは、私が子供の頃昭和20年代後半から30年代前半には、工場に直接持ち込まれた。特に月二回の締め切り日には、丸太を満載した馬車が早朝から工場前の道路に、二~三十両、2~300mも列をなすのだ。その横を通って通学したものである。馬車にそう沢山は積めない。それでも月一度持ち込めればそこそこ暮らしは成り立ったはずだ。二回も持ち込める人はかなり豊かな生活ができたと思う。その後原木市場が各地にできて、直接持ち込みは廃れていった。

 

 昭和50年代当時の丸太購入は、国有林(営林署)での立木購入(入札)があるが、これは規模も大きく、公売(当時は払い下げ、あるいは配材と言った)はそうそう頻繁には行われないから一般的ではない。

 普通には市場での入札が主だった。出荷者が搬入した丸太をある基準で一山ごとに並べておく。月に何度かある市日に入札するのである。入札が始まると山の前でせりこが威勢よく、その山の丸太の出どころや樹齢などを告げる。入札は次々に行われるから、事前に下見する必要がある。笠木さんは目利きとして名が知れていたから、彼がどの山に買い気があるかは皆が知りたがる。そういうときの笠木さんの知らんぷり、ポーカーフェイスは見ものだった。

 

田町常蔵さんのこと

 田町さんは、深い目をした物静かな人で、最初工場隣接の、その後歩いて10分くらいのところにできた社宅に、にぎやかで親切な奥さんとずっと住んでおられた。何でもできる人で、生きたウナギや鶏などが到来したとき(これは当時とても多かった)などお願いすれば、するすると魔法のようにさばいてしまう。聞くところによると「闘鶏」の趣味があって、その世界ではちょっと知られた存在だったという。誰から聞いたものやら、その種の大会か何かに居合わせた人が、かねてのおとなしすぎるほどの田町さんからは伺えないほどその場で存在感を漂わせていたという。

 

 私が山佐木材の社長になったとき、「佐々木家代々の社長4人に仕えたことになる」とぼそっと言われた。父の父佐太郎、その長子源市、次男だった父亀蔵、そして私である。職場(工場付属の専属作業場)をふいに訪ねても、いつもこつこつと作業に打ち込んでいた。ただなかなか人とともには仕事ができない人で、弟子を育てることはしなかった。亡くなる寸前まで貢献してくれていた人だっただけに、この人を失ってから後継者づくりに慌てたものである。

 

田代節子さんのこと

 当時30歳代で私と同年、山佐木材で最も若い社員の一人だった。中学、高校の頃はバレーボールに打ち込んでいたようで、地域や時に行われる職域の大会でも活躍していた。回転の速い頭脳と豊富な商品知識で忙しく立ち回り、数々の細かい注文にくるくると応じていた。「大変そうだなあ」と声を掛けたら、「家にいるときよりずっとラク」と笑う。ご主人が肥育牛の畜産を結構な規模で営んでおり、休みの日はその手伝いで大変なのだとか。ご主人は気のいい人で、何度もお宅にお邪魔したものだ。たまたまだろうが何やかやの縁で、彼女やご主人の親戚、縁戚が数人山佐グループ内に在籍していたものだ。

 

 そのほか約50名の純朴な従業員、会社創立以来の者もあり、あるいはその人たちの薫陶を受けた、苦しい時代を乗り切った辛抱強い人たちである。発展著しい住宅部門に続々と中途入社してくる、地元高校などを卒業後都会の建築関連企業に就職、それぞれの経験、体験を積んでUターンしてきた若い人たちとは、まさにその親と子とくらいの間隔があったとも言えようか。

 


 社長の製材業の取り組み

 社長の製材経営については、製材工場に大きなお金を掛けて設備改善する事には消極的だった。売り上げの70%を占める原価の殆どを丸太代が占めている、しかも契約(購入)時に現金払いし、実際に納入する商品になるまでずいぶん時間がかかる。立木買いなら半年以上、市場買いでも二ヶ月以上かの丸太資金は大きな負担だった。設備にまで資金を投じることには多くのためらいがあったようである。

 直接聞いたことは無いが、尊敬する故三原氏が、鹿児島市内製材団地の非常に近代的な大きな工場を閉鎖した、ということに製材工場経営への何らかの懸念があったのではないかと想像する。

 ただ時期が来ればプレカット機械を導入したいという気持ちは早くから持っていて、先行している全国のいくつかの工場を頻繁に視察していた。私も何度か同行した事があって、現時点では時期尚早か、という判断には同意だった。

 

 このようなことから山佐木材の基本的な運営方針としては、木材の最大の需要先である住宅部門に全力で注力して、着工する住宅に、安定した価格で納入するというものだった。幸い住宅部門は期待以上に発展したから、当時としては至極まっとうな判断だったと思われる。

 

 グループ発祥の地である古い事務所が山佐木材の本拠である。役員をしていた建設関連、木材関連の団体の会合や、山佐産業での最小限の時間以外はほぼここに常駐していた。石油ストーブはあったが、他部門の事務所には全て設置されている冷房をここでは許さなかった。工場の騒音、鋸くずの飛散などと併せて、事務員にはつらかったろうと思う。

 ぜんそくの気味があったこともあるが、「暑い現場で働いている社員や職人さんたちのお陰で木材が売れていることを感謝する」という思いはあっただろう。まあ魂胆としては出入りする大工さんや社員達に、木材製品値引きの理由にされたくないということもあったかもしれない。

(佐々木 幸久)