メールマガジン第96号>会長連載

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★【会長連載】 Woodistのつぶやき(53)

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なぜ一町歩は三千坪か

永年の懸案だった

 なぜ一町歩が3,600坪でなくて3,000坪なのか、これが不思議で永年ずっと気になっていた。なぜ3,600坪でないのかと私が思った理由は単純である。

 長さの単位で間(けん)というのがあって、有名な三十三間堂などがあるから、なじみがある人がいるかもしれない。建築の中では今でも使う人が多い。間(けん)より小さい単位として尺(しゃく)があって、1間は6尺である。標準的な畳(たたみ)の長い方の寸法が6尺すなわち1間、短い方が3尺だ。そして畳2枚、1間×1間が1坪である。住宅の間取りを考えるとき、3尺ごと、もしくは1間の方眼で考えると、生活感に則していて頭に浮かびやすいし、升目で建坪数をすぐ勘定出来るから、建築面積を確認しながら建築計画を検討できる。

 

 同じく長さの単位で、町(ちょう)がある。今は使われていないが、歴史小説などではよく出てくる。父が私たち子供に色々なことわざを教えてくれたものだが、その中に「小便1町、く△3町」というものがあった。重要な招集に際し、出がけに催して小便をしていると人に1町の遅れをとる、もし大であれば3町の遅れをとるというのである。私は長尻なので、父の訓え(おしえ)を聞きながら、自分はとても3町では済まないな、10町以上かもなとひそかに考えていたものだ。1町の長さは60間(約108m)である。1町四方の面積が1町歩、と単純に考えた。とすれば60間×60間で、3,600坪になりそうなものだが、実際は1町歩は3,000坪である。

 

 百田尚樹氏「日本国記」を読んでいて、太閤検地に差し掛かった。学校の教科書でも習った名高いこの検地のことをもう少し詳しく知りたいと思ってネット検索した。興味を引いたのが、上西勝也氏の 「史跡と標石で辿る日本の測量史」という著作(ホームページ)だった。

 13章あるうちの第一章「近代以前の測量」に16節あって、その第4節に当たる部分が「検地」で、太閤検地のことにも詳しく触れている。かつて私家版で出されたようで、国会図書館には所蔵されているようであるが、アマゾンでも楽天でも入手できない。大部の著書であるが、有難いことにネットで全文を読むことが出来る。 この上西氏の著書で、私の長年の疑問は氷解した。

 

 氏の著書から太閤検地をまとめてみる。

1.太閤検地は1582年、豊臣秀吉によってはじめられ、十数年かけて全国。

2.全国統一の検地竿、枡を使用

3.農地面積を反(たん)で表示することを基本とする。

4.律令制では1反360歩(坪)だったものを、1反を5間×60間の300歩(坪)に変える。

5.農地を一定の基準で4段階にわけ、米の収穫量から後の社会の基礎になる石高制を定めた。

 

 

農地面積に関する引用   上西勝也氏「史跡と標石で辿る日本の測量史」

  これまでの律令制では土地の面積単位、1反(たん、段とも)が360歩(実面積1,200平方メートル)になっていましたが長束正家の献策により1反を300歩(実面積990平方メートル)にあらためられ、実質的な年貢増収がはかられました。  引用終り

 ※本欄注 歩は坪と同じ面積 1間四方

 

 律令制下では1反は360坪であった。1町歩は10反なので、3,600坪になる。まさに60間×60間ではないか。太閤検地で、何と徴税高を上げるため秀吉の幕僚が提言して、いわば通貨切り下げならぬ面積切り下げとも言うべき、1反360坪から300坪への変更を行ったのだ。米の収穫量が高まってきたことが背景にあったと

いうが、よくこんなことが出来たものだ。

 ふとしたことで永年のひそかな不審がようやく氷解したささやかな一幕である。 

 

 なお1町歩3,000坪であることで都合の良いことがある。1町歩の面積も、1ha(ヘクタール)の面積も、ともに約10,000平方メートルであり、概ね等しいことだ。単位というのは日常の体感で理解できることが好ましい。どちらかの単位でしかわからない、という人と人の間に共通の数量単位がある事は好都合である。

(佐々木 幸久)