メールマガジン第85号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(12)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

石油ショックに先駆けて木材ショック

 時系列から言えば「木材ショック」は石油ショックの1年前に勃発した。ここでの記述が前後したのは、舗装プロジェクトは2年掛かりであり、そのスタートは木材ショック勃発に1年先行していた。石油ショックは舗装プロジェクトと密接な関係があった故に、こちらから先に記述することになった次第である。

 何年も木材価格は低迷したままで、林業、木材関係者は呻吟していた。独立採算であった国有林も事情は同じで、立木の入札はことごとく不落(ふらく=入札で予定価格に達しない)か、入札に応じる業者がいなくて入札不成立ということもあったのではないか。

 ある日地元の鹿屋営林署の署長さんから社長に呼び出しがあった。異例のことであり、皆が案じつつ社長の帰りを待った。帰ってきた社長が言うには、署長に頼み込まれて不落続きの山を、それも二つも引き受けてきてしまったというのだ。社内は騒然となった。

 

当時の情景を過去のメルマガから引用する。

 (2017年4月メルマガ43号 

 シリーズ【社長連載】Woodistのつぶやき(10)「我が国林業七不思議(解題編)より)

 

若い頃体験した「狂乱物価」の時代

  丸太価格は長期的に安定していると述べました。突然高騰する可能性は極めて少ないと思いますが、世の中は考えられないことが起こるものです。私が若い頃体験した木材や石油の価格暴騰は、もはや社内に体験として知る人はいないと思います。そこで備忘のためにも以下に述べることにします。

 

 今を去ること四十数年、昭和40年代後半私が二十代の頃です。若い人には信じられないと思いますが、「木材ショック」、そして引き続き「オイルショック」という一大事が起こりました。物価は高騰し、それは暴騰とも言っていい水準で、その頃出来た言葉「狂乱物価」に翻弄されました。その後会社では年間30%以上の賃上げをしましたが、それでも物価高騰をカバー出来ないほどでした。

 

 「木材ショック」

  木材業は長引く不況で、営林署では国有林の立木の入札をしても応じるものは無く、予算執行に困り切っていたようです。そんなある日社長が営林署に呼ばれました。突然の呼び出しに何事ならんと待ちかねていた社内は、帰ってきた社長の回りに集まりました。浮かぬ顔の社長が言うには、署長からまさに三拝九拝懇願されて、断り切れず購入を引き受けてきた、しかも二山もと言うのです。

 ベテラン役員は「社長のお人好しも度が過ぎる」と公然と非難するし、どうやって損失を最小限に出来るか、社内は騒然となったものです。

 重苦しくも伐採の準備に入り、まさに始まろうかという頃、低迷続きの木材価格が突然上昇を始めました。一山5,000万円で二山、当時1年分以上の量である約1億円相当の木材が、何と2倍から3倍に跳ね上がったのです。

 浅ましいもので社長を責めていた私たちが、今度は儲かる算段に夢中になりました。ところが社長が「この山の木材が続く限り一切値上げせずにお客に提供する」と断固宣言したのです。おおよそ300棟の住宅に相当する木材があったと記憶します。今は建築費に占める木材代の比率は数%ですが、この当時は建築総工事費の20%以上を木材が占めていましたから、暴騰した木材を旧価格で見積もれば、お値打ち感は半端ではなかったはずです。

 現在のヤマサハウスの隆盛は、恐らくこの時の社長の決断に端を発したものと今の私には分かります。   (引用終わり)

林野庁「森林・林業白書」より 昭和47年から丸太価格が高騰
林野庁「森林・林業白書」より 昭和47年から丸太価格が高騰

 多かった「のんかた」

 入社早々お酒(焼酎のこと)の洗礼を受けたことは前に述べたが、その後も誘い誘われよく飲んだ。料理屋で飲むのは社用くらいで、私的な集まりはお宅に伺うのである。それにしてもあの頃の人たちは、実に自然に親しみ、山や海川の恩恵をふんだんに享受(きょうじゅ)していたのだとつくづく思う。今はイノシシやシカのことが話題に出るとすれば、獣害であり女々しいほどの被害の嘆き節である。当時の人たちが森や川に分け入り、獲物を手に入れていた情景を、過去のメルマガから引用する。

 

 (2018年11月メルマガ62号 

 シリーズ【社長連載】Woodistのつぶやき(29)より)

 

思い出に残る風景(昭和40年代中頃)

 土木現場である。堤防の補強工事現場。現場歴3年くらいで、不器用な私も少しは慣れてきた。

 現場作業に従事するのは地元の農家兼業の人が多い。皆10年20年の現場キャリアがある。根が好きなので夜のお誘いは断ったことがない。もっともその頃のお誘いは、「イノシシが捕れたから」、「新そばをとった(収穫した)から」、「牛が良か値で売れたから」など、素朴なものであった。

 焼酎の一升瓶2本くくりをぶら下げてお宅に伺うのである。父のアドバイスで決して手ぶらでは行かない。同じ現場の人や近所の人など10人くらい集まって、賑やかな酒盛りである。猟期であれば、イノシシ、ウサギ、カモ、ハト、キジなど。猟期でなければ放し飼いの丸々太ったニワトリ。その刺身と、骨と大根、揚げ豆腐などの煮染め。

 川魚もある。冬だと寒ブナ。真冬の川に入って手づかみで20㎝以上もあるフナを次々に川船に放り込むのは私と同年のS君、H君である。真冬の時期フナは卵で腹がはち切れんばかりである。鱗だけ落として丸ごと20匹も大鍋に放り込み、味噌で煮込むと卵が金色に弾け、その汁は何とも濃厚で滋味深い味わい。

 夏だとボラの子。川が数㎝のもので黒々としているのを川船から投網でとる。3,4回網を打てば十分である。背越し(骨ごと切る)にしてどんぶりに山のように盛り、酢味噌で食べる。

 (引用終わり)  


信じられないような力持ち

 40年前の人たちの体力は今の人と比べてどうなのか。私の見た信じがたい体力発揮の事例を紹介しよう。

 引き続き同じメルマガから引用する。

 

 現場にFさんという人がいた。私より20歳くらい上か、40代中頃。あの頃大隅地区では地方相撲が人気で、年に何回か各地で素人相撲の大会があるものだった。Fさんは大会荒らしのような存在だったのではないか。まあ整った顔立ちで、肥満体ではなくがっちりタイプ。温厚に見えたし、柔和で皆ともうまくやっている。ただ、「この人は怒らしてはならない」と私も思ったし、皆もそう思っていただろう。

 生コンがまだ始まったばかりの頃で、セメントは現場で常備品だった。セメントの一袋は今は何㎏入りだろう、25㎏か。あの頃は一袋50kg入りだった。

 何のきっかけだったろうか、ある時力比べのようなことが始まった。Fさんがそのセメント袋を3袋、右肩に重ねて2袋、1袋を左腕で左腰にかかえ込んで、堤防の土手を駆け上がって見せたのである。唖然として見守るしかない。なぜそんなことになったか記憶は曖昧だ。誰かがそれに挑戦したんだったろうか、多分いなかっただろう。

                         

 やはり力自慢のHさんという人がいた。元とび職で、鋼索を張る、人肩による重量物の運搬など、文句を言いながらでもこの人がいないと始まらない。ある時Hさんが突然身を翻し、とっさに手近な棒切れをつかんで草原に飛び込んだ。一匹の野ウサギをめざとく見つけて狩ろうとしたのである。まるで野犬のようだ。捕れていればその夜はウサギを肴にのんかた(酒盛り)になっていただろう。

 半年くらい前だったか、会社で町のシルバーセンターに数人の派遣を依頼した。やってきた作業者の中に、何とそのHさんがいた。顔を合わすなりお互い指さし合って、双方がすっかり爺さんになったと大笑いしあった。聞けば94歳という。まだ子供でも作れそうな目つき、体つき、身のこなしである。そういえば助平話の好きな人だった。  (引用終わり) 

(佐々木 幸久)