メールマガジン第82号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(8)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

帰郷

 昭和43年(1968年)春に帰郷した。会社は、特に土木部門は好況に沸き立つようだった。戦後二十年余、全国的な高度成長がようやく辺地、鹿児島の大隅半島にも及んできていた。積極的な社会投資があって、その投資が砂地に水がしみ込むように、確実に社会の利便性を増してきた。投資が確実に効果を生むのである。

 数年先のことだが、町内のある集落の生活道路の舗装工事をしたときの風景である。歩くのがやっとのお年寄りが、工事の様子を縁台から飽かず眺めていた。挨拶して話しかけてみた。「生きているうちに家の前の道が良くなった、有り難い」と、私にまで手を合わさんばかりである。何もかも貧しく、乏しい辺境の地に、国の恩恵が及んできて、住民は心からそれを喜び、感謝した。昭和40年代、まさにそういう時代だった。 

 また当時1ドルは360円であり、輸出には極めて有利であり、国富を富ませつつあった。この為替相場で、しかも外貨はまだまだ乏しく、石油など限られたもの以外の輸入は困難だった。木材は基本的に国内で調達するしかなく、そして木材価格は今では信じられないほど高かった。そして丸太の運搬が、ようやくトロッコ(森林鉄道)からトラック主体に切り替わり、林道建設も盛んになった。

 

林道建設

 鹿児島県において、高山町本城から内之浦町南方へ抜ける林道工事が計画された。国見山系を越える、当時としては規模も大きく、なかなかの難工事だったようである。発注の県庁としては、なるべく地元の業者に受注させたいという意向であったものの、地区業者の規模からみて1つの工区では無理と判断、2工区に分割しての発注となった。それでも果たして工期内完成が出来るものか案じていたと後に聞いた。

 

 私が帰る前の年に、会社はこの林道工事の1つの工区を受注していた。この工事一つで、昨年一年間の工事額を超える規模であり、50人を超える作業員がこの工事に投入され、毎日現場に通っていた。 

 この工事を総監督として指揮していたのが橋口岩夫さんという人で、当時四十歳台、独特の風貌で、一種の怪人であり、傑物だった。この人のことはまた別に項を設けて紹介したい。

 初年度の工事受注後この工事の工期内完成のためには絶対に不可欠だと、当時の会社には不似合いな高額の2台のブルドーザー、そして当時最新式のコンプレッサー2台などの購入を橋口さんが主張し、これが実現した。 

 またご本人も現場への往復の時間を惜しんで、現場近くの家に下宿した。仕事の終了後、あるいは始業前に図面や現場の精査、次の仕事の段取り等に取り組んだ。ちなみにこの家の家主はこの地区に多かった石工さんで、本人と共に、私より一つ年上の息子さんもこの工事にも参加した。50人の作業員のうち半数以上がこの地区の石工や、農家の人たちで、農業の傍ら熱心に作業に従事してくれていた。これら最新機械、地区民挙げての応援などが功を奏して、問題なく工期内に完成した。この工期内完成を見て、県では翌年から1工区での発注に切り替えられた。

  この工事は数年続き、見事高山から内之浦へ林道が貫通した。この現場で数年作業を経験した人たちの中から、優秀なプロの土木技術者、技能者が多数育ち、各地での工事に不可欠の存在となっていった。

 

飲み方へのお誘い

 入社早々から、飲みに来いとのお誘いが続いた。ただ飲もうではない、例えば「雉(キジ)が捕れた」、「猪(イノシシ)が捕れた」、「蕎麦を打った」、「牛が良か(良い)値で売れた」から、「子供の卒業」など子供をだしにしたお誘いもある。何か大なり小なりの慶事や、あるいはおすそ分けの意味合いもあるお誘いであり、出かけやすい大義名分がある。恐らく当時このような集まりが頻繁に行われていたのだろう。呼びかけた人のお宅(座元)には、近くの人や職場の人など数人から10人は集まることが多かった。呼ばれたお返しに誘い返すということもまたしばしばあった。

 

 社長の息子が帰ってきた、お手並み拝見と言うこともあってか、そのような楽しい仲間内の集まりに、私がお相伴にあずかったのだろう。ご亭主、奥さん共々歓待してくれるし、また根が好きだから呼ばれれば必ず出向いた。それが週に2度か3度か、あの頃人と人との付き合いが濃密であり、他に慰労が少なかった事もあるだろう。またかつて無い景気の上向きが、ようやく地方にも及んできた実感も有ったことだろうと思う。

  父からは「誘われるて行くのはよいが、只酒(ただざけ)は飲むなよ」、「みな良い人たちだが、また辛辣でもあることを忘れてはいけない」などと忠告された。健全な長い付き合いのためにも、処世術として大事なことだったと思う。

 

 帰って早々のこの時期、福岡で覚えたタバコをやめた。博多を出るときの送別の宴の際、その当時の学生や自分にも贅沢、と言うイメージがあった、紺色の缶の50本入り両切りピース(ショートピースと呼んでいた)を買って、あの独特の甘い優美な香りを、人にも勧め、自分も楽しみながら大酒を呑んだ。
 翌朝死にそうなほどの気分の悪さだった。酒とタバコ両方一緒にやったら必ず体をこわす、そう思い知った。

 帰ってひと月何回かのお誘いを受けて後、酒のお誘いは断るにしのびず、タバコの方をきっぱりやめた。爾来五十数年呑まない日が無いほどの酒との付き合いだが、今のところ特に自覚する不調が無いのは、この時の判断が若干は利いているかもしれない。

(佐々木 幸久)