メールマガジン第70号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第27話)

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「これまでのタツオが行く!」(リンク

27.博士論文に挑戦

 1992年2月、人事異動があり私は三菱地所の情報系子会社である「メック情報開発(以下MJK)」に出向することになった。それまで三菱地所が開発を進めて来た、構造一貫システム「ASTS」等が巨大化し、将来的に素人集団である地所の技術者ではメンテナンスを行うのが困難になることが危惧されたからである。出向の条件は2年、基本的には自分でプログラム開発を行うのではなく、MJK内に組織された技術システム部のメンバーに開発業務の全てを移管するというのが私のミッションであった。

 

 MJKに出向すると、自分で開発業務をする必要はないのであるから、仕事はかなり暇になった。良い機会と思ったので、先輩の山田周平さん、それから東大の秋山宏先生に相談し、それまで私が行ってきた仕事等をまとめ学位論文にできないかという大作業に着手することにした。

 

 それまで、学位論文にと思い書き溜めた文章が確か80頁ほどあったので、それを持参して秋山先生に論文の指導をして頂けないか相談した。秋山先生の反応は極めて厳しく、「君が持参したものは論文ではなく巷のマニュアルに過ぎない」と言われ、論文とは何かということについて2時間以上、こんこんと説教された。一通り、説教が終わったようなので、恐る恐る、「先生のご指導は自分なりに大変有意義であったと思うので、もう一度是非会って頂けないか」と懇願すると、「何だ、未だやるつもりなのか」とは言われたが、取り敢えずもう一度会って下さることになった。その後も先生にお会いすると、「こんなのは論文じゃない。」とよく言われたのであるが、へこたれない私を見捨てることなく、結局概ね月1回夕方から2時間程度じっくりと論文の指導をして下さった。指導が終わるのはいつも夜の8時頃になったが、不思議なことに一度もお酒などを誘われることも無かった。

 

 そのようにしながら2年半が経過した夏の暑い日、いつも通り指導が終わると突然「稲田君、たまにはビールでも飲みに行かないか」と誘われた。本郷の東大の隣にあった学士会館分館のビアガーデンで、「大分よくなってきたので、そろそろ論文審査の準備を進めよう」と言われた。どう表現したら良いのかわからないくらい、大変嬉しかったのをよく覚えている。

 

 先日秋山先生が亡くなられたという報を聞いた。先生の研究業績が類い稀な事は言うまで無いが、私が特に思うのは学生思い、弟子思いの本当に立派な先生であったということである。学部の3年で初めてお会いして以来、先生との思い出は数多くある。心よりご冥福をお祈りしたい。

 

 MJKに出向して約束の2年を超えて、丸3年になろうとしていた1995年1月16日、三菱地所の人事部より呼び出され、地所に復職するようにと言われた。後で思えば、阪神淡路大震災が勃発する前日のことであった。 

(稲田 達夫)