メールマガジン第65号>西園顧問

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★【西園顧問】木への想い~地方創生は国産材活用から(47)

 「ネパールを旅して――水問題と森林(後編)」

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 1124日。前日は、ポカリ空港から首都カトマンズを通り、更にナダルコットまでの悪路を10時間近くも走り、やっとホテルに到着したのは深夜となり、ベッドインしたのは午前1時過ぎになった。しかし今朝は、夜明けの明るさに目が覚め窓の外を眺めると、絶壁に建つ眺望の素晴らしいホテルだと知ることとなる。窓から見える向い側はヒマラヤ山脈だがうっすらと霞み、神々の山々は輪郭しか見えないのが残念だった。隣部屋の同行者も絶景に気付き起き出したようで、部屋のテラスに出て断崖の向い側の眺めを楽しんでいる。結局皆は寝不足も気にせずに起き出し、活動を開始することとなる。内装に木材を上手に使った眺望絶佳の食堂の窓際に陣取り、前夜の疲れも忘れての朝食となり、「昨日の昼と夜の粗食」を取り戻す事となった。長時間の昨夜のマイクロバスの乗車で、体のあちこちが痛いがカトマンズに泊まらず、諦めずに当初の予定通り此の素晴らしいミスティック・マウンテンホテルまで走った事は正解だったと皆の意見が一致する。女性陣の興奮気味のおしゃべりを長々と聞きながら、美しい景色に囲まれての美味しい朝食を楽しむ事が出来た。

ホテルから見えた景色
ホテルから見えた景色

 

 ホテル出発前に、フロントで「この新しいホテルは素晴らしかったと、日本に帰ったら旅行社に報告したい。ホテル紹介のカタログが欲しい」と要請すると、「わざわざ帰る時になって、何故案内ガイドが要るのか!」と、訝しそうな顔で奥から1部だけ持って来てくれる。(このあたりでも、日本人との考え方が違う国民性を経験する事となる。)

 

 ホテルを出発し、急坂の大パノラマの段々畑を眼下に眺めながら下り続け、90分を掛けてカトマンズ市街地へ向かう。途中で稲干し作業や、真っ盛りの菜の花畑の景色を眺めるが、長閑そのものだった。ガイドは「ネパール国民は、花より食材としての菜種に関心が高く、健康的食材かどうかも話題とはならない」と説明する。遠くに見える山の緑は淡く、痩せた松林の中に満開の山桜が点在している。

 

 ネパールでは水の確保が大きな社会的問題であって、まだ国土の大半の水道は未整備だそうで、「水配達ビジネス」が繁盛しているそうだ。各家の庭には容量7000Lの黒色ポリタンクが設置されていて、「満水で2500ペソの生活用水を購入」し、1か月を過ごすのが標準家庭との事だ。だから洗濯は手洗いが当たり前で、大量の水を使う洗濯機は一般家庭には贅沢過ぎて普及しないそうだ。生活用水の確保が大変だから、日本では考えられない洗濯に女性は苦労しているようで、農地や山の植生にも水不足の影響が顕著に見て取れる。

 

 ネパール国内は鉄道が敷設されていないため移動は車が中心となり、街中の道路には車の隙間をバイクが埋め尽くし溢れている。一昔前の自転車中心の時代から、近年はバイク主体へと急変化しているそうだ。バイクは日本のホンダとヤマハが人気機種で、車もバイクも国内にはメーカーは無く、自動車類の輸入関税は260と高率で、バイクの販売価格も20003000$との話だ。インドで生産される小型輸入車のスズキが最大シェアーを占めていて、次に多いのがトヨタとヒュンダイ(韓国車)が目に付いた。国民所得は月平均23万ペソに比べて、ガソリン1Lの代金が120ペソ1ペソは約1円)とは、車関係や水代の負担割合が如何に大きいか判ろうと言うものだ。

 

 宗教はヒンズー教(シバの神様)が多く、次いで仏教で両方を合わせて9割で、キリスト教やイスラム教はごく小数派だそうだが、無宗教徒は少ない信心深い国民との事だ。

 

 ガイドが時間をヤリクリ調整してくれて、昨日見学予定だった世界遺産のダルバール広場を訪ねる事が出来た。1618世紀に建てられた4階建て建物群の路地の中を歩くと、歴史遺産の街中で暮らしているネパール人の逞しい生活状況が見えてくる。

 

 旧市街地の中央部に噴水跡が何か所も残っていて、歴史的にも「水確保がネパールの重要課題だった」事が判る。ガイドの説明によると「水の歴史は、川→井戸→噴水→水道へと発展している」とは判り易かったが、現状でも水道普及率は未だ1割以下とのことだ。公共広場の建物周辺には高齢者が日長たむろしていて、「日本の通所介護の街中番だ」と思いだされた。建物は煉瓦造木材を組合せたものが大半で、4年前の大地震で大きな被害を受けたそうで、再建途上であった。なかでも「クジャクの窓の木彫り窓枠は、実に丁寧な造作で歴史的にも価値の高いものだと思った。

 


 

 見学者が列をなしていた「クマリの館」には、「生き神様」(高貴な家の美しく利発な女児が選ばれ、神となるための祈祷力を習熟させる伝統制度)が住まされていて、「生き神様のブロマイド」を何枚も買う女子学生達が並んでいる姿は、日本の若者のアイドル崇拝と同じに見えた。

 

 遺跡群の人混みの中を歩き疲れた所で、日本人冒険家の三浦雄一郎氏がネパールに来たら必ず立ち寄る店で、その店主は日本語も上手で値切らずとも良い「正札販売の土産店」だと紹介されて案内してもらう。同行者の旺盛な買い物の真似は私には出来ないが、土産に「民芸玩具マニ車」と手作りスプーン&フォークと、孫共への麻製の民芸鉛筆ケース、90%カカオチョコ等を買う。それから遅い昼飯に屋外テラスの店へ入り、皆で「野菜鍋」を囲んだが実に美味かった。今回の旅では「ネパールは野菜料理の食べさせ方が上手い国だ」と感心させられた。

 

 ネパールの首都カトマンズ市の人口は約500万人(ネパール全国で3,000万人)とのことだが、交通信号は本当に珍しく、皆で見つけては「3か所も発見!」と喜ぶほどだった。(ポカリでもカトマンズまでの道路でも、全く見かけなかった。)市中心部の片側三車線の大通りでは所々に警官が立って居て、横断道路に歩行者が溢れると頃を見て車を止め、集団が塊となって歩き出す様子は印象的だった。交通ルールは無いに等しい状況だが、交通事故はほとんど無いとの事で日本では考えられない話に驚く。

 

 交通規則が厳しい日本では事故が多く、交通安全ルールの無い様なネパールの方が事故は少ないとは、何故なのか考えさせられた。「運転手も歩行者も、自分の安全は自己責任との習慣が身に付いているから」なのだろうか。広い道路に溢れて走るバイクは二人乗りが多いが、なかには家族4人乗りのバイクも時々見かけた。私がガイドに「事故に合わなければ良いが!」と心配そうに話しかけると、彼は「心配無用です。この国の人は、自分の命は自分で守るのが当り前ですから」と笑っていた。


 2008年の王政廃止までの宮殿だった「ナランビアン王宮博物館」前を通り、更に別の地区の世界遺産・バクタブル地区も訪ねる。こちらは更に古く1416世紀の建物群が残されていて、ネパールの歴史と古い街並や建築物を保存する事の大切さを感じた。4年前に起きた地震で倒壊した寺院の復興現場は、中国共産党の国旗が周囲を囲み掲げられ、「中国が復興に協力」の政治的な宣伝看板が、これ見よがしに並べられている。(日本政府の支援も多岐に渡っているそうだが、中国の様な派手な宣伝はしていないそうだ。どちらが良いのかは今回は考えない事にしたが、それが日本人の問題なのかもしれない。)

 

 「風の旅行社」が経営するホテルで一休みして、最後の夕食の席に「ネパールにもラーメンが有るのか?」と尋ねた。すると「地元民はあまり食べないが、野菜スープ系ラーメンがある」との話で私は挑戦してみた。結構に美味いのに、何故メニューに載せないのか不思議に思った。

「風の旅行社」のPRITHBI社長が挨拶に出て来られ、ビールとアイスクリームを馳走になり、暫くの懇談となった。ネパールへの日本人旅行者は「関空との直行便」が飛んでいた時期はかなり多かったそうだが、直行便の廃止後は減少し、現状は年間3万人弱とは少ない。

 

 「日本人の観光客増加対策」への意見を求められたので、「ネパールと日本の地方都市との姉妹都市の締結状況」を尋ねた。するとポカラ市と長野県松本市、それに奥地の蕎麦産地の町と富山県砺波市等と事例は少ないとのことだ。直行便の開設は日本政府に働き掛けるしかないだろうが、「ネパールの各地方と日本の地方都市との姉妹都市を増やす事が、相互交流人口を増やす早道では!」と提案する。両国の特徴ある地方の街同士なら、姉妹都市の候補探しも難しく無いだろうし、地方行政の方が交流には熱心に定期的に取り組むだろう。姉妹都市の締結例を増やせば、それが直行便開通への動きにもプラスに影響するのではと申し上げた。更に「地元産の酒は?」と私が聞くと、「自家消費用としての焼酎は有るが、それ等は土産物用としては売っていない」との返事だった。私が「せっかくだから」と所望すると、「旅行客から希望されるのは初めてだ」との話だったが、特別に「40度近い米原料の泡盛・ロクシー」を奥から出して来てくれた。話題にした事で珍しい焼酎を賞味出来る事になった。

 

 その席で、55年前の私の経験を話す事となった。「鹿児島でも当時は先輩達の9割から、東京に学び帰省した君達若者が田舎の焼酎を飲む様では、鹿児島の発展は無い!」と注意を受けたほどだった。そんな状況の中から始まった「芋焼酎を特産品へと発展させた苦労の歴史と努力」を話すと、私より若い同行者も驚いた顔で聞いていたが、地域興しとか特産品造りは、その地域の人達による継続的な努力が重要」との話の場となった。(今では芋焼酎の人気は、皆が努力して成し遂げた事になっているが、実情はかなり違うのだと私は言いたい。)

 

 ネパールではウォーターメロンジュースが、今回泊った2軒のホテルとも出てきたが、日本のスイカ所である指宿市の徳光熊本市の植木では見ないのは、日本人には味が淡泊過ぎるからなのかと思った。しかし九州の西瓜特産地でも、時間を掛けて諦めずに挑戦したら、地域の新しい特産品が生れる可能性も有るのではと考えた。

 

 宗教上から地元の人達は豚肉や牛肉を食べない国だが、鶏肉料理は多かった。またネパールで遅れている水資源の開発道路整備には、日本の地方の事業者でもJETROJICAと協力して取り組めば、アジアの他の国々を含めて十分に進出可能な分野なのではと思った。

 

 予定より早めにカトマンズ空港に着くと、ターミナルは大変な混雑ぶりだった。少子高齢化と働き手不足で衰退の著しい日本の地方の街に比べて、真面目そうな若者が溢れている状況を見る。実直そうな青年達に見えるから、ネパールの人達へ少し丁寧に教育すれば、現在の平均的な日本人並には十分に成長するのではと思った。日本では「外国人労働者の受入れ緩和対策法案」に野党が反対するが、それは「現政権を混乱に落とす作戦だけなのか、又はアジアの国々の実態を知ろうとしないからではないか」と思われてならない。今回のネパール旅行では、アジアの他の国々で心配するような「置き引きやスリや押売り」等の話に出会わなかったし、国民のマナーも悪くはない国と感じた。

 

 搭乗前の手荷物預けや通関手続き等は長蛇の列で、並んでいる間に同伴者達が据付けの無料サービスの浄水器の水を飲んだ。私はビールを飲んだせいもあり何となく我慢した。結果的に飲まなかった私だけが下痢を起こさずにすんだ。ネパールは「水問題が社会基盤整備の重要課題だ」と改めて知る事となかった。2315発のほぼ満席のキャセイドラゴン機で香港へ向け出発し機中食も出たが、4時間前に食べたので食欲は湧かなかった。機内の欧米産ビールは美味くないのでアイスクリームだけ食べて、そのうちにウツラウツラし始めた。

 

 1125日。空が明るくなり始めた香港空港に600到着し、日本への乗換え搭乗口までの長い距離を移動させられる。広くて奇麗な飛行場は、昨日までのネパール国内の飛行場とは格違いだった。同行5名は機中でも下痢状況が続いたが、私だけは無縁だった。昨日まで元気一杯だった同行者が、最終日に急に大人しくなった訳だが、ネパール人は何ともないのだから、「日本人の体質低下が水当りの原因」とも言える。日本人はもっと逞しく育たないと、世界と伍して行けないのではと思ったことだ。

 

 香港空港ではFB通信が可能となり、私が発信していたネパール旅行報告に、チェックと返信が入っている。スマホ等の通信機器の操作能力のレベルアップの必要性を改めて再認識する。乗換えした香港~福岡便もほぼ満席で、中央席で外の景色も見えないし寝不足もあったせいで、ウツラウツラしている間に福岡空港に着いた。空港到着後の通関は日本人が少なく、外国人が数倍多かった。日本人窓口だけ「顔認証式の通関手続き機械」が試験的に導入されていた。私は初体験だったが、なるほどこれなら人手は不要となり、通関時間も早くなる。今や「人間の目や手よりも、発達して来たAI装置を活用する時代」が動き始めている事を実感する。

 博多駅から新幹線で鹿児島に帰り自宅で焼酎熱燗を一杯やると、「やはり私は鹿児島県人だ!」と変に納得した。

 

 ネパールでのガイド中に、RAJESH氏から「2年間の日本での私の研修期間で、日本で感心した事は、まずは交通機関の運行時間1分単位で正確で、更にボスが時間を守る事だった。更に水道水が何時でも何処でも美味しく飲めて、山の緑が奇麗だった事」等の話が出たが、日本人の気付かない長所の一つに「山の緑が奇麗」も教えられた。そんな日本の山の緑を維持し続けるには、山の生産物である木材の利用促進と、更新のための再造林に努力する大切さを考えさせられる機会となった。

 

 今回の旅はトラブルにも数多く出会った事で、「日本人の私達が気付かなかった、日本の良さを再確認できた旅」ともなった。皆さんも華やかな国々にだけ旅行するのでなく、世界一のエベレストやヒマラヤ連山を見に行く「ネパールの旅」へも挑戦しませんか。面白い体験が出来ました。

 

 

 (西園)