メールマガジン第56号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第13話)

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「これまでのタツオが行く!」(リンク

12.震災後の動向(1923年11月)

  未曾有の大災害となった関東大震災の後の、首都復興に向けての我が国の対応はどうであったのだろうか、その動きを少し見ておくことにしよう。

 関東大震災勃発後復興に向けて、内務省は2つの大きな組織変更を行っている。一つは、東京帝大教授であった佐野利器を帝都復興院の建築局長に任じ、首都東京の復興における耐震対策の総責任者に当てたことであった。もう一つは、地震防災に関するの常設の調査機関である震災予防調査会の座長として、早稲田大学教授の内藤多仲を当てたことであった。

 

 調査会は、丸ビルを始めとする主要なビルの被害状況を、壁面・床等に展開して、亀裂等の存在を克明に記録した(図1参照)。そして被害の少なかった建物と、特に被害の大きかった建物を比較分類することにより、今後の耐震設計のあり方を検討する資料とした。

 

 その際調査会の報告書で取り上げられた被害の少なかった建物の例を上げれば、日本興行銀行東京支店と歌舞伎座等がある。これらはいずれも内藤考案の耐震壁を効果的に設置した建物で、この方式が関東地震に対して功を奏したことから、その後の日本の耐震設計の思想に対し、大きな影響を与えることになる。

 

図1)震災予防調査会報告に記述されている旧丸ビルの被害状況(抜粋) 
図1)震災予防調査会報告に記述されている旧丸ビルの被害状況(抜粋) 

 

 一方特に大きな被害があったと記録されている建物に、内外ビル、東京会館、日本郵船ビルなどがある。また、横河の主宰する横河工務所の設計になる、日本工業倶楽部会館も最も被害の大きかった建物の一つとして登録されている。

 

 一方、首都復興院建築局長に任ぜられた佐野にとって最も緊急を要する仕事は、首都復興に向けての建造物建設における耐震規定をいかに設定するかということであった。この仕事を進めるにあたり、最も信頼できる相談相手として佐野が選んだのは、震災予防調査会の内藤であった。内藤は折に触れて自説を佐野に進言していた。

 

 「佐野先生。今回の地震で確信を持ったのは、私の考案した、柱と梁を壁で結合する方法が耐震性においていかに優れているかということです。それについては、今回の地震で実証されたのでは無いかと自負しております。私が設計した日本興業銀行東京支店と歌舞伎座が、今回の地震でまったく無傷であったことは、その証左として充分では無いかと思うわけです。一方で、あまり壁を配さなかった、郵船ビルや日本工業倶楽部会館等が大きな被害を受けたことを見ても、地震に対する壁の有効性は証明できたと思います。それをもう少し一般化して説明すれば、剛性の強い建物は耐震性も高いということになると思います。米国式の丸ビルも公にはなっておりませんが、実は大きな被害を受けております。丸ビルの場合元々の設計が米国フラー社ということもあって、剛性が低い建物でありました。現在補強計画が検討されておりますが、固有周期が2倍近く短くなるように補強を施すとのことです。そのために極めて多量の耐震壁が付加する方針と聞いております。今後の建造物建設においても、建物の剛性を強くする方向に誘導することを、建築界の常識とすべきであると考えます。」

 

 「建物を剛構造とすべきであるということを、耐震性を確保する唯一の方法として、推奨すべきと、内藤先生はおっしゃるわけですね。ただ以前、日本建築学会で海軍の真島健三郎先生にお会いしたおりには、剛性が小さくとも耐震性の高い建物を設計することは可能であり、むしろ建築の多様性を損なわないような法整備が重要と話しておられた。そのような指摘に対しどう考えるべきか、少し悩んでいるのですが。」

 

 「これだけの災害が起こり、首都復興が緊急課題となった今、真島先生のおっしゃるような理想論に耳を傾けている暇は、我々にはありません。真島先生の計算法を実用に供するためには、未だ相当の時間を要します。その間、焼け野原となった首都を、そのまま放置する余裕など我々には無いはずです。いかに少ない投資で、安全な建造物の建設を進めるか。そのためには建物の構造形式をある程度限定して効率を求めることも必要です。」

 

「確かに今は、昔とは状況が異なることも事実です。とりあえず、安価で頑丈な建物を建設するためには、内藤先生の説を全面的に採用することが、最も現実的対応と言えるかもしれませんね。」

 

「その通りです。それから、耐震規定を制定する際、もう一つ提案しておきたいことがあります。従来我が国では、補強コンクリート構造の建物を建設する際、主として外国製の異型鉄筋を使用してきました。しかし、今回の地震ではその異型鉄筋を使用した建物に大きな被害が見られます。一方国内で生産可能な丸鋼を使用した建物では概ね大きな被害が生じておりません。それから考えますと、高価な異型鉄筋を排除して、今後は安価で国内でも調達可能な丸鋼を推奨して行くことが、経済効率から考えても有用であると思います。」

 

「なるほど、このような緊急事態では、内藤先生のおっしゃるような大きな割り切りも必要かも知れませんね。参考にさせてもらいます。」

 

 結果としては、佐野は内藤の主張を全面的に取り入れ、建物の高さを31m以下に抑え、固有周期が伸びる超高層建物を禁じ、耐震壁を含む剛性の高い建造物を推奨する、耐震規定の原案を作成した。また、配筋についても、従来の異型鉄筋を排除し、安価で調達も容易な丸鋼を基本とすることを耐震規定原案に盛り込んだのである。佐野の次の課題は、耐震規定の外力レベルをどのように設定すべきかということであった。

 

13.市街地建築物法の制定(1924年10月)

  さて、それまでの日本の建物の耐震レベルはどの程度のものであったのか。

  我が国で初めての耐震規定である、市街地建築物法の耐震規定が定められたのは1924年のことである。従って、それ以前は我が国には正規の地震荷重レベルの規定はなかったことになる。試みに、当時の建物がどの程度の地震荷重を想定して設計が行われていたかを調べてみると、以下の通りである。

 

 旧丸ビルの場合、実際に構造設計を行ったフラー社の地震荷重の想定はわからないが、日本側の担当である山下寿郎の回顧によれば、京都大学の日比忠彦の計算法を適用し、震度0.15で、これによって生じた応力が、鉄骨の破壊強度に達するもやむを得ないという仮定のもとで試算したとあるから、終局強度で震度0.15(許容で震度0.05程度)を想定していたことになる。

 

 横河が設計した日本工業倶楽部会館の場合には、関東大震災後開催された日本工業倶楽部の第1回営繕委員会で設計者である横河民輔が、当初目標震度0.05で設計したと述べた記録がある。それから推定すると、許容で震度0.05(終局で震度0.15程度)を想定していたものと思われる。

 

 日本興業銀行東京支店の場合、設計した内藤多仲の回顧によれば、設計震度としては0.067を採用して設計したが、鉄筋コンクリート耐震壁を配した鉄骨鉄筋コンクリート造としたため、関東大震災に対しても殆ど無被害であったことが述べられており、それから推定すると、許容で震度0.067(終局で震度0.2程度)を想定していたものと思われる。

 

 三菱銀行旧本館については、竹中工務店が解体時に作成した建物記録があり、それによれば 震度0.3に対し短期許容応力度で設計したとある。これが事実とすれば、長期荷重と短期荷重を変えて計算する方法が一般化するのは、第2次世界大戦以降のことであり、また、荷重レベルも現行基準と比べても遜色のない高いレベルを想定しており、地震に対する認識の高さについては評価に値すると思われる。

 

 以上より、三菱銀行旧本館を除いては、許容レベルで約0.05、終局で0.15~0.2とほぼ同レベルに設定されており、当時の通常の建物を設計する地震荷重レベルの相場としては、その程度であったことが類推される。一方、三菱銀行旧本館についてはそれ以外の建物の約3倍のレベルを想定していることになるが、これは、銀行本館という特殊用途を考慮したレベル設定であったものと思われる。ちなみに、三菱銀行本館は桜井小太郎の設計であるが、構造設計については桜井の出身組織である海軍の真島健三郎に相談していた。三菱銀行本館の設計の技術レベルの高さは、真島の影響によるものと思われる。

 

 さて、それでは関東大震災被災以降、建物を設計する際にどの程度の地震荷重を想定するように変わったのか。 

 佐野が制定に深く関わった市街地建築物法で初めて地震荷重レベルに関する公式の規定が制定されたのは、1924年(大正13年)10月のことである。その際必要とする耐震レベルとしては、終局強度で震度0.3程度と想定して、許容レベルで震度0.1が定められた。これについても、内藤の発案によるところが多かった。同時期に行われた旧丸ビルの耐震補強設計について、内藤多仲自身が行った試算が震災予防調査会報告の中に記述されており、それによれば震度0.3とした時の応力に対し、部材が終局強度以下であることが確認されている。

 

 尚、日本工業倶楽部会館の耐震補強設計についても、第1回営繕委員会における横河民輔の説明によれば、耐震補強設計については震度0.1で許容応力度以下を目標とする、という記録が残っている。

 以上より、関東大震災の経験より得られた大地震時における設計外力レベルの相場としては、大震災以前のレベルの約2倍の、終局強度で震度0.3(許容で震度0.1)という所で落ち着いたことになる。当時、許容応力度については、長期と短期の区別はなく、現行の長期と同じ値であったことから考えると、震度0.1という値は、現行建築基準法のレベル1の地震外力、短期に対し震度(基準法では層せん断力係数)0.2とほぼ同じレベルということになる。

 

次号予告: 次号では、一般人をも巻き込んで、我が国の建物の耐震設計のあり方に関する大論争へと発展した、佐野対真島の「柔剛論争」について述べる。 

(稲田 達夫)

参考文献

1) 震災予防評議会、「震災予防調査会報告、第百号(丙)上」、1926.10

2) 日本建築学会編、「近代日本建築学発達史、わが国建築施工史の上からみた丸の内ビルヂング建築工事」、山下寿郎、丸善、1972.10

 


稲田顧問による山佐木材建築講座はじまりました

西牧リーダーが山神祭で稲田先生に直談判したことがきっかけで、山佐木材建築講座がはじまりました。

業務終了後の自主勉強会として希望制にしたところ、なんと50名近くが参加し、初回の「地震と建築構造」を熱心に聴講しました。これからも月2回のペースで続く予定!