メールマガジン第55号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第12話)

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11.関東地震と日本工業倶楽部会館

 - 工業倶楽部第1回営繕委員会における横河民輔の弁明 -

 

  さて、日本工業倶楽部会館は、竣工して間もなくの1923年9月、関東大震災を被災し、大きな被害を受けた。

 前回述べたように、工業倶楽部会館の構造形式は、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨コンクリート造で、当初の設計は外壁は垂壁及び腰壁で固められているものの、内部は木造壁が多く、耐震壁の比較的少ないラーメン構造であった。

 

 その工業倶楽部会館の関東大震災のよる被害の状況は,以下の通りであった。

①3階大食堂と中食堂の間の床に大亀裂が生じたこと。また,鉄筋の切断も見られること。

②同じく大食堂奥の厨房床に大亀裂が生じたこと。

③床の大亀裂はそのまま中庭側外壁面にまで連続していること。

④1階陳列室の柱3本が挫折したこと

⑤外壁面に多数の亀裂が見られること。 

 

 特に深刻であったのは、④に示した1階陳列室中央の柱3本が、鉄筋が外部に腹み出すほどに座屈し、上部の床が約10cmほども下がってしまったことであった。

 

図12-1)日本工業倶楽部会館の関東大震災による被災の状況
図12-1)日本工業倶楽部会館の関東大震災による被災の状況
図12-2)関東大震災で座折した柱
図12-2)関東大震災で座折した柱

 

 関東大震災により大被害を被った日本工業倶楽部会館を目の当たりにして、横河は大いに狼狽した。震災後、1923年(大正12年)11月に開催された工業倶楽部第1回営繕委員会において、横河は被害が生じた理由を説明することを求められた。ここでは現存するその記録を紐解くことにより、弁明に努める横河の姿を追ってみることにしよう。

 

 横河が行った弁明の論拠は以下の4点である。一つ目は、そもそも地震の強さが大きかったこと、二つ目は、地震波の強さを抑えるためには、基礎を堅固なものとしかつ基礎底を地中深くすることが効果的であり、そのためには地下室を設けるべきであったが、今回の建物ではそのようにはできなかった。三つ目は本来建物の耐震性の向上のためには、強固なコンクリートの耐震壁を設けるべきであったが、経費の関係から多くが木造壁となった。四つ目は、本来建物はロの字型のような閉じたバランスのとれた形状が望ましいが、結果として、コの字型の不安定な形状となったことを、指摘している。

 

 また、最も被害の顕著であった陳列室の柱の座折については、元来柱の大きさ、配筋の太さ本数については充分なものとなっており問題は無かったが、コンクリートの打設時期が2月という極寒の時期であったため、セメントの凝結において問題があったのではないかという見解を述べている。

 

 続いて横河はその補修改善策として、一つは建物全体をコンクリートの壁で覆ってしまうという方法が考えられるが、それは経費がかかりすぎる。それで,外部の壁を有る程度補強すると共に、内部も木造壁をコンクリート壁に変更するなどして、使い勝手をそれ程損なわずに補修したい旨、提案している。

 

 倶楽部会館の補修において目標とした震度については、当初設計では0.05で設計していたが、それでは足りないので、補修設計では0.1を目標としていることを説明し、しかしそれが学問的には未だ全部が認められているわけでは無いことを述べている。最後に、北西側に建物を増築し,形状をロの字型の纏まった形に繋ぎ合わせることを提案し,横河の説明は終わっている。

 

  日本工業倶楽部会館の構造設計は、石井敬吉が担当していた。石井は横河に、工業倶楽部への弁明は自分が当たるべきであることを主張した。しかし横河は、主として経済的理由に基づく妥協から、当初石井が設計した通りには建物が実現出来なかった旨を伝え、従って石井が弁明に当たる必要は無いことを説明した。弁明に横河が工務所を代表してあたった、その姿勢が、結果として多くの倶楽部会員の共感を得、横河の弁明は承認されることとなった。

 

 会館の震害補修工事は、横河民輔の監督の元、清水組が担当し、2期に分けて行われた。第1期工事は、主として会館既存南東部の震害補修を中心に行われ、大正14年8月に竣工した。引き続き第2期工事が北西部の増築工事を含む形で行われ、堅固な耐震壁付きラーメン構造に変身し、昭和2年2月に竣工したのである。

 

参考文献

1)三菱地所編:日本工業倶楽部会館技術調査報告書、2000年

2)震災予防調査会報告第百号丙、1926.10 

(稲田 達夫)