メールマガジン第54号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第11話)

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「これまでのタツオが行く!」(リンク

10.旧日本工業倶楽部会館の建設

 

 前回、紹介したように、旧日本工業倶楽部会館(以下、倶楽部会館)の建築設計を行ったのが横河民輔である。尤も、意匠設計は松井貴太郎、構造設計は石井敬吉が担当したとあることから考えると、横河の立場は、倶楽部会館の建設を請負った横河工務所の経営者であり、プロジェクトの統括マネージャーのような立場であったのではないかと思われる。ちなみに、松井も石井も、東京帝国大学造家学科卒業の、そうそうたるエンジニアである。

 

  日本工業倶楽部会館は、大正7年に着工し,同9年に竣工した。竣工式には第19代内閣総理大臣原敬氏が列席し、祝辞を述べられたとあるから、さぞや華やかな式典であったのだろうと思われる。

 工事を請負った横河工務所の所長である横河としても、大工事も無事完了し、このような喜ばしい日を迎えることができたことに、さぞや安堵したことであろうと想像される。

 前回紹介したように、横河は以前東大の構造講座の教授を務めたこともあったことから、顧客からは建築家・経営者としてよりは構造家としての信頼も集めていた。「横河先生が設計された建物ですから安心です。」というのが工業倶楽部会員の口癖であった。横河はそれに対してはいつも軽く笑って受け応えていたが、内心は実は必ずしも穏やかとは言えなかった。

 

 

 工業倶楽部会館の構造形式は、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨コンクリート造で,当初の設計では外壁は垂壁及び腰壁で固められているものの,内部は木造壁が多く,耐震壁の比較的少ないラーメン構造であった。

 横河は、第10話で紹介した「地震」の中で、「審美学上好ましい形状の建築が一般に,地震に対しても堅牢である」と述べているが、倶楽部会館の平面形状は「コの字」型をしており、「審美学上好ましい形状」とは言い難いものであった。

(図10-1参照)

図10-1)倶楽部会館の平面形状
図10-1)倶楽部会館の平面形状

 もう一つ、倶楽部会館の構造形式で興味深いのは、RC造梁の配筋である。これは、解体調査で分かったことであるが、梁のせん断補強筋がU型あるいはW型をしており、我々にとっては常識である、□型の閉じた形状となっていないことである。

(図10-2、図10-3参照)

 

図10-2)倶楽部会館の配筋の写真
図10-2)倶楽部会館の配筋の写真

 

 そのせん断補強筋の太さも6mmφと、鉄筋というよりは針金に近いものが使われている。

 例えば、倶楽部会館と殆ど同時期に竣工した、三菱銀行旧本館の配筋図を見ると、現行に近い配筋が行われていることから、当時の建物が皆そうであったとは言い難い所もある。つまり、工業倶楽部会館の構造設計は、横河が理想とするものからは、かなり妥協的なものになっていたのである。

 このように、なぜ横河が構造計画上の妥協をせざるを得なかったのか、その理由の一つとしては、第1話で述べた急激な物価上昇の問題があった。当時の物価上昇は大正3年7月を100とすると,倶楽部会館が竣功した大正9年3月には400以上にも及んでいた。会員企業からの会費で運営が成りたつ工業倶楽部会館の建設にとって、このような物価上昇は他の建物の建設とは異なる意味で、困難をもたらしたことは間違いのない所であった。

 

 横河を悩ませていた、もう一つの問題は,大戦による鋼材の禁輸の問題があった。そもそも大正当時の粗鋼生産量は,米国では既に年間4000万トンに達していたが、我が国はといえば1900年に官営八幡製鉄所が操業開始したものの,年間生産量は数十万トンをやっと超える程度に留まっていた。従って鋼材の調達を輸入に頼らざるを得ないのは、やむを得ないことであった。

 

 大正3年に第一次世界大戦が勃発すると、連合国側にあった我が国では、直ちにドイツ,ベルギーからの鋼材輸入が途絶えたが、当初は米国からの輸入に切り替えることにより、ある程度凌ぐことはできた。しかし、大正5年,英国が鋼材の輸出を禁止し、大正6年にはインドが、7年には米国も禁輸するに及ぶと、鋼材の調達は極めて困難な状況となった。その大正7年に工業倶楽部会館は着工したのである。

 横河が倶楽部会館建設のために必要な鋼材の調達に苦慮し、結果として、構造設計面での妥協を余儀なくされたことは、やむを得ないこととも思えるのであった。

 

参考文献

1)三菱地所編:日本工業倶楽部会館技術調査報告書、2000年 

(稲田 達夫)