メールマガジン第32号>西園顧問

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★【西園顧問】木への想い ~地方創生は国産材活用から(14)

 木造橋を復活させ、町興しに活かした小倉区紫川に掛る常盤橋

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 川内市の建築業関係者等が10年前から取り組んでいる「薩摩街道保存会」の催しへ、私は時々参加してきた。「薩摩街道」とは、鹿児島市甲突川に架かる西田橋から、県境の出水市野間の関を越えて、肥後・筑後の国を通り長崎街道と交差する鳥栖近くの「山家」までの旧街道の名称である。保存会の設立目的は「歴史的に価値の高い薩摩街道を歩くと共に、復興と整備を行いながら町興しを行う」と活動している。会員は定期的に「街道を歩く会へ参加し、一日に約15KM」を歩き、「歴史と道路の関係」を考える機会を提供してきた。

 薩摩街道保存会は鹿児島県北薩振興局から支援を頂いているが、熊本県や福岡県内の旧街道の整備状況や道路標識・案内看板等を見れば、鹿児島県内の薩摩街道の状況とは、行政の整備に掛ける意気込みの違いに気付く。又街道として全国的に認知され、良く活用されている「長崎街道・豊後街道・萩往還・中仙道・東海道・熊野古道・四国八十八カ所遍路等」は、いずれも地域で大切に整備されて町興しに活用され、重要な地域資源となっている。

 

 ところで福岡県へ入ると、旧街道の標識は「薩摩街道(坊津街道)」、又は「坊津街道(薩摩街道)」との表示例に出合う。薩摩半島南端の「坊津への道」(遣唐使時代には「日本三津の一つ」と表記有り)を、鹿児島県人は史跡として再確認する必要が有る。世間から「鹿児島県人は、地元資源の活用や宣伝が下手だ」と何かにつけて言われるが、「薩摩街道の西田橋から山家」までを歩けば、他県人からの「鹿児島県は地元資源の活かし方が下手だ」との指摘に、反論出来ない実態が判る。鹿児島県内には「見逃され、磨かれていない宝物」の産物や自然や史跡等が沢山埋まったままに気付く。

 

 街道保存会員は西田橋を出発し、22日間(数ヶ月に1回開催)を掛けて、薩摩街道終点「山家」まで辿り着いた。到着した会員から「山家まで来たら、薩摩の殿様が参勤交代で江戸まで上った事を見習いたい」との声が出て、更に8日間掛けて長崎街道を九州北端の小倉・大里(ダイリ)まで歩く事になった。私も最終の「黒崎~小倉城間」の行程へ参加し、小倉城下の紫川に架かる「長崎街道終点の常盤橋」へ辿り着いた。そして現在の常盤橋は「小倉の町の歴史的価値を、今の街造りへ活かすため平成7年(1995)昔の木造常盤橋へと復建」された事を聞いた。江戸時代の由緒ある木製橋を復建させる事が「小倉の町興しのシンボルとなっている」成功例を見ると、改めて「日本文化と木材活用の価値との関係」を学んだ。そこで今回は常盤橋と木材活用について情報を纏めてみる。

 

 関ヶ原の戦いで功績の有った細川忠興が、慶長7年(1602年)小倉へ入封し築城したのが小倉城である。細川の殿様は1624年、紫川東側を開発した東曲輪と、以前からの城下町だった西側(西曲輪)を結ぶために常盤橋を架設した。当初は単に「大橋」と呼ばれたが、元禄7年に架け替えられた時に「常盤橋」と呼ばれる様になる。常盤橋は小倉から九州各地に延びる諸街道の起点として、筑前六宿が整備され更に長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還が整備された。その5道を「小倉の五街道」と呼ぶ。

 当時、紫川両岸の西東地区を結ぶ橋は2つしか無かった事と、小倉の中心地の室町・京町筋に常盤橋が在った事から重要な橋となった。江戸時代末期までは基礎も木造だったので、大雨が降るたびに流され其の度に架け替えられている。1800年代初頭、橋桁の腐朽対策から「石杭」へ替えられ、橋は強度を増し補修や維持が容易となった。文政年間に使われた橋の石杭の一部が、常盤橋西岸に記念碑として残されている。(細川の殿様は、後に肥後の国へ転封され、薩摩藩の睨み役を果たす)

 

 「長崎街道」は小倉から長崎まで25宿、57里(228㏎)。参勤交代の大名や長崎奉行やオランダ商館の行列が、九州から上方や江戸へ旅立つ前に小倉へ宿泊した。薩摩の殿様も長崎街道を通り筑前門口から小倉へ入り、大門・室町を経て常盤橋を渡り東曲輪の本陣へ泊られ、更に大里(ダイリ)に在った本陣へ泊り大里港から上方へ船出された。庶民は常盤橋を渡った橋左岸北側にあった港から、下関行の船へ乗るのかが一般的だった。

長崎出島のオランダ商館カピタン一行は、100名程度の行列で将軍への献上品を持ち、毎年江戸参府の途中で常盤橋を通り、享保3年(1727)清国から将軍吉宗に献上された像も渡ったと記録されている。

 

日本全国を測量した伊能忠敬の「測量日記」に、文化7年(1810)「室町の三つ辻より、常盤橋を渡り常盤門を通り」と記録されているが、現在の常盤橋のたもとに「伊能忠敬・測量200年記念碑」が建てられている。

文政9年(1826)シーボルトが江戸へ随行した時にも、「大きな木の橋を渡り広場へ進み、ほどとおからぬ宿舎につく」、又「橋の上で何度かコンパス測量を行った。ここからは海峡を望む広々とした風景が開けている。橋の下を流れる川は南から北へ流れ、小倉の住民は紫川と呼んでいる」と記されている。

 


北九州市小倉の紫川にかかる木造の橋「常磐橋」

山佐木材は補修工事を担当(メルマガ現場日記にて紹介

 

 北九州市は平成7年(1995)、周辺一帯の再開発「紫川マイタウン・マイリバー」事業化の時に、江戸時代に在った「長85M、幅7.2Mの木造橋」を復元した。橋桁はコンクリートと同じ耐久性を持つと言われたボンゴシ材(西アフリカ産)を、又欄干には手触りの良いチーク材等の天然木が使われた。(私のシリーズのテーマである国産材振興と今回は少し話が違うが、より良い木材を世界から集め採用する事は、グローバル時代には必要な話とする。)欄干には当時と同様に「格調高い橋だけに許された擬宝珠」が取り付けられ、中央に向けて徐々に高くなる反り橋となっている。しかし新しい橋はバリアフリーに配慮し、当時よりも「木造橋の反り」は緩く造られている。

木橋技術協会発行「木橋」より

 

 所が海外では耐久性が高いと評価されている「ボンゴシ材」も、日本の夏の高温多湿の気候条件や、世界で最も蟻害が激しいと言われるイエシロアリは想定外だった様で、再建10年後に防腐防蟻の補修工事が必要となった。その時に「木造橋建築の経験豊富な山佐木材」へ、耐久性補強対策の相談が有り、山佐木材は「新しい防蟻処理法のホウ酸ステック」を採用し、シロアリ駆除と保全工事を行っている。

 

 所で鹿児島市の西田橋は、薩摩藩家老の調所笑左衛門が肥後の名工岩永三五郎に命じて石造りで架橋されたが、全国でも珍しい新工法による建設事例で、薩摩藩が如何に新技術へのチャレンジ精神に富み、更に高い技術力を持っていたからこそ完成出来たと言える。(前に紹介したが、西田橋の基礎は松杭梯子工法で施工されて地盤沈下を防いでいる。)当時は常盤橋だけでなく京都三条大橋や江戸日本橋も、日本の主要な橋は全て木造だった。

 擬宝珠付き橋は常盤橋や日本橋や京三条大橋等と特別な橋にだけ付けられている事からも、薩摩藩の西田橋の格の高さを理解出来るであろう。所で新しく架けられた新西田橋には、擬宝珠が取り付けられていない。もし設計担当者が歴史的価値に気付かず、予算面から削除したとしたら残念なミス判断と考える。 

江戸時代の京都三条大橋は木造

歌川広重「東海道五十三次」より「京師 三条大橋」

 

江戸時代の東京日本橋も木造

歌川広重「東海道五十三次」より「日本橋 朝の景」

 

参考 江戸時代から現存している日本の代表的な木橋を列記する。(更新工事を含める)

伊勢神宮の宇治橋、皇居の平川橋、長野県上高地の桂川河童橋、岩国の錦帯橋、京都八幡市の木津川上津屋木橋(別名:流れ橋・330M)、京の嵐山の渡月橋、琴平町の鞘橋、山梨大月町の猿橋(国の名勝)、大阪住吉神社の反り橋(太鼓橋・淀君造営の説)、宇佐神宮の呉橋、築後船小屋のガタガタ橋、島田市大井川の蓬莱橋(長さ900Mのギネスブック記載の世界一の木造橋)等々、実に多彩である。列記すれば「木造橋は日本の伝統と文化を継承している」事が判ろうと思う。皆様は幾つ渡りましたか。訪ねて見て下さい。木材は腐朽するから耐久性に欠けるのではなくて、昔の大工達の「木橋を長持ちさせる技術と知恵」を学び、日本の木材を活用した伝統文化を継続させる必要を感ずる。

 山佐木材は集成材加工技術を駆使して、公園や道路での木橋施工の実績を積み上げている事を付け加える。