メールマガジン第29号>西園顧問

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★【西園顧問】木への想い ~地方創生は国産材活用から(11)

 「鹿児島五大石橋・西田橋と木材活用例」

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「木材利用促進」を話題に書いている私のメルマガ文に、鹿児島五大石橋のなかでも最も美しく立派な「西田橋」の登場に、驚かれる人も多いかもしれない。木材利用のトピックスとして、又同時に「木材保存のポイントを納得できる話題」として今回は書く事にする。美しく重厚な西田橋の上を通る人からは見えない地下で、154年間も支えて来たのが「木材杭」だったと知って欲しいと思うからである。

 

 まず西田橋の歴史を書くと、島津の殿様が参勤交代で江戸へ出発される時に、甲突川に掛る西田橋を渡る時が「旅の始まり」であった。だから鹿児島では一番格式の高い石橋として掛けられて、平之町側に明治5年まで「御門」も建っていた。

 私は以前、「西田橋等の移設計画」が話題となった時、「移設反対と現地保存運動に署名」した事が有る。しかし平成5年(1993)の歴史的大洪水となった「86水害」で、5橋のうち「新上橋」と「武之橋」の2橋が流失し復建不可能と知った時に、反対運動へ単純に同調していた私の浅はかさを知った。歴史的遺産は現地での永久保存が理想だが、使用環境が変り過重な負担が掛る状況となったら、社会変化に合せて保存対策を立てるしかない事を学んだ。

 そして5大石橋のうち、水害被害を乗り越えた「西田橋」「高麗橋」「玉江橋」を、新たな保存場所として祇園の洲の石橋公園へ移設した。

 保存解体前の学術調査の内容を知り、往年の雄姿に戻される移設工事の経過状況や、立派に復元された姿を見て、「あの時に思い切って、残った3石橋を解体移転し保存へ舵を切った人々に敬意を表する」気持になっている。同時に「木材の持つ底力や魅力」も改めて知る機会にもなった。

 

 時々石橋公園を訪ねると、鹿児島県人の見学者が少ない事を残念に思う時が多い。訪ねて貰えば判るが、西田橋は明治5年に失火で焼失した「御門」が忠実に復建され、建造当時の壮大さが蘇っている事は嬉しい限りである。20年前までは車が走る事を優先にして工事された、見苦しかったアスファルト舗装が今は剥ぎ取られ、創建当時の人専用の橋の姿へ戻され、石畳の上を人間様がゆったりと桜島を眺めながら歩ける状態へ復元されている。 不埒な迷惑運転手に壊された欄干も修理復元され、私が車で走っていた時には気付きもしなかった擬宝珠も、歩いて渡ると鉄製と陶器製が有る等、薩摩藩時代の細やかな建築美学を知る事が出来る。

 NHK大河ドラマ「篤姫」に登場した「桜島をバックにした雄大な景観」が、川上の橋の下に立てば誰でも眺められる。当に「鹿児島県の歴史と秀麗」を体で感じる事が出来るベストポジションと、私は県外客に推奨している。

山佐木材写真部撮影@石橋公園
山佐木材写真部撮影@石橋公園

 

 25代島津重豪候の時に、薩摩藩の借財は500万両(1両4万円としたら2,000億円)に膨れ上がっていた。(当時の藩歳入が年10数万両だったそうだから、約50年分に相当。)

 そこで茶坊主上りの調所笑左エ門(広郷)を財政改革家老に抜擢した。調所の対策手法は後世からは様々な批判も有るが、莫大な借財を減らしただけでなく、同時に社会基盤整備に200万両を投資して藩内を整備し、その上に50万両(150万両説も有る)を蓄財している。

 その蓄財が有ってこそ、明治産業革命遺産の先駆けとなった斉彬時代の集成館事業や、幕末から明治維新の潤沢な活動資金源となった事は、皆さんも知っての通りである。

 

 「調所が行った藩政改革」は単なる借金返済では無く、奄美大島農民から黒糖で徹底搾取しただけでもない事を学ぶ必要がある。藩内の生産基盤の改善や河川改修(甲突川・稲荷川・曽木川)、新田開拓(国分・加治木・出水)、増産のための農業改良や商品生産物の導入や増産に努めた上での改革である。そして交通網の整備や、更に砲台築造や火薬製造設備等の国防の充実、三都の藩邸の改築営繕等も行っている。増収のために琉球経由の南蛮貿易を活発化させると共に、海商浜崎太平次を活躍させ、蝦夷地や日本海沿岸の物質を琉球を含めて広域で交易拡大し、歳入増を実現している。あらゆる面で薩摩藩の経済近代化への道を開き、産業活発化や財政改革を行った業績を残している事が凄いと思う。(今の政府と比べたら如何ですか)

 現在の鹿児島県人が良く口にする「鹿児島を代表する島津斉彬・西郷隆盛・大久保利通等の偉人の活躍」のための豊富な資金を蓄え、郷土の社会基盤を他藩よりも先に整備していたからこそ、薩摩藩が日本の近代化を先導出来た調所の先見性を私達は評価しなければならない。

 

基盤整備による「交通網と流通の効率化と、甲突川等の防災対策事業」は、肥後国から招いた石工・岩永三五郎に工事させたものである。彼の滞在期間(1840~1849)に完成した石橋(約30件)と、河川工事及び新田開発や港の整備等は幅広い分野に及ぶが、最も有名なのが「甲突川の5大石橋」架橋である。

 

 前置きが長過ぎたが、「西田橋と木材利用」について書く。

西田橋の実測調査と解体に取り掛ったら、石橋両側2Mにも及ぶ範囲の護床敷石の下には、「丸太を太鼓割り加工したクロマツ」(約6M長の直径30~40センチ程度)を1尺置きに組んだ大型の「梯子胴木」が現れた。しかも築後154年も経っているのに、クロマツの原型がほぼ保たれ、木材基礎杭が石橋全体の重量を支えて安全安定を護って来たのが確認できた。

 五大石橋は岩永三五郎を頭にして、薩摩藩の下級武士や大工・石工達がチームを作って、1845年から毎年1橋づつ建設している。最初に上流の新上橋を造り甲突川の流れの特徴を学んだ上で、翌年に西田橋、更に次年度に高麗橋、そして武之橋、玉江橋と毎年順次計画的に建造している。1848年調所は、海外との蜜貿易を幕府の許可無く行ったとしての責任を取って服毒自殺したので、三五郎は川内高江の江ノ口橋を最後に造り上げて肥後へ引き上げている。

 西田橋は5橋の中で、最大費用の7100両を費やした、巾6.2Mで橋長49.5Mと大型の4連石橋である。今回移設されるまで154年間の自重と、近年は橋上を走行する車両重量も加わっていた訳だが、水中の木杭は長年腐る事も無く立派に基礎杭の役目を果たしていた実態を、報道で知った県民は皆が驚いたのは当然である。

 「木材は腐ると、燃えるが2大弱点」と思われ、利用上の障害となっている。しかし人間の知恵で解消できるのだが、現状は対策が不徹底な状況である事が木材関係者としては残念である。今回は「川底で使われるとマツ材は腐らない」事と、長年にわたり基礎杭の役目を立派に果たして来た事が証明できた。近年の基礎杭はコンクリート杭が一般的だが、戦前の古い建物を解体すると、建設当時の松杭が出てくる例は結構多い。しかし掘り上げて地上に数カ月放置されて空気に曝されると、ボロボロに劣化してしまう事も知られている。

 

 木材は時々濡れて湿潤と乾燥が繰り返されると、腐朽菌やシロアリ被害を受け易くなり腐朽劣化が進むのである。今回の西田橋の梯子胴木の発見は「クロマツは水中に沈めたままで使用し続けると、150年余を経ても地中杭の役目を果たす」事を、人々に知らせる結果になった。昔の日本人は木材の特徴を良く知り上手に使って、「日本は木造文化の国」と言われるだけの素晴らしい日本の伝統を創って来たのである。

 木材業者や木造建築関係や建築の先生達も、是非とも「日本の木造文化を、何時までも子孫へ伝える」ためには昔の利用例を参考にして、木材の特徴と適切な利用方法を学び直す必要性があると私は申し上げたい。

 

 石橋公園の移設復元工事では、建造当時に忠実に有れと、新しい基礎石部分の下にも「クロマツの梯子胴木」が設置されている。移設した橋周辺に川の流れを造ってあるのは、子供達の水遊び場としてだけでは無く、基礎石の下に埋設されているクロマツを腐らさないために、「水中貯木」の役割も果たしている。

 そんな事まで考えて移築された石橋群を眺めると、「江戸時代の石橋を造った薩摩の先輩達の技能と知恵の凄さ」に思いを馳せる事も楽しみたい。

 更にアーチ石を組み込む前の「支保工」は木材で組まれて、その上で石積み作業を行い、最後に支保工を下げると、石の間が詰まって見事なアーチが初めて完成したのである。

そ して明治5年の写真を参考にして「御門」が忠実に再現された。木造の豪壮で立派な御門の屋根部分を下から見上げると、現代の日本人はもっと日本的木材活用建築に関心を持ち、木材の良さを今の時代にも活かす責任があると思う。2020年の復元を目指す「鶴丸城の御楼門」は、西田橋の御門に倍する規模と聞くだけに、完成が今から楽しみである。

 又 西田橋の橋下に行き橋裏を見上げると、要石に「弘化三年」と築年が刻まれているのを見る事が出来る。橋裏の創建年度の碑銘から、石橋を見えない所で長年支えて来た「木材基礎杭」の貢献を考えるのも、我が郷土の歴史と木材の特徴を学ぶ良き機会と考える。

 更に付記すれば「木材は生物」だから、他の生物の利用と同様に手入れが重要である。「人間も同じで、美しさと若さと健康を保つには、かねての手入れがとても重要」であるのと同じで、水中貯木は「木材の保存対策の先人の知恵」から生まれた方法である。

(西園)

※写真は鹿児島県発行「石橋記念館 展示解説書」より引用させていただきました