メールマガジン第23号>西園顧問

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★【西園顧問】木への想い ~地方創生は国産材活用から(5)

 明治日本の産業革命遺産と木材利用

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 今回の「題名」を見て、「世界遺産と木材利用は何の関係あるのか?」と思う人は少なくないだろう。しかし指定された物件を点検すると、「なるほど西園説も一理有るか!」と納得してもらえると思う。

 

 産業革命以前は、人間生活に必要な道具器具類や建築物等は、大半が木製品で占められていて、多彩な場所で木材が主力材料として使われていた。そこで何時「木材が主役の座を降り始めたのか」を再考察すれば、それは産業革命がターニングポイントと判る。

 そもそも「産業革命」とは、「それ以前の産業構造を根本的に見直し、鉄等の素材の質を高度化する事で、より効率的にして大量生産が可能な鉄製商品や機械類を作った。そして利用環境を更に使い易く向上させるため、燃料革命と物流革命が一緒に成し遂げた大転換期」の事である。それは私流に言わしてもらえば、「生産性をハイレベルに高めるため、木製品から鉄製品への転換期だった。」と思っている。


 本年7月、「明治日本の産業革命遺産が世界文化遺産へ指定」されたポイントは、「西洋のモノマネに終わらず、日本人の独創的工夫力にて、しかも50年の短期間に急激な近代化を成し遂げた改革」は、世界史的にも価値高いものである。そこで現存している当時の関連施設を保存する指定制度である。そこで「その50年間」とは、何年に始まって、何年までだったかは重要問題でもある。

 今回指定された旧八幡製鉄所の操業が1901年だから、その50年前の1851年が今度の世界遺産開始年と言って差し支え無い。それは当に島津斉彬公が島津藩11代藩主へ就任した年で、「日本の近代的コンビナート建設」開始と言われる「集成館事業」に着手した年である。


 「800年余の歴代島津藩主に馬鹿殿無し」との比喩的表現例があるが、その中でピカイチと言われたのが島津斉彬公である。鹿児島の地は日本最南端に位置し、琉球も領内だったから海外交易を通し、又当時アジアへの進出を競っていた西欧列強の動きを、日常的に身近に感ずる場所に居たのである。そして「アジアの巨像」と見られていた清国が、1840年予想を覆し、アヘン戦争で英国にいとも簡単に敗れ、植民地化された実状を一番身近で見ていた。何時かは我が国へも累が及ぶと危惧し、一早く対策に着手した斉彬公の諸事業が「明治日本の産業革命の始まり」となり、それが日本の近代化へと繋がる。

 

 藩主就任前から、徳川幕府よりも又国内のどの藩主よりも、「日本が清国と同様に、西欧列強に植民地化されないため、対抗出来るだけの富国強兵対策を一早く取り組む必要性」に気付いていたから、就任するや直ちに産業の近代化を目指し「集成館事業に着手」した。富国強兵対策として、製鉄・鋳造事業で高炉を造り(現在は鶴嶺神社建立)、続いて我が国最大の反射炉建設(佐賀鍋島藩が先に完成。薩摩藩は独学で苦戦の末、大型で精度の高い施設を作り上げる。薩英戦争で上部は焼失し、石造の基礎部分が今回指定された)に取り掛り、それで軍艦や大砲を造り海軍力を整備し、海防の近代化に取り掛った。


 斉彬公は国産初の軍艦『いろは丸』(後に坂本龍馬が鞆の浦沖で沈めた船とは同船異名)を造り、次いで桜島裏側に在った瀬戸造船所で、より大型の軍艦『昌平丸』を建造し、その船尾に『日の丸』を船旗として掲げ、幕府へ献上している。(日本国旗の始まり)

 海防充実のため150ポンド大砲を鋳造し、強固な御台場も整備した事で、薩英戦争では当時世界最強と言われていた英国海軍に一目於かせるほどに戦えたのは、斉彬公の残した功績である。そして直接薩英戦争を経験した事で、西欧の産業力の高さと技術力や軍備力の大きな格差を知り討幕開国へと考え方を変える。それまで尊王攘夷派思想の強かった長州をも、坂本龍馬と協力して考え方を一新させ、討幕連合軍を結成し明治維新を成し遂げるのである。(坂本龍馬の海援隊等の活躍資金は、薩摩藩が支援していたし、長州の軍備近代化は薩摩の武器輸入品に頼っていた。)


 島津斉彬公の「富国強兵策」の凄い所は、「国防は、軍備だけにあらず」「民の豊かさこそが富国強兵の源泉」と指導し、集成館事業では殖産振興にも取り組んでいる。それは日本の伝統的技術力をベースとし、独学で洋書類を参考にして改善へ取り組み、旺盛な自立心を育て上げた事が、其の後の日本の産業近代化の基礎作りに大きく貢献したと言える。

 取組んだ分野は幅広く、木綿の栽培から紡績までの二次加工製造の整備や電信通信技術、農機具の改良及び土木技術向上を伴った農地改良による農産物増産等は、今の時代なら当にリノベーションの先駆者である。それ等の資金捻出のための財政改革や海外貿易、更に武士階級に限定しなかった子弟教育制度の充実、福祉事業までと広範囲に取組み、「民衆の生活基盤を高めるための殖産振興」に努めている。薩摩焼や薩摩切子等の高い加工技術力に、芸術性を兼ね備えた高付加価値商品作りへも取組み、幕末の輸出産業へつないでいる。

 当に明治日本の産業革命の揺籃期は、島津斉彬公が構想した「集成館事業から始まった」のは間違いない。


 薩英戦争後は、更に薩摩藩の豊富な資金を使って、軍艦や武器類の輸入業務は「英国商人グラバー」を活用し、貿易事業者としてのグラバー商会の基盤作りを支援し、次の長崎の造船所建設等に繋げた。(薩摩藩家老の小松帯刀等が出資協力している。)そして当時の八幡村に、官営製鉄工場が建設されたのである。

 製鉄から船舶や鉄道や機械工場を造り、更に効率的に生産性を高めるため「熱効率の高い良質なエネルギー」が必要となると、近場の長崎や福岡県内に高品質の石炭が在った事が日本の近代化を一段と進める事になる。石炭生産の主力炭鉱が長崎端島の軍艦島であり、三池炭鉱(万田坑)で、石炭積出港としての遺産が三池港や三角西港である。


 石炭と無縁の鹿児島では、今回遺産に指定された「関吉の疎水溝跡」から水を引き落として、水車を回し大砲の穴加工(鑽開台)のエネルギー源に活用した。入口は松材を利用した「セキイタ」を使い、谷川の水を堰き止め疎水溝へ流し、7Kmに及ぶ高精度の石造水路を作った土木技術と、無ければ次を考える発想力と完成させる構想力と粘りに感動する。

 反射炉は1500℃の熱源が必要だったので、構造では薩摩焼で工夫している。吉野台地に残る「寺山の炭窯跡」では、周囲に植生する「板椎と樫材」から「白炭」を大量に生産した。

 木炭で最高級と言われるウバメガシを使う紀州備長炭に基礎を学び、更に工夫を加えて日本最大の石造り大型炭窯を造り、紀州産に劣らない品質の白炭を作ったと推測出来る。

明治時代になると石炭産出地に近く、運走にも有利な北部九州が工場地帯の中心となるが、エネルギー近代化の歴史の始まりも「関吉跡と寺山炭窯跡」に見る事出来るので、是非訪ねて、先人の業績と工夫に思いを馳せて欲しいものだ。

関吉の疎水溝跡
関吉の疎水溝跡
寺山炭窯跡
寺山炭窯跡

 

 旧集成館工場(広さ7間×42間)は、薩摩藩が作った日本で一番古い石造工場跡だが、その屋根の大型トラスの構造材には松材が使用されている。西洋建築等は見た事も無かったはずの薩摩大工は、図面を見ると独創力を働かせ西洋式構造を組み上げた知恵と技術力は秀逸で、叉創建当時の松梁材が今でも屋根を支えて役目を果たしている。(天井も見て!)

 薩摩藩英国留学生の五代友厚等が契約し導入操業させた、紡績所の英国人技術者宿舎は1867年に建てられ、グラバー邸より建設年代は少し遅れるが木造2階建では日本一古い洋式建物である。当時は西洋でも建てられていない「ベランダまで窓ガラスで囲み、部屋にした建築デザイン」(冬の寒さ対策用に)は、その後世界中に波及したのだから、当時の薩摩の大工や石工達は、世界に誇れる知恵と技術とデザイン力を有していた事が判る。

又保存のために埋め戻された、佐賀の三重津海軍所跡も木造ドックである。

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

 以上の例から、今回の世界遺産には「木材の良さを活かした日本大工の技能と技術」が、フルに活かされている事を判ってもらえたと思う。

 所で「他県に比べ、鹿児島の指定物件は3件と少ない」と冷めて言う人が居るが、それは貴重な施設類が、「鹿児島では薩英戦争で焼かれ、西南戦争で焼かれ、その上に太平洋戦争で徹底的な戦災を受けた結果」であり、無かったのではなく残っている遺産類が少ないからである。

 先日長州萩地区を訪ねて羨ましいと思ったのは、今まで一度も戦災を受ける事無く、幕末の木造の街並や建物群が、ほぼ残っている事である。

 「遺産」は、創建当時の姿が残っている事が指定要件だから、幕末に作られた施設類が萩と同様に、もしも戦災に遭わず鹿児島にも残っていたとしたら、長州より先に優れた施設と技術を数多く作っていただけに、多くが指定されたのは間違いなかったのである。


 今回の世界遺産指定で報道関係者は、ともすればコンクリート造の廃墟軍艦島や、眺めの素晴らしい高台に建つグラバー邸、煉瓦作りが健気に建っている感じの萩の反射炉等の、目立ち易い施設を取り上げ勝ちである。私の上記説明で皆さんは、「如何に鹿児島が産業革命遺産の先導役を果たしたか」を理解されたと思う。願わくば報道関係者は、市民へ情報を正確に伝える係として、もっと歴史や遺産の根源まで学ばれ「鹿児島の施設類」を取り上げて欲しいと切望する。

 木造施設は時を経るほどに人に馴染み易くなり、優しく風格が出て来る構造物だけに、和食や着物と同様に「日本文化の代表」として、「人工的な素材では表せない、自然産物の良さを見直し、人への優しさを再発見するルネッサンス的な感覚」を大切にして欲しい。

 次世代への大転換期の新たな始まりと言われる今だからこそ、木材活用へ再チャレンジする人が増える事を期待して、私は「木への想い」シリーズを書き続けたいと思う。

 (西園)