メールマガジン第100号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第56話)

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「これまでのタツオが行く!」(リンク

56.佐々木幸久氏の思い出など

 佐々木さんが急逝されてから、もうすぐ5カ月になる。最後に佐々木さんとお会いしたのは、昨年の8月9日のことである。お昼時に「うなぎ」の迫田荘に誘われて、「うな重」をごちそうになった。大変ボリュームのある「うな重」であったが、佐々木さんはぺろりとおいしそうに平らげておられた。まさかその一カ月後に亡くなられるとは、勿論夢にも思わなかった。

 

 佐々木さんと初めてお会いしたのは、平成24年、福岡大学の私の研究室でのことである。その1年前に「木材工業」に寄稿した私の論稿をお読み頂いたそうで、大変に面白いということで、わざわざ訪ねて来て下さったのである。オーシカにおられた梶原さんも同行されていたが、まさかその後今日までの永いお付き合いに発展するとは夢にも思わなかった。多分これは、単なるご縁などと言うことでは無く、佐々木さんの大型建築に対する木材の活用への並々ならぬ熱意がなしたことだったのだろうと思う。その佐々木さんが亡くなられたのは、我国にとっても大きな損失でもあり、大変に残念なことではあるが、今は心よりご冥福をお祈りしたいと思う。

 

 佐々木さんの告別式に飾られていた「供花」の数が物語るように、佐々木さんは大変に多大な人脈を築いておられた。そのお陰で通常では容易にはお付き合いすることが叶わないような多くの方々をご紹介頂き、それはそのまま私の仕事を進める上での貴重な財産となった。

 

 佐々木さんとの思い出話と言えば、どうしても酒席でのことが多くなる。佐々木さんと最初にお酒を酌み交わしたのは、最初にお会いした多分一週間後、博多中洲の小料理屋さんでのことである。佐々木さんと私、それから梶原さんと、九州大学名誉教授の村瀬先生も同席されていた。そこで、「超高層ビルに木材を使用する研究会」の発足について話し合ったのである。その研究会も昨年12月で10回目の定時総会を開催することとなった。これも佐々木さんの大きな功績の一つである。

 

 佐々木さんからは、山佐木材の主催で社員が(あるいはご家族もご一緒に)一堂に会して酒を酌み交わす、山神祭り(やまんかんまつり)によく誘われた。その都度、福岡から鹿児島の工場に伺って、様々な方々とお話をしたが、福岡大学退職後、山佐木材に就職したのも、そのようなことが契機となったのではないかと思うと、今考えてみても、本当に有難いことだったと思う。

 

 佐々木さんは社長を退任された後、山佐木材の「海と山の研修所」で一人ゆっくりと過ごされることが多かったと聞くが、実は「海と山の研修所」には私は何度も伺ったように記憶している。一度は私の妻も同行し、一泊させて頂いたが、内之浦の料理屋「網元」から取り寄せられたお刺身と佐々木さんの手料理を振舞われ、夜遅くまで酒を酌み交わし、とりとめもない話をしたが、本当に楽しい一夜であった。その他、山佐木材では、月に一度気の置けない仲間が高山の居酒屋「吾作」に集い、定例的に「稲懇」と称して酒宴を楽しんだのも今となっては懐かしい思い出である。

 

 佐々木さんの遺影は本当に穏やかな良いお顔をされている。あのお顔でひょいと突然私の前に現われて、「稲田君、今夜あたり一献いかがですか。」と誘われたら、そのまま付いて行きたくなるような幻想に捉われることがよくある。佐々木さんとお付き合いして楽しいのは、「開発」「挑戦」といった、一貫した前向きの姿勢であったと思う。その精神はなんとしても我々が受け継ぎ、また後輩に継承してゆかなければならない。改めて、秘かに決意を固めている昨今である。

(稲田 達夫)