M田部長のぶらり肝付町の旅・歴史の旅にお供する その3

 啓蟄が過ぎました。まちを囲む山を見回すと、あちらこちらに白い山桜が咲き、深まる春を実感させてくれます。

 さて、今年正月、Hさんにお供して、波見、唐仁地区を歩いて中世のあたりを旅し、歴女ならぬ歴爺の仲間に入ってしまいました。この地をはぐくんできた歴史やその成り立ちを、これまで何も知らなかったことを少し反省しながら、ぶらりを続けております。

 前回までの中世から一気に、4~5世紀・古墳時代に遡ります。しかし、場所は前回と同じ東串良町唐仁地区。ここには国指定史跡「唐仁古墳群」として、大小130基あまりの古墳が集中しているのです。その中心に位置し、最大規模を誇るのが大塚神社として祭られている「第1号古墳」(大塚古墳)です。

 

 

 鳥居のうしろにある森が、長径が185mほどもある県下最大、九州でも3番目に大きな前方後円墳なのです。後円部の高さは現在11mほど、建造時はそれ以上あったといわれています。

 海抜5~7mの平地の上に、これほど大きな規模のお墓。このことは、その時代に一大土木事業を実施できる絶大な経済力と支配力を持った一族が存在したことの証でしょう。

などと思いを馳せながら鳥居をくぐり、まずは、古墳の周囲(堀だったのか)をぐるりと歩いてみました。

 

 

 そこは、大きく枝を張り出した楠や椎の巨木がしっかりと根を張って、隙間なく杜(もり)を形作っています。そして、その林床はみごとに清掃されており、地域の方がたのこの神社(古墳)に対する畏敬の思いが伝わってきます。

 参道に戻り、真北に進むと後円部に鎮座する社殿へ登る階段が見えてきます。

 

 

 この階段がいい。緑の苔に覆われた石段は、長い歴史の中で擦り減り、その踏みしろはわずか15cmと驚くほど狭いのです。これは足元をしっかり見ながらゆっくりと参詣するための仕掛けなのかなと思わずにはいられません。

 

 社殿からは真南に唐仁の目抜き通りを経て、国見連山を望むことができました。その時代海抜13m程度といえば、肝属平野に視界を遮るものは何もなく、この地全方位を見回せる場所であったことでしょう。もちろん、ここには特別な人しか登れなかったはずです。

 

 ここに建つ正月飾りの注連縄は社殿を背にしていることに気づき、何か特別の理由があるのではないかなどと、歴史の妄想にふけってしまうのであります。

 

 

 今回のお供でこの地域の歴史に触れることができ、旧友Hさんに感謝しつつ、機会があればもっと歴史の想像にふけってもいいなと思いつつ。

 (次は山へ行こうか?M田)