M田部長のぶらり肝付町の旅・歴史の旅にお供する

 新年明けましておめでとうございます。

 平成最後のお正月は、南国の冬としても暖かく穏やかでした。

 みなさまのところは如何だったでしょうか。

 

 昨年の暮れ、高校時代からの友人で歴史に深い造詣を持つHさんから、1月はじめに高山、東串良のあたりを見に行きたいので案内してくれないかとの依頼がありました。今年、弊社の年始休暇には、ゆとりがあったので、一日丸まるお供することにしました。

「時代をさかのぼって、古代4~7世紀あたりと、中世14~17世紀のころを現地で想像したい。」というのが、Hさんの来訪目的のひとつ。志布志湾に面する「波見」と「下伊倉」、「唐仁」を、おじさん二人でじっくり歩いてみました。 

旧屋敷跡を散策するHさん
旧屋敷跡を散策するHさん

 

 まずは、波見へ。高山郷土誌(平成9年発行)には、波見港が、柏原港ととともに大隅半島における海上交通の要所であり、中世においては、日本人の海外雄飛への根拠地あり貿易港であったこと(室町時代は和寇として)。江戸時代は密貿易港として琉球を通じて中国や南方からの物資を交易し島津藩の財政を潤し、外来文化の玄関口ともなったこと。豪商重(しげ)家は室町時代からこの地で交易を行い、幕末においては全国長者番付で西の関脇であったこと。などが記されています。

 

屋敷を囲む石積み
屋敷を囲む石積み

 

 波見浦の屋敷跡は、道沿いに堅牢な長い石積みが続いており、数百年の歴史と、その豊かさが実感として伝わってきます。海外から訪れた人々や、商人、船人、船を建造・修理する人々などのほか、番所に勤める役人たちも、この石垣の道を往来したことを想像すると、当時の賑わいにわくわくしてきます。

 

倉の壁には鏝絵で描かれた恵比寿さんの姿
倉の壁には鏝絵で描かれた恵比寿さんの姿

 

 いくつか残る倉の窓上のひとつには恵比寿さんが満面の笑顔を浮かべています。この浦町に並々ならぬ冨が集められたことを象徴しているようです。はるか中国や南方からの物資はこの倉に入り、国内のあちこちに財として伝わっていったことでしょう。

さらに、海沿いの通りに歩くと権現山を背に、海に向かって「戸柱神社」が鎮座されています。この神社の石造りの鳥居には、「天保5年8月吉日」(1834年)の文字が刻まれ、交易に携わっていた商人たちの財力がどれほどだったかを示しているようです。

 

 

戸柱神社の鳥居。権現山を背に海に向かって立つ。
戸柱神社の鳥居。権現山を背に海に向かって立つ。

 

 ここの境内から権現山へ登る歩道が整備されているようです。志布志湾を見守ると同時に、山上では航行の監視も行われていたことでしょう。この後、車で権現山に登り、志布志湾岸、下伊倉、唐仁との位置関係を俯瞰して、東串良町へと向かいました。 

 (続くのか M田)