対馬に行ってきました!(後編)

 

厳原地区ぶらり

 厳原(いづはら)は、現在の対馬の中心地です。厳原港があり、対馬市役所も厳原にあります。

  対馬に来る前、対馬にはどこか独特の雰囲気があって、言葉なども違うんだろうな、と思っていました。ところが来てみると、対馬にいることを忘れるほど、人々の雰囲気も言葉も九州のそれと同じでした。どこか対馬っぽさを期待していたので、少し肩透かしという感じがしたくらいです。 

 最終日は、古い街並みの残る厳原地区を、M田部長風にぶらり歩いてみました。

 

1.国分寺の山門

 対馬といえば、朝鮮通信史。対馬の宗家を交渉役として、李氏朝鮮から通信史を迎えた、と習いました。厳原の国分寺には、江戸時代に朝鮮通信史を迎えるための客館が新築されたそうです。客館自体は明治になって解体され、国分寺も火災に遭い、当時のものとしては山門のみが残っています。当時この寺も相当広かったのではないかと想像します。

 

2.屋敷を囲む石垣

 武家屋敷があったという厳原地区には、あちこちに立派な石垣が残っています。

 ふらっと入った「半井桃水館」、樋口一葉によって有名になった半井桃水(なからいとうすい)が対馬の生まれだったということを初めて知りました。対馬藩おかかえの医者の家だったそうです。お屋敷も立派なものだったようですが、維持できず取り壊されてしまったと、記念館の方が残念そうに話されていました。


 

3.雨森芳洲先生のお墓

 対馬に来ることがなければ知らなかった雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)先生。江戸時代、対馬藩で李氏朝鮮との交渉にあたった儒学者だそうです。人となりを含め「街道をゆく」にかなり詳しく紹介されています。朝鮮と幕府の間でかなり苦労されたことも書かれています。

 近江の生まれですが、88歳で亡くなるまで対馬で過ごし、お墓が厳原の長寿院にあるというので行ってみます。 

 案内看板の先を見ると、いくつかのお墓が見え、階段も見えていました。社長が、「あの(下に見えている)墓がそうじゃないか」というので、私が「えらい人のお墓は上にあるものだから、きっとあの階段を上った所にあるはずだ」と笑いながら階段を上ります。ところがいつまでたってもお目当てのお墓は無く、ついには竹やぶの中へ。私もそこまでは想像していなかったのですが、、

 

近くにありそうな案内看板
近くにありそうな案内看板
まだ上るのか?(社長撮影)
まだ上るのか?(社長撮影)

 

 途中で後方から「もうやめる」という社長の声が聞こえましたが(結局やめずに上ってきた)、気にせず上っていくと、お墓がありました。真ん中が芳洲先生、周囲にご家族のお墓があります。厳原にお屋敷もあったはずですが、観光案内には載っていないため良く分かりませんでした。両国のために尽力した人物、もう少し力を入れてPRしてもよいのではないかな、と思いました。

真ん中が芳洲先生、左が奥様のお墓
真ん中が芳洲先生、左が奥様のお墓

 

4.万松院

 社長がここは行くべきだというので、最後に訪れたのが「万松院(ばんしょういん)」。

 また階段です。この階段を上った場所に、対馬藩主宗家の墓所である御霊屋(おたまや)があり、中御霊屋、上御霊屋、と宗家代々のお墓がずらっと並んでいます。これだけ立派な墓所も珍しいのではないかと思います。

また階段!
また階段!

樹齢1200年という「万松院の大スギ」


御霊屋の中でも高い位置にある「上御霊屋」
御霊屋の中でも高い位置にある「上御霊屋」
宗家第19代で対馬藩初代 宗義智の墓
宗家第19代で対馬藩初代 宗義智の墓
第21代義真(右)と正室京極夫人の墓(左)は格別に大きい
第21代義真(右)と正室京極夫人の墓(左)は格別に大きい

 

 対馬は韓国からの観光客が多く、対馬側もそれを受け入れているので、ホテルや飲食店など賑わっていましたが、それは「対馬」というより、一番近い「日本」に来ているので、韓国人にとって日本っぽいもの(温泉、山、紅葉、日本食、化粧品など)がある場所が受けています。そこから外れてしまった場所は、誰もいなくて、古びて廃れていってしまいそうなのが心配です。

 これまで対馬についてほとんど知りませんでしたが、厳原地区を歩くと、国境の町として整備され、かなり賑わっていたことがうかがえます。また、車でまわると、自然の美しい場所が本当にたくさんありました。これを日本人が知らないのは、少しもったいない気がします。

  (またいつか行くかも!)M理

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コメント: 5
  • #1

    shigeo.nakai@terra.com.br (火曜日, 02 1月 2018 03:12)

    なるほど。サンパウロやリオに住むブラジル人が、私の仕事場の、アマゾンの寒村(暑村)に飛び込んでくるみたいな地理状況ですね。中井成夫―ブラジル

  • #2

    中井成夫 (火曜日, 02 1月 2018 03:39)

    (追加寄稿)
    しかし、「歴史がある」という事は、偉大な事実ですね。その昔、アメリカ建国の頃、財力に任せてローマ神殿を始めとする偉大なる建築物を模倣したが、それが持つ威厳さは表現出来なかった。いわく、「歴史は金で買えない」と彼らは痛感したという。
    そのUNFORGETABLEの歴史遺産が、こんな僻地に残っているんが「日本と言う神秘の国」。ブラジルが発見されて、500年ほど。イタリアからやポルトガルからのヨーロッパ移民が、国家建設に着手始めたのは、わずか150年ほどの昔。そしてアマゾン開発は、僅か50年昔の出来事。
    「また石段、また石段」の代わりに、「また森林、またジャングル」の繰り返し観光記事になりそうです。以上。

  • #3

    梶原 茂 (木曜日, 04 1月 2018 16:50)

    明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願い申し上げます。オーシカ梶原です。
    対馬の旅日記、大変面白く拝見させて頂きました。しかし凄いですね。私はビビリ(お化けや幽霊が怖い)ですので、山の中の神社へ一人で行く勇気が有りません。尊敬致します。対馬は学生の時、対馬出身の後輩の家に仲間と行って、上対馬と下対馬の間の海(なんとか湾、、、名前が出て来ません。)の無人島でキャンプした思い出があります。夜に小さな船で「なんとか湾」を周りましたが、波が発光して(夜光虫?)幻想的で綺麗だった事を思い出しました。

  • #4

    山佐木材メルマガ委員会 (木曜日, 04 1月 2018 17:39)

    中井様
    ブラジルよりコメントありがとうございます。
    確かに「また石段、また石段」でした。
    「また森林、またジャングル」、こちらの方がすごそうですね!(M理)

  • #5

    山佐木材メルマガ委員会 (木曜日, 04 1月 2018 17:47)

    梶原様
    こちらこそ本年もどうぞよろしくお願いいたします。
    浅茅(あそう)湾ですかね~。
    昔は真珠養殖でかなり活気があったそうです。(M理)