メルマガの開始とともに始まったM田部長のコーナー。
最初は「肝付町にそんなにネタがあるのか」と心配する声もありましたが、毎月しっかり(?)「ぶらり」してくれています。最近では社内でも「ぶらり部長」と呼ばれ、記事を楽しみにしている社員も多いようです。
第3回 吹上町 透き通る碧の湯 もみじ温泉
日吉からさらに南下し旧吹上町にはいると「温泉のやど」などと書かれた看板が目につくようになる。鹿児島市街からも県道22号線で伊作峠を越えれば30kmほどの距離だから、疲れを癒したい人にとっては、日常生活からしばし離れてゆっくりと休める湯治の里といったところだろう。
鹿児島県内には霧島や指宿のように全国的にも有名な温泉街のほかに、ひなびた湯のまちが多い。そこには地元の人たちが毎日通っても飽きないほどの魅力にあふれた立ち寄りの温泉がある。ここにもいいお湯が湧いているはずだ。期待を胸に看板の案内のまま車をすすめてみるとしよう。
国道270号線から県道を山の手に1.5㎞ほどはいったあたり、湯之浦川という小さな川沿いに5軒ほどの温泉宿があつまる「吹上温泉」はある。
まちへの入り口に建て替えが終わって間もない「吹上温泉郵便局」が見えてきた。郵便局の名前に地名ではなく、わざわざ「温泉」の文字がついているのは、往時、なじみの宿に長逗留して、便りや送受金をする湯治客が多かったことの証しだろう。しかし今、かつての温泉街に向かう道は人通りもわずかで、営業している店も多くはないようだ。
通りを進んでいると左手に「西郷南州翁来遊の碑500m→」と白塗りの板に一行筆書きのみの札が立っていた。矢印は、温泉のある方から右に180°の方向を指している。まずはこちらからご覧なさいと言うことか。その先に続いている林道は、道幅もせまく急な登りである。ありきたりな石碑にがっかりさせられることがよくある。そんな気もしないではないが、行ってみることにした。林道の途中に、今度は踏みあともうすい山道をさして、「徒歩80m」の札が立っている。ここまできたら見て帰らぬわけにはいかない。落ち葉と枯れ枝を踏みながら短い坂を登ったさきに、杉と楠のうっそうとした林に囲まれて、2m四方、高さ3m以上はあろうか、立派な石碑が建っていた。上段の天然石には「西郷南州翁来遊之碑」と刻字されている。その碑名にそえて「元帥伯爵 東郷平八郎 畫」とある。
日露戦争において、日本海戦でロシアバルチック艦隊に完勝した東郷平八郎が揮毫しているのだ。元帥まで登りつめ軍神といわれるほど崇敬された彼がどのような思いで、「西郷さんが来て遊んだ」と書いたのだろうか。大いに興味をそそられるものがある。
下段の碑文には昭和2年建立と記している。ちょっと調べてみると、この年は西郷隆盛が西南の役に敗れ鹿児島城山で自刃して、ちょうど50年の時が流れていることになる。半世紀という節目の年の意味もあるのかも知れない。
明治維新、日清、日露戦争の勝利をへて大正、そして昭和まで海軍軍人として生きた東郷平八郎は、西郷より20歳年下、同じ鹿児島城下加治屋町で育っている。そして、この碑名を揮毫したのは彼がかぞえで80歳の時であった。年を重ねた東郷元帥が、明治政府を下野して帰郷した時期にしばらくここで過ごした西郷に対するさまざまな思いと、その後西南の役で50歳にならない若さで逝ってしまったことへの哀悼の意を込めて筆を執ったことは想像して差しつかえはないと思う。
ふたりの偉人を刻した碑は、当時の吹上温泉街の誇りとして、まち全体を見おろすことのできる丘の頂上に建てられたのだろう。そのころは周囲の樹木は払われていて、まちから歩いて登れるような小径もあったかもしれない。
想像を切りあげて、西郷南州翁が何度も訪れたという伊作温泉に浸かってみよう。
坂を下りて通りの交差点を直進すると「もみじ温泉」が右手に見える。木造の白壁に「源泉かけ流し」と書かれてある。今回はここに決めた。
向かって左に島津の宿、右に島津の隠し湯と二棟。奧には家族湯もあるようだ。
さっそく棟間のせまい通路にはいり、右手の受付で勘定を済ます。そのむかいが温泉の入り口になっていて、暖簾がかかっている。木床の脱衣室はきちんと清掃され、素足に心地よい。壁の適応書には硫黄泉、疲労回復、切り傷にも効能有りとある。先の碑文に、西郷は戊申戦争後と、征韓論に敗れたとき鹿児島に帰り、伊作の霊泉を訪れたと書いてあった。傷つき疲れた心身をこの淡い硫黄の香りする源泉で癒したのだろう。
濁りのない碧色のお湯で溢れた三畳ほどの広さの湯舟が二槽、少し熱めとちょうどいい熱さに仕切られている。赤銅色のタイルで覆われた壁床に暖かみを感じる。
大きな窓からの陽射しで浴室全体が明るく、木造の天井も湯気を逃すためのがらりが光を通し梁や桁、天井板などを明るく見せてくれている。快い開放感のある風呂場である。
先客は、地元の知り合い同士らしい、かなりの先輩が二人、年金の話で盛り上がっていた。
この澄んだ温泉に毎日浸かっているからだろう、声も大きくて元気、そして気さくである。
先の碑文に「翁(西郷隆盛)は常に愛犬を牽きて萬山を渡り衆人と混じて霊泉に浴し」とあった。うさぎ狩りを好んだ西郷が山々を駆け回ったあと、温泉に浸かりながら伊作の人々と語り合うようすが浮かんでくるようだ。
ふたつの湯舟に交互に浸かって、身もこころも芯から暖まった。
外に出ると、まだ浅い春の川風がほてりをほどよく冷ましてくれる。
日置市を吹上海岸に沿って南下してきた。伊集院は関ヶ原の戦いで敵陣中央突破し敗走した島津義弘。東市来は朝鮮出兵時に連れてこられた陶工たち。日吉は明治維新十傑の小松帯刀と、それぞれの町に時代の主役がいた。そして、吹上では、西郷隆盛と東郷平八郎が現れた。
あらためて薩摩の歴史は奥深く、路は楽しみで満たされていると思う。
さらに南へと足を伸ばしてみよう。
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もみじ温泉
入浴料 400円
営業時間 午前6時~午後9時(立ち寄り湯)
定休日 水曜日
日置市吹上町湯之浦2503
(M田)
第2回 手作りバイキング 味処正ちゃんで昼ご飯
鹿児島県の地図を広げると、西側が薩摩半島、東側が大隅半島、南に薩南諸島が続いている。その地図を右に90度回転すると、薩摩半島は子牛の首頭のように見えてくる。きれいに弧を描く首のあたりが吹上浜、47kmにおよぶ砂丘である。海岸線に沿って、国道270号線がいちき串木野市から日置市をへて南さつま市まで、南へゆったりと延びている。
日置市は、2005年に伊集院、東市来、日吉、吹上の4町が合併して誕生した平成大合併のまちである。東シナ海を望む薩摩半島の西に位置し、ちょうど鹿児島市と背中合わせに隣接している。
鹿児島市からはまず市役所のある伊集院にはいる。この町には、関ヶ原の戦いで徳川家康軍の中央突破を果たした戦国武将島津義弘公の菩提寺が置かれている。毎秋、義弘公の遺徳を偲ぶため鹿児島市を起点に、大勢の人々が甲冑を装して歩き参拝する「妙円寺詣り」は、町の一大行事となっている。武将姿もさることながら、実は、歩きながら謳われる「妙円寺詣りの歌」こそが次代に伝えたい肝心のところなのだと思う。
JR伊集院駅前に建つ、島津義弘公の像は、歴史好きならずとも、一度見ておくのも悪くはなかろう。
ここから国道3号線に乗って西へ20分ほど移動すると東市来のまちが見えてくる。
東市来町といえば、司馬遼太郎著「故郷忘じがたく候」で描かれた沈寿冠窯をはじめとする薩摩焼の窯元が集まる苗代川美山が有名である。高台の美山から海のほうに下ると、東市来の市街地だ。町に入るとすぐに、湯之元温泉という泉質のよい立ち寄りの湯がいくつも軒を並べている。温泉はしごを好む向きにはたまらないところだ。
そこから国道270号でさらに南へ向かうと旧・日吉町だ。道沿いに、明治維新の十傑のひとりといわれる「小松帯刀」ゆかりの看板が目につくようになる。彼は、養子としてこの地にはいり、22歳で日吉城領主となった。薩摩の小松として大政奉還を成し遂げた後、病により36歳の若さで世を去った帯刀は、いまは小松家歴代の墓所円林寺跡にねむっている。
そろそろ昼食でもと思いながら日吉町吉利の広い畑地の一本道を走ると右手に「味処 正ちゃん」の大きな看板が立っている。先客も多いようだが、駐車場は広い。
軒下には、日替わりランチ(サラダバー、コーヒー付き)890円の文字。よく見ると8の字が上書き修正してある。物価高の波はここにも押し寄せているのだ
この店のランチは、主菜に加えて、取り放題のバイキングがついている。
サラダはもちろんだが、焼きそばもナポリタンスパゲッティもある。麻婆豆腐もカレーもあるし、野菜炒めも蕪の酢の物もある。ありふれたバイキングメニューではあるが、よく見ると料理の一つひとつに手作り感があふれている。決して豪華さはないが、産直の野菜が調理されて並んでいる安心感が伝わってくる。しかも、どれも美味しそうだ。
しかし、昔のようにはいかない。今日の主菜は天ぷらの盛り合わせだ。冷静に自制心をもって、みあった料理を選び適量を皿に盛ること。特に、仕上げにカレーライスなどもってのほかなのである。
思い留まることができずに多すぎる昼飯をすませて、駐車場に出ると海からの心地よい風が吹いてきた。 松林のむこうは吹上浜、そして東シナ海が広がっている。
おおいに元気をもらった。これから、さらに南へ、旧吹上町から南さつま市にむかって車を走らせよう。
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味処正ちゃん
営業時間11:00~14:00 休み日曜・月曜
日置市日吉町吉利1589
(M田)
みなさま、素晴らしいご新年をお迎えのことと存じます。
ご無沙汰しておりました。M田です。
気分も新たに、さつまの国の道々で立ち寄った、じわりといい感じのところをご紹介できればと思います。本年もよろしくお願い申し上げます。
第1回 夕日がにあう癒しの湯 薩摩薬師温泉
平成の大合併は、中央や県から見れば自治体の数が減った分だけ事務などの負担は減少したかもしれないが、さつまの国をあちこちと移動しているわたしには広くつかみどころのない境界線が引かれたうえに、合併前にその町がもっていた由緒ある名前や独特の魅力を無理やり剥奪してしまったように思えてならない。
さて、鹿児島市郡山町(旧日置郡郡山町)あたりから伊佐市へと向かうには、薩摩川内市入来町を経てさつま町で国道328号から267号へと乗り換えて走ることになる。現さつま町は、薩摩郡宮之城町と薩摩町が合併して誕生した町である。
宮之城は地元では「みやんじょ」と発音され、薩摩言葉にはめずらしく語感は穏やかで豊かな土地の印象が伝わってくるように思う。大河川内川の流れにのる水運と、南に向かえば鹿児島市、西には薩摩川内市、東は伊佐市、北は出水市にと幹道が集まっている。北薩摩の商業・交通の要所であり、観光・遊興の中心地であったし、旧国鉄時代には宮之城線という地元の足として欠かせぬ路線が、川内駅から薩摩大口駅まで走っていた。
一方薩摩町は、江戸時代から隣の山ヶ野金山とともに永野金山の門前町としてさかえ、明治期には西郷隆盛の子菊次郎の指導で、鉱業と人材育成に重きをおいた一種文化的な雰囲気をもつ賑やかな町であったと聞く。高校時代、宮之城線に乗ると汽車は薩摩永野駅で、大口へ向かう分岐と登り勾配を緩やかするためにスイッチバックをしていたことを思い出す。いまは、駅公園にその軌道が、往時を偲ぶように残されている。
宮之城を後にして、ゆったりとした山あいの国道を東に向かうと、右手の田んぼの向こうに、あぶなく見落としそうなほど控えめに、薩摩薬師寺が見えてくる。九州八十八ヶ所霊場第48番、山号は音泉山、真言のお寺だ。この境内に質素な温泉舎が本堂の手前に建っている。
わたしがここを通るのはきまって日が沈むころで、本堂と温泉舎は、杉山を背にして夕陽に照らされている。稲刈りの終わった田には、電柱の影だけが長く延びる。この時刻、一日の仕事をおえた善男善女がひとっ風呂浴びに来ていることだろう。
さっそく、玄関横にある受付窓式の番台に挨拶して入浴。
壁に大きく掲げられた温泉分析書には、アルカリ性単純温泉、泉温42.5℃とある。掛け流しである。なるほど浴槽には無色透明で無臭、40℃あるかないかのお湯があふれていた。みなさんつるつるのぬるめの湯に、ゆっくりと浸かり疲れを癒している。
二つある湯舟のひとつは、境内の井戸からひいた水風呂で18℃くらいだろうか、ほどほどの冷たさで心地よいばかりだ。蛇口からとくとくと流れ出る水を手ですくって飲むと美味い。自宅用に持参したペットボトルにこの水を汲んで帰る人も多いようだ。
温浴と冷浴を数回繰り返せば、からだは芯から暖まり、浮き世の垢も、煩悩もすっきりと落ちてしまい、どことなく身軽になったような気がする。
浴槽も、洗い場も、脱衣場もきれいに清掃されていて、清潔感がただよっているのがうれしい。
番台の皿に、柿が切っておいてあったので、湯疲れ防止に一切れいただいた。
汗を拭きふき駐車場に出ると、豆腐屋の移動販売車が、夕餉の一品にいかがと停まっていた。薬師如来様の恩恵を受けた手前今宵は精進。奮発して鹿児島産大豆の木綿豆腐と黒胡麻豆腐を買って帰ろう。冷や奴とお湯割りが待ち遠しい。
ここから伊佐市までは長いのぼり坂が続く。夕暮れ時の求名坂(ぐみょざか)である。
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薩摩薬師温泉
住 所 薩摩郡さつま町求名570
入浴料 250円
(M田)
コロナウイルスの緊急事態宣言が日本全国を対象として出されました。もちろんこちら大隅半島も例外ではありませんが、ありがたいことに現段階では、会社には通常出勤できています。
けれども問題はお休みの日。
街にもいけず、山にもいけず、妻にも愚痴の多さにも負けぬ丈夫な心を持ち、いつも静かに笑っている、こともなかなか続くものではありません。
そこで、今回は自宅の窓から外を覗いてみることにしました。
外を覗くというと刑事に追い詰められた犯罪者のようで何かしらうしろめたい感がありますが、そうなるにはそうなるだけの理由があるんです。相手に気付かれてはまずいんです。逃げちゃうんです。
カーテン越しの窓の外、ちょいとした木もあるが、手入れの行き届かない庭に、取ってつけたような小さな水場がしつらえてある。シチュエーションはこれだけです。
ある日曜日のこと。まずこの水場に現れたのはキジバト。ひとっぷろ浴びていきました。
水場は鳥たちにとっては体や羽根を清潔に保つためのいわば銭湯。
「浴来てくれます。」(byヒゲジイ:NHKダーウィンが来た)
つぎに喉カラッカラのヒヨドリが水をチュウチュウ?
くちばしを水に突っ込んでかなり大胆に吸っているように見えますが、ヒヨドリをはじめ一般的な鳥の仲間は、チュウチュウできないそうなんです。水をいったん口にためて上を向いて飲み下すといわれています。あとから来たムクドリもくちばしを水につけた後上を向いてゴックンしているようでした。
ただ、ハトの仲間はチュウチュウ吸えるみたいです。なんでかはわかりませんが。
さらに、カーテンに隠れてじっと待っていると、珍しいお客が現れました。シメです。
からだに似合わない太いくちばしと目の下の隈によって、かなり陰険な表情に見えます。硬い木の実や草の実を主食にしているスズメより少し大きめの小鳥です。はじめてこの庭に来てくれました。
この日、ほかにもいろいろな鳥や昆虫がこの水場のまわりにやってきて、隠れて覗いている変なおじさんの目を楽しませてくれました。
ぶらりもいいけど、家にいてこそわかる良さもあるものだと思うM田です。みなさま楽しみは身近にありますぞ。くれぐれも STAY HOMEで。
(M田)
令和2年3月14日 観測史上最も早く靖国神社のソメイヨシノの開花宣言が発表され、22日には満開とのお噂でした。
しかし、九州南端鹿児島だけは27日になっても開花は発表されていません。「休眠打破」がぼんやりしているのが原因だそうですが、それならこの冬はどこも暖冬だったはずで、少し納得がいかないところであります。地元では、「鹿児島気象台の標本木は遅咲きの性分らしい。」という説がまことしやかにささやかれ始めました。
ただこの春は、新型コロナウイルスの感染拡大対策で、満開となった桜の名所も花見の宴は自粛をうながされているとのこと。憂さ晴らしもままならないでしょう。
身近なソメイヨシノは並木になると美しさが何倍にもふくらむようで、西の造幣局、東の目黒川あたりがその筆頭でしょうか。
こちら大隅にも名所と呼ばれる並木がいくつかありますが満開の予想は4月初旬とのこと。薄紅色の雲のような花群を眺めながらそぞろ歩き、楽しみです。
さて、肝付の南、30分ほどドライブした海沿いに岸良というのどかな集落があります。温暖で霜もない土地柄、路地のバナナには花が咲いて実をつけており、ヘゴがすくすくと伸びている。少なからず亜熱帯に近く、休眠打破の話題とは無縁に思える気候です。
この岸良集落の山手にテコテンというユニークな名前のついた桜があり、山桜がそろそろ盛りを過ぎるころが見頃を迎えるという話はかなり前から聞いていました。しかし、実際に見たことはありません。その昔、このあたりの首領が地元でテコテンドンと呼ばれる北岳から移植したという伝説をもつ大きな桜を一度は見ておきたい。
てことで、時間を見つけて南下ドライブ30分。岸良集落に入るとすぐに「テコテン桜」の小さな看板が消火栓の横に立っています。尋ねる人影もみえないのでそのまんま里道を直進、したもののいつしか林道になっていました。5分ほど走ってもなかなかなかなか目的の木が見えてこない。この道で大丈夫かなと不安になりながらも、さらにうっそうとした混合林のガタゴト道を進むことしばし。林が途切れ明るい場所に出たとたん、林道の左下にその巨木が出現しました。
山間の段々畑に、純白の裾を四方に大きく広げどっしりと構えるその姿には圧倒的な存在感がみなぎっています。桜と言えば女性的な印象を持っていましたが、この樹の清冽な咲きっぷりからは力強い雄々しさを感じます。
林道に降り立つと、さわやかな花の香りとその花々に群れている虫たちの羽音に包まれました。林道から根もとにおりる小路をたどって樹の下へ。
20m近くある樹高をささえる幹回りは3m強、見上げれば四方30m以上に広がる枝振りのたくましさはまさに圧巻です。樹齢は二百年以上とも伝えられる太い幹の胸高あたりには注連縄、根方には榊と塩、米、酒が供えられ、ご神木として祭られているようです。
近づくと5弁の花びらは純白で、花が大きく開くにつれ花心の薄紅がしだいに濃くなっているのがわかります。山桜の仲間のように葉が先に伸びることはなく、花びらはソメイヨシノに比べるとほんの少し大きいようです。花数も多くボリュームも感じられます。
この日訪れる人はわずかでした。もしかするとこの集落のお花見以外でこの桜を見に来る人はほとんどいないのではないかと思われます。いや、地元の人も、かつてこの樹を植えた人も、そしてこの樹自身も、咲かせた花の下に多くの人に来てもらうことを望んでいないのではなかろうかという気もしてきます。ただ咲くのみ。そんな気概を発しているような大樹です。
それにしても、花のいい蜜に誘われるのでしょうか、蜂や甲虫の羽音、それから、メジロやヒヨドリのさえずりも途切れることがありません。
ほとんど訪れる人もいない山間に、真っ白な花を咲かせる孤高の桜。
このところの鬱々とした気分を一気に吹き飛ばしてくれました。
(次はどこかな M田)
森昌子が「ヒュルリー、ヒュルリララー」と情感をこめて歌った「越冬つばめ」。テレビの前で裏声を絞り出しながら口ずさんだムキも多いことでしょう。季節にそむいたために冬の寒さに凍えてしまいそうなはかなさがせつせつと伝わってきて、思わず「大丈夫ですかぁっ?」と声をかけたくなるほどです。
ツバメは、春先3月半ばころに南の国から日本列島に渡ってきて、夏中に子育てをし、秋にはまた南の国へ帰っていく夏鳥です。おおかたは冬を待たずに姿を見せなくなるのですが、本州以南では少数が越冬するそうです。こちら肝付、鹿屋あたりでも真冬に見かけるようになりました。しかしながら、この越冬ツバメたちがどこをねぐらにしているのかは、M田研究不足で知りませんでした。
2月の半ば頃、いつものように西平石油店高山スタンドで会社の車に給油をお願いしていると、メンテナンスピットに飛び入るツバメを何羽か見かけました。「もう、渡ってきたのかな」とも思いましたが、時季としては早すぎます。店のスタッフさんに聞いてみると何年か前から数十羽がピットで冬を越すようになり、ここ2年は150羽を超えているとのこと。なんと、いつも来ているガソリンスタンドが越冬ツバメたちのねぐらのひとつだったというわけです。
ツバメは、昔から農業では害虫を餌とすることから益鳥として大事にされてきましたが、現在では糞の問題とかで、軒先に営巣されるのを嫌がるひとも多いですし、そもそもこのお仕事では車を汚したりすることもあるはずです。それなのに追い出さないのはなーんでか。実はここの社長の深い思い入れに理由がありました。
曰く、「ここに来る一羽いちわに名前を付けたいくらいツバメが大好きなのよ。だから鳩は追っ払ってもツバメは大切に扱うように言っている。天皇陛下もお召しになる最高の礼服を燕尾服というようにとても縁起の良い鳥。迷惑などとは全く思っていない。数が増えてくれるのをとても楽しみしている。」とのこと。恐れ入りました。
ツバメは人に最も近いところに営巣する鳥です。それはかれらの天敵であるカラスから雛を守るためだと言われています。それにしても、このお店では昼間も店員さんたちが働いており、さらには、自動車の出入りも激しいピットです。社長もさることながら、従業員のみなさんも温かく見守っているからこそ、何年も前から居付き、年を経るたびに数を増やしたのだろうと思います。
「夕方になれば、帰ってくるから待ってれば。」と店長さん。日没後、ツバメたちは餌場からこの店の上空に集まって旋回を繰り返し、薄暗くなる6時過ぎには小集団ごとにねぐらに入ってくると言う。見上げれば、エネオスの看板のうえには50羽を超えるツバメが舞っていました。
落ち着いた頃ピットの中をのぞくと、蛍光灯の笠のうえや壁に40箇近い巣が作られており、その中や鉄骨の上あたりに200羽を超えるツバメたちが肩を寄せ合っています。夜にはシャッターがおろされて翌朝まで、凍えるような冷たい風も、恐ろしい猫も入ってはきません。まさに、ここは越冬ツバメのパラダイスなのです。
このブログが配信される頃、鹿児島には南の国から越冬しなかったツバメたちが渡ってきています。その頃から秋まで、このパラダイスは入れ替わり立ち替わりの賑やかな様相を見せてくれることでしょう。
ちなみに、ツバメのさえずりは、力強い声で「虫食って、土食って、渋―い」と聞きなし(※)されるそうです。
(次こそ花かな M田)
(※)聞きなし・・・鳥のさえずりを意味のある人の言葉やフレーズに当てはめて憶えやすくしたもの
ご協力:株式会社鹿屋西平石油店様
参考文献:平凡社『日本の野鳥650』
偕成社『ツバメ観察事典』
新年のご挨拶を交わしてから早1ヶ月。寒中お見舞い申し上げます。
気象庁からは全国的に暖冬傾向にあると予報が出されましたが、いかがでしたか?
こちら南九州大隅では、特有の黒土の畑が真っ白な霜に覆われる朝もあれば、外水道のバケツには薄い氷が張る日もあるにはありましたが、いつもと比べれば冬らしい日の少ないお正月でした。
そんな中、1月25日旧暦での元旦を迎えたとたん、鹿児島県内では南風が吹いて最高気温が20℃近くまで上昇。外での作業は汗ばむくらいで、上着を脱いでTシャツ一枚の人もおりました。さらに、26日の夜から翌日の明け方にかけては、季節外れの暴風雨が吹き荒れ、フェリーや新幹線など交通機関への支障も出るほどでした。
ほんとの意味で初春を迎え、その陽気に応えるように、庭の梅もほころび始めています。
やはり私たちの暮らしは、旧暦(太陰太陽暦)で日を追う方が何かとしっくりくるようで、花や木の開花や成長、昆虫や鳥などの活動・移動時期などはなおさらの感があります。27日未明の暴風雨は、季節外れではなくまさに「春の嵐」と呼ぶにふさわしいものだったのでしょう。
そんなうれしい春になったので、とある日曜日、家人と野に出てみようということになりました。
まずは、日当たりの良い畑の土手。ここは毎年、蕗のとうが一番早く顔を出してくれます。今年も丸くふっくらとした上物を期待通り収穫できました。独特の強い香りが早春を実感させてくれます。
水源地近くの湿地には、柔らかくたけの長い芹が見つかりました。ゴム長を履いて、温んだ水から細い茎をすっと伸ばした新芽を根ごと抜き取ります。緑の葉と白く細い根。すっきりとした感じが食欲をそそるのであります。
最後に、「まだ出てるはずないよ」と訝しむ家人をよそに、いつもの竹山へ。すりすり足で探索していると、ちっちゃいのがころころと転がり出て、そのすぐ近くに手のひらサイズのりっぱな筍を発見!思わずどや顔。ここは慎重に掘り出しました。
その夜、とれたての筍と蕗のとうは天ぷらに、芹はかき揚げにすることにしました。前割りした焼酎「大海」には燗をつけて、準備万端。揚げたてを放りこむとほろ苦さと野の香りが口いっぱいに広がり、初ものをいただく喜びに思わず「わっはっは」と笑いたくなるのです。そして、一献。
(次はあの花か。M田)
前回、ここ大隅の秋は近頃なくなったようだ、というようなことを書いてしまった気がします。しかしながら、四季の国日本で秋が削除される現象が起こってはいけないはずで、11月も末を迎えた頃、それを証明できるものはないのか?コスモス畑とかバラ園とか何となく「秋っぽいなぁ」とは思わされるけれども、どうも印象的すぎて弱い。「大隅の秋はこれです。」と日本中に胸を張って言えるようなものはないのだろうか。と探していました。
そんな思いを知ってか知らずか、大海酒造株式会社 営業の平後園さんから「今年の焼酎の仕込みもほぼ終わりました。工場見学できます。」とのお声かけをいただきました。
大海酒造さんは鹿屋市にあり、地元で収穫されるさつま芋を原料に美味しい焼酎を醸しているメーカーです。ちなみに、M田とその仲間たちの血中には、ほぼ毎日、ここの焼酎が注ぎ込まれている状況なのであります。
9月はじめから、1日あたり約20トン、地元の契約農家さんが春から丹精込めて作った芋が持ち込まれるそうです。原料の芋はここから洗い場を経て、不良部分を切り取られ、醸造の工程へと流れていくのでしょう。3ヶ月にわたって休む間もなく受入に動いていたこのホッパーも、仕込みが終わった今、きれいに掃除され静かに佇んでいるようでした。
二次もろみから蒸留の工程も見せてもらいました。工場の中は、もろみが発酵する音もおとなしく修まっていて、銀色の蒸留器から蒸気が白く上がっており、もろみや原酒のかおりが濃く淡く漂っていました。
原酒は、それぞれの旨み成分を残すように濾過され貯蔵タンクに納め、寝かされたあと、杜氏の味覚の基準に達したところで、割り水をして出荷という段取りとのこと。新焼酎が11月に入ってからになるのもこれで納得。今年もいい焼酎が胃の腑に染みるわけですなぁ。
なぜ、11月の末に、仕込み芋の搬入が終わるのか?
その疑問に平後園さんがあっけカランと答えてくれました。
「それは霜が降り始めるから~!」(芋は霜で凍ると使えなくなるそうです。)
ボーッと生きていたことにはっきりと気づかされました。
ここが秋と冬の境目なのです。9、10、11月は大隅の秋だった。これからが冬なのだと。
これからますます焼酎が美味しくなる季節。蔵人のお話しによると、熱々のお湯で割るよりも、好みで先割りした冷や焼酎に燗をつける方が、香りが飛ぶことがなくまろやかで美味しいそうですよ。
大海酒造の皆様、お忙しいところ、ありがとうございました。お陰さまで、実感できる秋が見つかりました。
(次ははずせない肴かな。 M田)
立冬を迎えると、ここ肝付の最低気温は11℃前後になってきました。このあたりの山肌の木々は紅葉する前に茶色く散ってしまうものが多いようで、南国の少し残念なところです。
そんな山あいの風景にかこまれて、11月10日川上地区の産地直送物産販売所「やまびこ館」で新米祭りが催されるという看板が目にとまりました。地元の農家さんたちが作る季節の旬の野菜やくだものを提供してくれるうれしいお店です。新米祭りでは、地区の人が総出でお米の他、蜜柑や野菜、地元で山太郎がにと呼ばれるモクズガニまでお手頃価格で販売されています。
まつりの呼び物の新米「川上清流米」は、この地区の山から冷たい水を、大きな機械が入らない小さな田んぼに引きいれ、ほとんど手作業で作り上げる美味しいお米です。5Kg入りで用意されていますが、午前中には売り切れてしまうほどの人気があります。
「川上清流米」の「清流」には、山から引く冷水に加え、もう一つ、この地区自慢の滝にも由来するのではないのかとの説(M田推測)もあります。この販売所のすぐ北に川上神社という霊験あらたかなりと噂の高いお社が鎮座されており、その社殿の裏に大きくはありませんが、見事な瀑布と蒼い滝壺を持つ「片野の滝」があるのです。
神社から滝まで続く遊歩道は、地元の皆さんが奉仕作業で整備されており、木の階段や手摺りなど歩く人への心配りを感じさせる、歩きやすい歩道です。神社の鳥居から200mほどで川面に下りることができ、オオタニワタリが自生している大木も左右に。大隅半島の植生の豊かさを実感できます。
明るい冬の木漏れ日を浴びながら、河原でこの滝を眺めつつ、新米で炊いたおにぎりを頬張ってみたいと思うのはM田ばかりではないだろうなと思うところです。
(次は冬真っ盛りだな M田)
10月に入りました。しかし、南国鹿児島はさすがに南国だけあって、昼間は熱中症注意報で「要警戒」が呼びかけられるほどの暑さです。この地方の住人たちから、
A:「こんごろ、あっがねごっなったなぁ。はい、なっ、いっきふいじゃ。」、
B:「まこっじゃ」
C:「じゃっど、じゃっど」
という四季の国NIPPONに暮らす者とは思えない会話が聞こえてくるもの無理からぬことかもしれません。(和訳はページ下。)
ここ肝付で、初秋を体感させてくれるのは、夕方暮れかかる頃に吹く風くらいでしょうか。ビール片手に庭に出て、夕月を見上げながら、涼しい空気に包まれるのいいものです。
天気のいい夕方は、佐藤春夫先生ではないけれど、七輪でも出して秋刀魚など焼いてみようかという気分になってしまう。お隣に気をつかうこともない田舎ならではの気軽さです。
めんどくさがる家人を、おれが焼くからとなだめすかして、秋刀魚やら地元の赤えびやら茸やらを買い出しにやり、自分は七輪のほこりを払って庭に出し、炭をおこして、準備OK。
団扇でぱたぱた七輪に風をやりながら、火相を見ていると、やがてものが届く。まだ明るいうちに焼き始めました。
我が家で愛用の七輪は防油、防水仕様の黒塗り。丈夫なつくりでもう20年は使っているかもしれません。七輪の上に乗っている鋳物の輪っかは「はちりん」と呼ばれています。七の上は八。だからでしょうか?炭火との距離を調節するものです。
火力は、下に見える通風口を風上にむけて、あるいはここから団扇などで風を送って調節する仕組みになっています。脂の少ないものから乗せていく方が煙たくなくていいかもしれません。焼けた順に、はふはふっと口に放りいれて、ビールで流しこめば、それで至福が訪れるのです。厚揚げだのごぼ天だのを乗せる頃には、ビールから焼酎に選手交代しております。最後に秋刀魚の登場で七輪は赤く燃え上がるのでありました。
「あわれ秋風よ」などどこ吹く風。今年も秋刀魚を大変美味しくいただきました。
「やはり秋刀魚は肝付にかぎる」などなどと。
(次は体力を使うぞM田)
A:「こんごろ、あっがねごっなったなぁ。はい、なっ、いっきふいじゃ。」、
B:「まこっじゃ」
C:「じゃっど、じゃっど」
和訳 A:「近頃は、秋がなくなりましたね。春、夏、一気に冬です。」
B:「ほんとですね。」
C:「そうです。そうです。」
処暑も過ぎ南国大隅でも、朝夕は幾分過ごしやすくなりました。近くのスーパーへの買い物も、「ちょいと自転車で行ってみるか。」などという気分にもなってしまうくらいの肌持ち。歩きにはまだまだ暑いけど、自転車に乗って走る風の涼しさはなかなかいいものです。手軽さと、購入費用を除けば経費は0というのも、自動車にはない魅力かもしれません。
鹿児島県では2020年、東京オリンピックが終わった後に国体が開催されます。そして自転車競技は、わが肝付町を通過するコースが設定されており、リハーサル大会を9月8日に実施、しかも時間制限付きの全面通行止めでやるのだ!とのお布令です。
走路を俯瞰してみると、鹿屋市から肝付町そして錦江町まで、つまり北隣から南隣を繋ぐ位置に置かれているわけで、町内会の回覧板なら、わざわざこちらに回り道してくれてありがとね、と軽くお礼でも言いたくなりそうなコース取りです。通常なら、鹿屋市内から西へ直接錦江湾沿いに抜けるコースを選ぶのが順当です。では、なぜ主催者は「わざわざ回り道」を選択したのか。なにか底知れない動機があるのではないか?
その動機を究明したい一心で、そしてちょっと休みの時間を持てあましていたので、犯人の否、主催者の残した地図でいうエリア1からエリア2を自転車に乗って走ってみることにしました。
まずは出発点鹿屋市役所へ向かいますが、肝付町を出たとたんに土砂降りの雨に襲われ、続行か断念か迷いました。が、カッパを持ってきていたので、これを着用し続行(無謀という声もある)、40分ほどで到着。
国体開催の垂れ幕が真ん中に燃える赤で設置され、肝付半島の中心都市「鹿屋市」が来年の国体で担うであろう役割をしっかりと表しているようです。
でも、ここがスタートではなく、商店街を通り北田交差点までみんなでパレードするのだそう。当日商店街に賑やかな応援ができる人通りがあることを祈りながらとぼとぼと走りました。
「北田交差点」。リナシティかのや前あたりがスタートラインになるのでしょう。ここは鹿屋シラス台地の底になります。百台を超える自転車がいっせいに商店街を走り抜け、寿台地への坂をあがる姿は壮観でしょう。
寿地区・笠野地区のアーバンヒルズ地帯を東へ。肝付町境まで。コース予定時間は、スタート後10分と車並みです。(M田タイム:30分)
ここから左折して、台地を下り肝付町内へ。
エリア1からエリア2の途中まで(回り道部分)、川に沿った田んぼと、緩い坂を上ったシラス台地畑の風景が何度もくりかえされる、いわゆる鹿児島の里の風景が続くのです。日頃自動車ではさほど感じない台地と谷地とのアップダウンが自転車を漕ぐことで実感させられます。登りのきつさと、下りの開放感はきっとやみつきになることでしょう。
大姶良町横尾岳峠への長い登りを越えると、錦江湾が見えてきます。急な坂を海岸まで下りきると浜田交差点です。コース予定時間はスタートから50分。(M田170分)
曇りの日、錦江湾の水墨画にも似た風景を右手に見ながら、国道269号線を南下します。
道路はカルデラの縁を通り、街境ごとに何回かアップダウンを繰り返しながら錦江町に。実コースでは栄町交差点を左折し、錦江町田代地区(旧田代町)へ一気に高低差200mを駆け上がりますが、M田の体力では無理と諦めました。コース予定時間はスタートから90分。(M田240分)。これから山に登って走る国体選手はやはりもの凄い人たちです。大会記録はもっと早いのでしょう。
へとへとのM田は、この交差点を直進し、南大隅町役場をめざし、20分後に到着しました。
さて、自転車を漕いでみて分かりました。
「わざわざ回り道」のコースを設定したのは、「全国から訪れる選手たちに鹿児島の里のようすを実感させたかったから~」ではないでしょうか。
自転車の気持ちよさを改めて感じた一日になりました。
(次は楽に行こう。M田)
7月24日頃、気象庁は九州南部の梅雨明けを発表しました。確か北陸当たりまで同じ頃の梅雨明け宣言だったようです。今年の梅雨は長かった、雨も多かった、だから涼しかった。
思えばあの頃はよかった。いまはただ、真っ赤に燃える太陽に夏を乗り切る力を試されている毎日です。
さて、我が町肝付には、あの初代「はやぶさ」を打ち上げたJAXA内之浦宇宙空間観測所があります。ここで暮らしている町民は「全国的に見ても、宇宙に一番近か町の筆頭と威張っても良かくらいだ、種子島とは歴史が違う。」と密かに誇らしく思っている風であります。たとえば、鹿屋市から肝付町への入り口には、イプシロンロケットの実物大模型がトーテムポールのように立って訪問者を見下ろしていますし、内之浦地区に入るとその風はさらに強くなり、小学校の大外壁に宇宙遊泳する子供たちの姿が描かれていたり、ランチの美味しい定食屋さんは「ニューロケット」だったりと、ロケット関連満載の町並みになっているのです。
とある休日、熱中症対策として塩分補給のため、あの「まつわきラーメン」を食べに行きました。旧内之浦町民のソウルフードを美味しくいただき、夏の海をながめながら南にドライブ。橋の親柱の形状が気になっていたのですが、いつもスルーしていました。この日初めてじっくり見てみました。
なんと、観測所で打ち上げた人工衛星をモデルにした親柱でした。大きな花崗岩を成形したうえに、英語・カタカナ・日本語訳をひらがなで橋名を刻むという念の入れようです。。街に一番近い橋がヴィーナス(金星)、その次はマーズ(火星)。
この二つのモデルは同じ衛星のようです。火星がちょっと斜に構えてますが。
次はと見ると、
ジュピター(木星)です。この大胆なデザインはドライバーの目を釘付けにしそうです。
あれあれ、もしかして太陽に近い方から惑星を並べてあるところでしょうか?水星橋はまだ未完成なのですね。地球は、今いるから飛ばしたと。では次は・・・
土星でした。この橋からは、宇宙空間観測所自慢のパラボラアンテナも見えてきます。
銀河系の外へと広がってきました。最後はやはり天王星橋(ユウラナス)です。
5つの橋の名に、街を太陽に見立て惑星を順にならべるとは、感服致しました。
いつも何気なく通り過ぎている道沿いに、街のほこりや思い入れが込められていることを改めて知ることができました。今夜はジュピターでも聞きながら、はやぶさ2に思いを馳せてみましょう。
(次は、山も良いかもね。 M田)
※参考 肝付町ホームページ
7月に入りました。梅雨前線は日本列島の真上を横切って、局地的な大雨など活発な活動を続けています。そんな季節の中で、志布志湾沿岸の浜辺で繁殖を始めたコアジサシたち。その後の報告をすることにします。
5月末、コアジサシ100羽ほどが志布志湾に注ぐ河口近くの砂浜に飛来し、6月初旬には抱卵を確認することができました。その後、コロニーの中の鳥たちは少しずつ種類と数を増やし、6月10日過ぎには、ベニアジサシという岩礁で繁殖するといわれている種類も100羽を越えて加わり、卵を抱き始めたのです。このコロニーで少なくとも4種類200羽以上をカウントしました。
コアジサシは、産卵後20日ほどで雛が孵るとのことです。その日を楽しみに待つことに。
そして、抱卵を確認してから、ちょうど3週間たった夕方、見守っている方たちの一人から雛の写真が送られてきました。早速親鳥が雛に餌を与えている姿もとらえられています。これから次から次に孵化していく時期に入るのでしょう。
ところが、野生の厳しさは、人の手の届かないところにあるようです。
2日後の朝、コロニーが天敵のタヌキかイタチのなかまに襲われて、卵も雛も、親たちすらも姿を見ることができなくなってしまいました。残っていたのは、薄く掘られただけの砂の巣ばかりでした。
この志布志湾岸のなかで、営巣する場所をほかに見つけることができるのか、営巣しても雨や波、そして外敵から卵や雛を守り育てることができるのか。5000kmもの旅をしてこの海岸を選んだ鳥たちに、ここでもう一度子育てを見せてもらいたいものです。
季節は梅雨の真っ只中。こちら大隅半島では、紫陽花の盛りは過ぎ、蓮の花が開き始めました。鹿屋市串良支所の大賀蓮の蕾も雨に似合います。
(次回は悲しい思いはしたくない。 M田)
気象庁HPの「令和元年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」によると5月31日ごろ、昨年より5日早く、南九州が梅雨入りしたようです。たしかにその日以降曇りか雨、じっとりとした気候になっています。あれほどわがもの顔で青空を泳いでいた鯉のぼりは姿を消し、紫陽花が静かに咲いているのがふさわしい季節になりました。
これから夏にかけて、いろいろな夏鳥たちも繁殖の時季を迎えているようです。
2017年にこのブログで紹介した、コアジサシ(小鯵刺)もはるばる東アジアからオセアニアにかけての地域から5000km近くの旅をして、志布志湾岸にやってきてくれました。今年は、5月末ごろからコロニーを形成し、抱卵を始めており、6月2日現在約100羽をカウントしました。
現在コアジサシは、鹿児島県版レッドリストでは絶滅危惧種Ⅰ類(絶滅の危機に瀕している種)に、位置づけされており、鹿児島県内での繁殖は確認できないとされている鳥です。
・・これまでのコアジサシブログ・・
参照①:2016年4月ぶらり旅(番外編)「帰っておいでコアジサシ ボランティア活動 in 志布志」
参照②:2017年8月ぶらり旅(番外編)「コアジサシが帰ってきました!」
参照③:2017年9月ぶらり旅(番外編)「コアジサシが帰ってきました!(2)」
ペアが成立すると、砂地に簡単なくぼみを作り、メスは1~3個ほどの卵を産みます。そして、雄雌交代で20日ほど抱卵したあと、雛がかえり、子育てが始まるのです。彼らは主に海の小魚を餌としており、求愛のときも子育てのときも、海に真っ逆さまにダイビングして小魚を取ってきては、パートナーや雛に与えている様子を観察することができます。
折りしも梅雨の季節と抱卵の期間が重なりますが、卵をできるだけ雨に濡らさないよう交代を繰り返すひたむきな姿に、しみじみとした感動を覚えずにはいられません。
ただ、砂地には、雨に削られた跡が生々しく残っており、これからの大雨でさらに広く深く浸食されるのは避けられないことでしょう。また、夏に向けて、大風や大波が砂浜を襲います。自然の影響を強く受ける中での子育て。環境省が実施した調査によると雛が飛べるようになる割合は例年1割にも満たない場合が多いそうです。
また、営巣地は、釣り人やレジャーで訪れる人たちが簡単に入ることができる場所で、入ってきた人に親鳥たちが驚いて、子育てを放棄してしまう恐れもあります。
降りしきる雨に翼を濡らしながら、雛がかえるまでひたすら温めつづける親鳥たちを、せめて人が脅かさないように静かに見守ることができればと思いました。
(次もここから報告できるのか M田)
参考文献:環境省「コアジサシ繁殖地の保全・配慮指針」
4月初旬、里の桜が散り終わるころ、肝付町国見山系では、アケボノツツジが開花の時期を迎えます。薄いピンクのその花に魅了されている山好きな人々は数多いようで、町観光協会が「アケボノツツジ群落お花見ツアー」の募集を開始したところ、たちまち定員に達したとのお噂でした。ただ、このツツジの開花時期は気象条件により前後するため予想は難しく、このツアーがドンピシャだったかは不詳です。
4月下旬の休日、アケボノの咲き残りでもあればという下心で、家人と甫与志岳に登ってみました。ポピュラーな姫門登山口から。案内看板には山頂まで60分の表示があります。
ここからの登山道は、よく整備されており、迷うような心配はありません。ただ、尾根道に出るまでは結構急な登りが何箇所かあり、呑みすぎ+運動不足+久々の登山者にとっては息が上がることしきりでした。
アケボノツツジばかりが花ではないぞ、登りながらそこに咲く花々を撮影すると称してしばしば足を止め、息を整えながらの山行となりました。それで今回は出会った花たちを紹介することにします。
登山道の湿った林床に、透明感のある白色をしたギンリョウソウ(銀竜草)。暗い山道に透けるような白さでうつむいて立つ姿から、ユウレイタケとも呼ばれるそうですが、見つけるとなぜかうれしくなる花のひとつです。
フデリンドウ(筆竜胆)。少し日当たりのよい斜面に一輪だけ咲いていました。高さは5~6cm。とても小さな春に咲くリンドウです。落ち葉をどかして撮影。
ヤマルリソウ(山瑠璃草)。花の直径は1cmあまり。花色が薄桃色から瑠璃色に変化するそうです。道脇に何箇所か群生していました。
甫与志岳山頂から国見山方向へしばらく歩いたところに、咲き始めのミツバツツジ(三葉躑躅)を一株見つけました。ゴールデンウイークに見ごろを迎えるツツジです。アケボノツツジは見られなかったけれど、こちらも山に登らないと出会えない花です。
息も切れ切れでしたが、心地よい風の中、楽しいぶらりとなりました。
(次は海が呼んでいるか。M田)
啓蟄が過ぎました。まちを囲む山を見回すと、あちらこちらに白い山桜が咲き、深まる春を実感させてくれます。
さて、今年正月、Hさんにお供して、波見、唐仁地区を歩いて中世のあたりを旅し、歴女ならぬ歴爺の仲間に入ってしまいました。この地をはぐくんできた歴史やその成り立ちを、これまで何も知らなかったことを少し反省しながら、ぶらりを続けております。
前回までの中世から一気に、4~5世紀・古墳時代に遡ります。しかし、場所は前回と同じ東串良町唐仁地区。ここには国指定史跡「唐仁古墳群」として、大小130基あまりの古墳が集中しているのです。その中心に位置し、最大規模を誇るのが大塚神社として祭られている「第1号古墳」(大塚古墳)です。
鳥居のうしろにある森が、長径が185mほどもある県下最大、九州でも3番目に大きな前方後円墳なのです。後円部の高さは現在11mほど、建造時はそれ以上あったといわれています。
海抜5~7mの平地の上に、これほど大きな規模のお墓。このことは、その時代に一大土木事業を実施できる絶大な経済力と支配力を持った一族が存在したことの証でしょう。
などと思いを馳せながら鳥居をくぐり、まずは、古墳の周囲(堀だったのか)をぐるりと歩いてみました。
そこは、大きく枝を張り出した楠や椎の巨木がしっかりと根を張って、隙間なく杜(もり)を形作っています。そして、その林床はみごとに清掃されており、地域の方がたのこの神社(古墳)に対する畏敬の思いが伝わってきます。
参道に戻り、真北に進むと後円部に鎮座する社殿へ登る階段が見えてきます。
この階段がいい。緑の苔に覆われた石段は、長い歴史の中で擦り減り、その踏みしろはわずか15cmと驚くほど狭いのです。これは足元をしっかり見ながらゆっくりと参詣するための仕掛けなのかなと思わずにはいられません。
社殿からは真南に唐仁の目抜き通りを経て、国見連山を望むことができました。その時代海抜13m程度といえば、肝属平野に視界を遮るものは何もなく、この地全方位を見回せる場所であったことでしょう。もちろん、ここには特別な人しか登れなかったはずです。
ここに建つ正月飾りの注連縄は社殿を背にしていることに気づき、何か特別の理由があるのではないかなどと、歴史の妄想にふけってしまうのであります。
今回のお供でこの地域の歴史に触れることができ、旧友Hさんに感謝しつつ、機会があればもっと歴史の想像にふけってもいいなと思いつつ。
(次は山へ行こうか?M田)
2月5日は旧暦の元旦。こちら大隅では梅や緋寒桜が丁度満開となり、さわやかな香りを漂わせています。初春と呼ぶにふさわしい季節を迎えました。
先月Hさんに誘われて、肝付町波見を散策しながら、中世から藩政時代にかけて、この地に日本有数の財力を有する人々が実在していたことを知りました。そして、その人たちは、志布志湾に注ぐ肝属川河口を本拠地として、海を渡り、中国大陸や南方諸島との交易を活発におこなっていたのです。
Hさんが、「今の行政区域が歴史の舞台だったわけがなく、肝属川両岸に広かる地域、さらには志布志湾岸を一帯としてとらえるべき。まずは、対岸の東串良柏原、唐仁あたりに行ってみよう。」と言うので、有明大橋を渡って東串良町に入り、柏原を経て、少し上流に位置する唐仁にやってきました。道のりにして約4Km。
いつもはここは、田んぼの中に広がっているごく普通の集落として通過しています。この日はじめて、むらの真ん中を南北に伸びている道を、車から降りて歩いてみました。
人が設計して造ったに違いないまっすぐな道は、ブロック塀とコンクリート側溝にはさまれています。一見近頃作られた集落道路に見えますが、500mほどの間、十字路はなく左右からの丁字路になっており、突き当たりの壁には文字も判別できないほど風化した「石敢當」(せっかんとう)が丁字路の数だけひっそりと建っていて、この道がただ者ではないことを証しているようです。近年整備はされたものの、この小路の歴史はどれほどなのでしょうか。
Hさんによると「石敢當」は突き当たりの家に魔物が入らないようにするための魔よけの石碑で、中国福建省あたりから発祥し、沖縄、鹿児島に伝わってきたのだそうです。やはり、ここも海を越えて交易をしてきた人々が実在していたのでしょう。あるいは、唐仁と言う名の示すように中国大陸からやってきたり、連れてこられたりした人々が住んでいただろうという推測はできるのかもしれません。(Hさんはそのように確信しているようですが。)
東串良町郷土史を読んでみると、確かにこの地にも、中世から近世にかけて、波見にも劣らない財力をもった幾つかの家系があったことが記されており、今も末裔の方々が居住されているようです。
何気なく通り過ぎている村や小路に、現状では想像できないような人々の暮らしぶりや、豪快な経済活動があったことを、てくてく歩くことで垣間見ることができました。
川を背に北に歩いて大塚神社に向かい歴史の旅のお供は続きます。
(はまったか?M田)
新年明けましておめでとうございます。
平成最後のお正月は、南国の冬としても暖かく穏やかでした。
みなさまのところは如何だったでしょうか。
昨年の暮れ、高校時代からの友人で歴史に深い造詣を持つHさんから、1月はじめに高山、東串良のあたりを見に行きたいので案内してくれないかとの依頼がありました。今年、弊社の年始休暇には、ゆとりがあったので、一日丸まるお供することにしました。
「時代をさかのぼって、古代4~7世紀あたりと、中世14~17世紀のころを現地で想像したい。」というのが、Hさんの来訪目的のひとつ。志布志湾に面する「波見」と「下伊倉」、「唐仁」を、おじさん二人でじっくり歩いてみました。
まずは、波見へ。高山郷土誌(平成9年発行)には、波見港が、柏原港ととともに大隅半島における海上交通の要所であり、中世においては、日本人の海外雄飛への根拠地あり貿易港であったこと(室町時代は和寇として)。江戸時代は密貿易港として琉球を通じて中国や南方からの物資を交易し島津藩の財政を潤し、外来文化の玄関口ともなったこと。豪商重(しげ)家は室町時代からこの地で交易を行い、幕末においては全国長者番付で西の関脇であったこと。などが記されています。
波見浦の屋敷跡は、道沿いに堅牢な長い石積みが続いており、数百年の歴史と、その豊かさが実感として伝わってきます。海外から訪れた人々や、商人、船人、船を建造・修理する人々などのほか、番所に勤める役人たちも、この石垣の道を往来したことを想像すると、当時の賑わいにわくわくしてきます。
いくつか残る倉の窓上のひとつには恵比寿さんが満面の笑顔を浮かべています。この浦町に並々ならぬ冨が集められたことを象徴しているようです。はるか中国や南方からの物資はこの倉に入り、国内のあちこちに財として伝わっていったことでしょう。
さらに、海沿いの通りに歩くと権現山を背に、海に向かって「戸柱神社」が鎮座されています。この神社の石造りの鳥居には、「天保5年8月吉日」(1834年)の文字が刻まれ、交易に携わっていた商人たちの財力がどれほどだったかを示しているようです。
ここの境内から権現山へ登る歩道が整備されているようです。志布志湾を見守ると同時に、山上では航行の監視も行われていたことでしょう。この後、車で権現山に登り、志布志湾岸、下伊倉、唐仁との位置関係を俯瞰して、東串良町へと向かいました。
(続くのか M田)
師走に入りました。上旬は、散歩をすると汗ばむほどの記録的な暖かさでしたが、大雪を過ぎた今日この頃、やっといつもの冬にもどったようです。冬といえばコタツ、コタツといえば宿題しながら聞いていた深夜放送。
我が家には、M田が中学1年の冬に、お年玉と親にねだって買ってもらったラジオが現役で音を出しています。その名も高き「ナショナル2000GXワールドボーイ」。これで「つるこう」とか「ちんぺい」とか「なかじま」とか寝ずに聞いたものでした。もう50年近く、苦楽をともにしていますが、文句ひとついわず付いてきてくれました。まことに見上げたものです。
このラジオから初めてFMバンドを聞いたときは、その音質にびっくりしたのを覚えています。今も少し錆びたアンテナで電波をしっかり拾って放送を聞かせてくれています。
家人がもっぱら選局しているのは「FMきもつき」。町内に基地をもつコミュニティFM局で、弊社の本社工場のすぐ近くの高台に建つ「勤労青少年ホーム」の一室にスタジオを構えています。
朱の鳥居をくぐり、神社の参道を登るというちょいと奇妙な感じの場に建てられている「勤労青少年ホーム」ですが、ここで肝付町の青年たちがいろいろなドラマを繰り広げてきたと噂されています。
このスタジオでは週に3本ほどの収録が行われているそうで、今日は「じじ放談」という、文字通り60歳を超えるおじさんたちが、テーマも決めずに好きなことを話題になるようになるという構成で番組収録の最中でした。とても楽しそうに会話がはずんでいます。
このスタジオは、災害時の停電の中でも3日間放送を継続できるよう非常用バッテリーが備え付けてあるそうです。高台の建物を選んだのもそのような目的があったのでしょう。
ここから肝付町全体に放送を届けるために、国見山、荒西山など3中継局が設置されています。肝付町は国見連山という700mを超える山壁で高山と内之浦が隔てられているので、電波を飛ばすのにもご苦労があるようです。
実はこの放送局は、鹿屋市と志布志市、そして肝付町の2市1町のコミュニティFM局がネットワークを組んで、共同の情報を送れるシステムを構築しているのですが、これは全国でも類を見ない仕組みだということで、総務省もびっくりだったそうです。
もしもの時は補完しあって、さまざまな情報を発信していけるのは、住民にとって、災害への備えとして大いに貢献するものと思われます。
開局10年を超え、小さなアンテナは、今後さらに身近で心強い情報を町民に提供してくれるはずです。
(次は新年 何を見ようかM田)
暦のうえでは立冬を迎えましたが、南国大隅は、最高気温は20℃を上回り、最低気温は10℃あたり。日中は汗ばむ陽気が続いており、服装は長袖シャツに薄手のベストという取り合わせで心地よく過ごしています。
この季節、当地に広がる照葉樹林帯では、樹々を見上げれば、むかご、あけび、こくわ、どんぐりなどがたわわに実をつけ、林床にはきのこの仲間が顔を覗かせているはずです。夏場はすっかり眠っていたはずの狩猟採集民の血が沸々と騒ぎはじめ、山へ山へと視線が向いてしまうのであります。
日曜日の朝、ドリカムの「晴れたらいいね」(26年前のNHK朝ドラ『ひらり』テーマ曲)を口ずさみながら、庭の手入れをしていると、若い友人から「今年は、“ばかまつたけ”が豊作だそうな!」という夢のような情報が飛び込んできました。まつたけの前に「ばか」とは実にひどいネーミングですが、赤松林ではなく広葉樹林にはえるきのこで、香りは弱いながらも姿はれっきとしたまつたけの仲間なのです。20年ほど前この辺りの山中で何本か見つけて、大喜びしたことを思い出しました。
早速、こりゃ山へ行こうと言うことになり、自宅から20分、国見トンネル上部の林道へとドライブ。この辺りは沢沿いに急峻な谷が照葉樹で覆われており、採集の楽しみにあふれています。
路側スペースに車を置き、藪を分け、沢を渡るとすぐに「万滝」の看板が見つかりました。
地元で「万滝」と呼ばれ親しまれている滝へ通じる沢沿いの小径で探索しようという魂胆。
台風の風雨で岩崩れがおきて、上に根を張っていた大きな樹木が横倒しになっています。
倒木にびっしりと生えている白いきのこ。ぬめりたけもどきです。弱々しい姿ですが、火を通すと実に良い食感になり、すき焼きに入れるととても美味しくいただけます。
樫の木の根元にも。
ほうき茸の仲間を発見。菌のひだ先がネズミの足のように見えることから「ねずみ茸」とも呼ばれています。鹿児島では「ねったけ」、煮付けや煮染めにして食べられています。ふっくらとしたおなかのところが美味しいきのこです。
枯れ落ちた枝には、野生の椎茸が良い感じで広がっています。よく似ている有毒の「つきよたけ」を誤食し、中毒する事故が絶えません。注意しましょう。
きのこを探して、下ばかり見ていると、沢の音が大きく聞こえてきました。入り口から上流に300mほども歩いたでしょうか。小径がなくなり沢を登ると、目のまえに大きな岩肌を滑り落ちる万滝が見えてきます。
落差は30mと言われていますが、近づくともっと高いように感じます。花崗岩の一枚岩を三段に流れ落ちる滝は壮観。秋の空に白い流れが良く映えていました。地味だけどしみじみとした風格を感じる滝です。冬には凍ることもあるという万滝。それも一度見に来たいと思いました。
きのこも採れたし、滝を見ながらコーヒーを一杯。ごちそうさま。
(次はばかまつたけの山かな?M田)
秋のお彼岸がすぎると、南国肝付も秋らしさが増してきます。
田んぼの稲の収穫は終わり、シラス台地の上に広がる広大な畑地では、焼酎やデンプンの原料となるサツマイモの収穫が本格的に始まりました。今年は24号、25号と9月末から10月はじめに掛けて立て続けに襲来し、ほかの農作物への被害も出ているようですが、サツマイモはさほどの影響は無かったように聞いています。
台風が過ぎると、九州は大陸からの高気圧におおわれ、澄みきった青空が広がります。この時季になると、夏鳥は日本で生まれた幼鳥を伴って南方へと渡っていくのです。なかでもサシバという鷹の仲間は、おもに大隅半島を通って、佐多岬から南西諸島伝いに、インドネシアやフィリピンへと南下することが知られています。
日が昇り始めるころから発生する上昇気流をとらえて、数十、数百ものサシバが帆翔することで上空へ舞い上がっていきます。その様子は縦長であったり、ボールのようであったりするので鷹柱と呼ばれています。高度を得たものから順に滑空をしながら渡っていくのです。
自宅上空では10月2日、3日の2日間で約1000羽を見ることができました。また、県立大隅広域公園の観察会では10月7日2160羽、8日2350羽をカウントしたそうです。
年々その数が減少していると言われているサシバですが、繁殖地の保全や越冬地での密漁禁止などの活動が広がっており、絶滅危惧種への保護意識は高まっているようです。
サシバの渡りを追いながら、いつまでもこの町の上空で舞ってほしいものだと祈らずにはいられません。
(次は海かな M田)
9月の声を聞いたとたん、風が涼しくなりました。柿も色づきを増し、葛のやぶ奧には紫の花穂も見えております。蝉の声もいつのまにか「カナカナ」に替わっているようです。
月初め、論地工場へ行こうと下住工場を出て、高良(たから)橋を渡り、ふと右手の旧鉄道跡の土手に目をやると、ふだんは全く人気のない桜並木のみちに多くの人影が見えました。馬もいます。
肝付町の秋の大祭「流鏑馬」の練習が、今年も始まったようです。早速右折して、堤防へ。
この地の流鏑馬は、高山「四十九所神社」に毎年10月半ばに奉納される神事で、900年の歴史を持つと言われています。今は射手(騎乗する少年)を、8月に肝付町在住の中学2年生から希望を募り、9月から馬に触れるところから訓練する慣わしになっています。十四歳の少年が、わずか一月半で、手綱を放し疾走する馬上から、弓を引き矢を放つまでに技を磨いていくわけです。
鉄道跡に行ってみると、少年はもう片手だけで手綱を引いて、馬を早駆けさせていました。
大勢の人影は「綱持ち」と呼ばれる加勢人で、今日は高山中学二年生の有志が50人ほど。本番同様、馬の走る方向の右手1.5mくらいに、3町(約330m)にわたってまっすぐに張られた綱をもって立ち、訓練を見守っているところでした。馬にも人に慣れさせる訓練を兼ねているのでしょう。目の前を疾走する馬、綱持ちも結構勇気の要る役割です、みんな良い感じで緊張気味。
指導をし、神事の準備を進めるのは「高山流鏑馬保存会」の方々。この時期からは仕事そっちのけの日々が始まります。疾駆する馬の正面に立って、走りをおさめるのも慣れたものです。が、どちらも大変ですよね。
今年、平成最後の(2018年)の射手は、大園悠馬君。高山中学校の二年生です。バスケット部に所属しているそうで、乗馬の勘は鋭いと保存会のおじさんたちが言っておりますが、まったくそのとおりでしょう。
そして、そのお父さん、健一さんは、昭和最後63年(1988年)の射手なのだそう。しかも流鏑馬の長い歴史の中で、親子での射手は初めてとのことです。何か運命的なものがあるような気もします。
練習は毎夕方、1日四回騎乗。これから本番に向け短い期間の中で、一段ずつレベルを上げる厳しい練習が続きます。
夕焼け空の下お父さんは、毎回息子の無事を祈りつつ、うつむき加減に歩きながら真砂を撒き、馬場を浄めるのです。これを見るだけでもジンとくるものが。そして、お母さんは、あの明子姉さん(※1)のように息子の姿を遠くで見ています。さらにジンとくる。
実は、綱持ちは、練習している馬場に行けば誰でも参加できるのです。近くで見ると、すごい迫力が堪能できるうえに、射手や、お父さんがひとり一人にお礼を言ってくれます。これも感動ものです。近くにおいでの方は参加必見、その価値は十分にあります。
秋がいよいよ深まるこの時期、つるべ落としの夕刻、「やっさん」(流鏑馬祭り)までその準備を見続けるのも、肝付の季節を楽しむひとつの方法かもしれません。
(次は秋空を見るか M田)
※1 梶原一騎原作 川崎のぼる作画「巨人の星」より 明子は主人公星飛雄馬の姉
※2 後射手とは前年の射手で、射手の乗った馬を全力で追走する。射手に事故ある場合は則交代できる技量を持つ。
取材協力 高山流鏑馬保存会
残暑お見舞い申し上げます。
台風12号が去った後、当地でも身体に危険な暑さが続いています。工場内のスポットクーラーや大型扇風機も効果をあらわせないほど気温があがり、熱中症の予防注意が欠かせません。
この時期、大隅半島中南部において、ビールのあてにはもっぱら、塩ゆで落花生が出されます。
この地方の労働者の塩分補給はこれで行われていると言っても過言ではないぐらいの量と頻度で提供されるのです。湯気の上がってる小さなこいつと、冷たくてグッと来るあいつは、まさに永遠の、最強バッテリー。キモツキンリーグ・バンシャクズのサトナカくんとヤマダくんなのであります。
ある日風呂あがりに、こいつらをやっていると、音楽好きの友人から電話がありました。彼もすでに泡をやっているようで「ヨカトコイガ デケタドゥ。ウトデ キッケコンケ。ショチュモ アイヨ。」とのこと。直訳すると「以前建築関連会社だったあの事務所が改装され、ライブハウス風のスペースになった。今度バンドで演奏するから来ないか。音楽を聴きながら酒も飲めるぞ!」となります。
指定された日曜の夕方、うちの本社工場からほど近いところにあるそのスタジオへ。
かなり派手めなおねぇちゃんが横たわる看板には、
「きもつき 街の音楽室 Music Bar & Live House」とあります。つまり、学校の音楽室のように好きな人々が練習できるスペースで、たまにはそんな仲間たちの音楽を聴きながら飲んだり歌ったりするところということでしょうか。なんだかわくわくしながら中に入りました。
すでに、会場は盛り上がっていました。アコースティックな楽曲が演奏される中、50席ほどある客席では、ちょっとお酒がきいているのか意気投合の様子のおじさんたちや、ファンとおぼしき曲に聞き入るお姉さんたちが、普段は見せることない実にいい顔をしています。やはりライブですなぁ。M田も300円で買ったビールを片手に残り少ない客席を探して滑り込むことに。
次は演歌も交えて演奏するグループが登場。その演奏は、観客も思わず話をやめて聞き入るほど。
この時、N崎くんから肩を叩かれびっくり。彼はこのバンドのメンバーをよく知っていて、ビールを飲みながら裏話をいろいろ聞かせてくれました。このバンドのベースをやっているのが、私の年上の友人で、あの「吾亦紅」をしみじみと歌ってくれたのです。古希を迎える彼のしゃがれた声からは、深く温かい思いが伝わってきました。
最後にオーナーの有馬さんとお話しをすることができました。
実は有馬さん自身もプレーヤーでスタジオを作りたいと思っていたそうで、この春に今までの仕事がひと区切りつき、事務所を改装することに。6月にこのスペースができあがり、音楽仲間に声をかけ、7月から本格的にそれぞれのバンドがライブをするようになったとのことです。
本当に、ヨカトコイガデケタど。ありがとうございます。次のライブも楽しみ。
(次は秋の海かな M田)
今日は七夕です。
昨日来の猛烈な大雨で西日本を中心に洪水や崖崩れなどが発生しています。
被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
この時季、肝付では、七夕かざりが商店街を彩っています。商工会の呼びかけで、保育園や幼稚園、小学校が各クラス毎に、また、社会福祉施設や自主的なグループがそれぞれ飾り付けをした笹竿をお店の前の外灯に立てているのです。町並みに手作りの紙鎖や切り紙、短冊などが揺れるのは、派手さはありませんが、しみじみと季節感が伝わってきます。
ところが、新暦の七夕は梅雨のさなか。それぞれが心を尽くした飾り紙は、雨に打たれて落ちてしまうことが多いのです。今年も飾って二、三日はさらさらと揺れていたのですが、このところの雨ですっかり寂しくなってしまいました。なかば今回の取材は諦めていたところ、その筋に詳しいM理さんから、温泉ドームにきれいな七夕かざりが残っているとの情報。
行ってみると、左右対で飾られていました。そうそう、このさらりとした風情がよろしい。むかしむかしの夏の初めがよみがえるというものです。短冊にいろいろな願い事を書きました。「なわとびが上手になりますように」とか「宇宙に行きたい」とか。誰かが書いた短冊の願いごとをちらりと読んでみたいのも人情です。
なるほど直球。M田も同感です。なかには、「世界平和」とか「給与UP」とか。
そういえば、パソコンやスマホを使ってばかりで、紙に思いを書くことから遠ざかっているような気がします。旧暦の七夕にはまだ十分日にちがあるので、短冊におじさんなりの願い事を書いてみたくなりました。書けば叶うような、ほどほどの。
さて、雨が苦手な七夕かざり。雨の似合う花と言えば紫陽花ですが、こちらではもう時期をすぎてしまいました。これからの季節、花にも葉にも雨粒が遊ぶような蓮も楽しみです。鹿屋市の串良支所敷地には、昔の濠が保存されており、そこを利用して蓮が植えられています。
「この蓮は弥生時代そのままの種だそうで、1951年に千葉で発掘された3粒の蓮の実から発芽させたものを株分けで殖やし育てたと説明書きに記されています。開花させた植物学者、大賀一郎博士の姓をとって「大賀蓮」と呼ばれているそうです。なんと天然記念物。
小雨の日にゆっくり見に行きましょう。
(次はやっぱり海へ行きたいな M田)
肝付町の東岸は、太平洋の荒波に洗われて、山裾が削られ白い崖や巨石となって海辺まで迫り、荒々しい海岸線を形づくっています。特に岸良から佐多に掛けては、石鯛釣りのメッカとなっているようで、あの「釣りバカ日誌」にも登場しました。山佐木材の釣り部の面々もかなりの頻度で通っているようですが釣果についてはちらほらとしか聞き及びません。
そんな海岸ですが、「岸良(きしら)」と「辺塚(へつか)」、ふたつの湾の奧にだけ砂浜が横たわり、訪れるものを柔らかく迎えてくれるのです。どちらも花崗岩質の山から川によって運ばれた、石英を多く含んだ白っぽい砂におおわれています。今回は最南の辺塚海岸に行ってきました。
ここは国道448号を船間から県道74号に乗り換えた先に位置しているため、訪れる人はほとんどいないようです。日曜日のお昼過ぎに着いた砂浜には、親子連れらしい足跡が残っているだけでした。私まで入れてこの日3人目ということでしょうか。波打ちぎわを歩くと、踏みしめる音が聞こえてきそうなくらいきれいな砂です。
梅雨空の下、穏やかな波音に包まれながらあっちの端まで行ってみることにしました。歩いて往復しても20分とはかからない距離です。砂浜の一番北の端におもしろい模様を見つけました。
海亀が上陸した足跡です。この亀は上がってはみたものの、何かが気に入らず手前でUターンして海に戻ってしまったようです。
この美しい辺塚海岸に、これから夏に向けて何頭もの海亀が這い上がり、卵を産み、厳しい自然の中で生命を繋いでいくことを祈りたいと思います。
もうひとつ。
この地域の家々に限って、庭先に植えられていた「ヘッカデデ(辺塚だいだい)」と呼ばれる柑橘類があります。
「だいだい」の名は付いていますが、沖縄のシークヮサーや大分のかぼすの仲間だそうで、8月頃の青い実は酸っぱくて、さっぱりとした良い香りがします。
半割にして焼酎にいれると美味しいんです。今はジュースやドレッシングにも加工されて市販されています。青いうち収穫せずにそのまま冬を越す頃には実は黄色く熟して、果汁に甘みが乗ってきます。
もちろんこのまま飲んでも美味しいのですが、刻んだ皮をジュースで煮込み、マーマレードにすると絶品。香りとほどほどの苦みがパンやヨーグルトに良く合います。
大隅半島でもさらに奥まった手つかずの地域。この辺りは、陸路は急峻な細道しかなく、また海路は外洋の荒波が厳しく、昔は人の行き来が容易ではなかったようです。今は時間さえ作れば、その手つかずの魅力を存分に楽しむことができる。
ぜひ足を伸ばしてみられてはいかがでしょうか。
(次も海にいきたい M田)
皆様、4月の終わりからの大型連休、大いに楽しまれたことでしょう。5月5日、6日辺りはまだうっすらと記憶に残っているかも知れませんが、心に残るイベントを組まずに過ごされた方にとっては、4月29日に何をしたかもう思い出すこともできない、忘却の彼方になっちゃったのではないでしょうか。「年かなぁ」などとため息をつきたくもなります。
そんなあなたにお勧めなのが、毎年かかさず同じ日同じ行事に行くこと。これは効く。私の経験では、ほぼ100%忘れることはありません。ぜひ、お試し下さい。
というわけで、今年も4月29日、志布志お釈迦祭りに行ってきました。この前は遅刻して、メインイベントを見逃したので、早起きして参じました。
9時過ぎから稚児行列が始まります。ここのお稚児さんは、自分で歩くのではなく、紅白に飾り付けられた籠に乗せられて進みます。担ぎ手は、たいていお父さんやお祖父さんでお母さんたちは籠の横について歩くのがしきたりのようです。この籠には年齢制限ではなく体重制限が設けられているという噂です。ともあれ、眉と鼻に白粉をつけてもらったお稚児さんがちょこんと座った姿は可愛いこと。1.2kmほど歩くそうですが、担ぎ手は孫子のためならということでしょう。大変そうです。
子供たちが通り過ぎると、その後ろからは、朝早く、お寺で仏前結婚式を挙げた新婚さんがお嫁さんをシャンシャン馬に乗せてやってきます。毎年5組ほどのようです。
黒紋付きに錦の帯、角隠しで装いを整えた花嫁さんの姿は、白無垢とは違う落ち着いた雰囲気を醸し出しています。馬の口を引くのは紋付き袴の新郎たち。なんとも晴れやかな行列です。どうかお幸せにと、祈るばかりであります。
こちらのカップルたちは、メイン会場の宝満寺まで歩いたあと、甘茶をお掛けして、合同披露宴的イベントに臨むそうです。こちらも早朝からお昼まで長時間大変なことでしょうが、一生の思い出には苦労はつきものです。
そもそもを忘れておりました。お釈迦祭りは灌仏会、別名「お花祭り」。屋根を花で飾った花御堂の中に、片手を天に向けて立っておられる生まれたてのお釈迦様の像に小さな竹の杓子で甘茶を注ぎ掛け無病息災を祈願する行事です。年齢の数だけ注ぐのが慣わしになっているようで、高齢者が続くと花御堂の周りは大勢の人垣でいっぱいになります。
傍らには、甘茶が用意されていて、参拝した善男善女たちは、暖かくほろ甘い一杯をいただくことになっております。
ところで、沿道には、焼きトウモロコシ、焼きイカ、りんご飴、たこ焼きなどなどお祭りにつきものの出店が並んでいます。どれも捨てがたい味がありますが、ここは志布志の商店街。いつもの店先に自慢の商品も並んでいます。お寿司屋さんは、押し寿司やちらし寿司を、お魚屋さんは鯵や締め鯖をパックにしてワンコインで売っています。こちらも美味しくいただきました。
(次は夏。海かな M田)
今年の春は、九州大隅半島を駆け足で過ぎていったようです。
3月25日には桜が満開となり、花見をする暇もなく、その後の暖かさの中で立待ち葉桜になってしまいました。早く芽を出せと掘るのを楽しみにしていた筍も、ちょっと油断した間にすくすくと成長して大人の背丈ほどになってしまったものもあります。タラノメなどは、芽ではなくなった掌ほどの若葉をかろうじて天麩羅にすることができました。
そんな悔しい春を過ごす中、年上の友人から曙つつじ鑑賞登山のお誘いが、ショートメールで舞いこみました。
鹿児島県内では、曙つつじを見ることのできる山はどうも限られているようで、肝付町国見山系が数少ないうちの一つにあげられています。登山道周辺に自生地が見られるのは甫与志岳と黒尊岳の中間あたりだそうですが、M田はまだ実物を見たことはないのであります。
とある日曜日早朝、友人、家人と三人で一路、姫門(ひめかど)林道へ。車で横付けできる甫与志岳への登山口はここだけなのです。駐車場にはすでに先客が何台も、宮崎・大分ナンバーも停まっていました。
登山口からちょうど1時間ほど登ると、甫与志岳山頂下の尾根道にでます。ここからルートを北に、黒尊岳方向にとり、なだらかな尾根の起伏をゆったりと。
椿の赤い花が落ちる道を歩くこと40分ほどでつつじの最初の群落が見えてきました。白に近いピンクの花が枝一面に着いています。
少し盛りを過ぎている枝もあれば、まだ蕾の花もありますが、この花色は春の空によく似合います。さらに黒尊岳の斜面に目をやると、新緑のなかでいくつもの群落が咲いているのが見て取れました。この山の曙つつじの樹が太く大きく、その枝々にたくさんの花を咲かせているからでしょう。
つつじの鑑賞を堪能し、甫与志岳頂上(968m)へ向かいました。
馬酔木の花が満開の頂上は、春の日差しで暖かく、ここで昼食を取っているお仲間もいました。青空の下最高のランチだったことでしょう。
山頂からは、もと来た道を「こんなに急だったかなぁ。」などと余裕を見せつつ50分くだり、大満足で曙つつじ鑑賞登山を終えたのでした。
(次こそ海か? M田)
1月の中頃、この九州の南端でも山には雪が積むほどの寒さでした。春と呼ぶにはまだまだ早い。肌で感じる季節としては初春というよりまだ冬です。
それが2月に入り立春を迎えると木々の枝先はやや赤みを帯びてきて、枯れ草の間から緑の芽が見え始めます。それから10日ほどたった2月16日(金曜日)が、今年の旧暦の正月元旦でした。「新春のお慶びを申し上げます。」という挨拶が、老若男女どなたにもしっくりと受け入れてもらえる肌持ちです。新月の闇の濃い夜が過ぎるころ、白々と明るくなっていく山ぎわから昇る朝日には、晴れ晴れとした快さと暖かさが実感できます。
その週の日曜日。陽気に誘われ春とこの時期のおいしいものを探して散策に出かけることに。拙宅の生け垣周りの草も少し伸びてきました。椿の木の下にはみつばが柔らかな若葉をひろげています。スーパーでは水耕栽培のヒョロッとしたものが一年を通して並べられていますが、あれとは香りも歯ごたえもまるで別物。こいつをたっぷり採って、白和えにしていただくことに。当地では白和えは白味噌仕立てです。今時分、焼酎のつまみとしてこれに勝るものは無いでしょう。
昨年12月に友人二人の手を借りてして間伐を行い、日当たりのよくなった竹山へ行ってみました。孟宗竹の筍はまだ地面から顔を出してはいません。でも靴の底で注意深く探りながら歩いていると、いやはや本当に春なのですなぁ、とんがり頭を発見。まだ、中指ほどの長さですが。
1本の根から5本仲良く並んでおりました。こちらは、「掘った・焼いた・食った」の瞬速三段焼き筍にして食べることにします。みなさまお先にはふはふっ。
そういえば去年もこの時期同じような春さがしをしました。二股トンネルの北にある、ねこやなぎの群落。昨年は1月21日(旧暦12月24日)に訪れて、まだ花穂は出始めというところでした。今年は2月18日(旧暦1月3日)。新暦では去年より1ヶ月ほど遅いことになります。1ヶ月違えば花穂は盛りを過ぎてしまうころでしょう。しかし、旧暦ではわずか10日の遅れです。どんなようすなのか気になって、岸良高山線を南にドライブすること20分。人気のない山に入って5分。
群落は一面銀色にふわふわと輝いておりました。堅く赤いさやはなく、ねこやなぎの花、一番の見頃です。いささか乱暴なとらえ方ではありますが、ねこやなぎの花穂に限ってみると、旧暦に近い巡りで旬を迎えているようです。
かく言うM田にしてみても、ねこやなぎ同様旧暦に添って季節を感じる方がしっくり来る。体が無理をしないような気がします。
今日は啓蟄。貫禄のある足高蜘蛛(アシダカグモ)初見、家人は大騒ぎ。いよいよ春たけなわです。
(次は海か?M田)
※参考文献 小林弦彦著『旧暦は暮らしの羅針盤』NHK出版
「初春を探そうか。」などという風流な気持ちも、しょんぼりとしぼんでしまいそうなこのところの寒さです。身をちぢめているせいでしょうか、なんと左の肩胛骨当たりが痛い・・・神経痛になっちゃたようです。しかし、こんなことで挫けてはいられない、今回は全国にも希なイベントが発生するというので気張って出かけることにしました。
わが肝付町には、宇宙航空研究開発機構JAXAのロケット発射場があります。ここから1月18日(木)午前6時6分11秒にイプシロンロケット3号機が打ち上げられるのです。流石に科学の力、宇宙の事情によって、11秒が肝なのでしょう。が、M田にとっては「これなら発射を見てから会社に行けるじゃありませんか。片道1時間の距離まで余裕で往復可能!」の時刻と解釈してしまうのであります。負けじとこちらも秒読みで行動。
当日4時50分22秒に起床、身支度を整えて、5時3分57秒、岸良方向へ向けて発車。普段は通る車もいない経路ですが、さすがに前を走っている車のテールランプが三つ、二つ見え隠れしています。
岸良繁華街中心部には、消防車&救急車も待機、交差点から内之浦方面へは交通規制がかけられ一般車は通行できません。そこで、国道448号を錦江町方向へ右折し、船間方面へ。1㎞ほど行くと岸良海岸の駐車場がやたら明るい。幾台もの投光機が周りを照らし、車両案内係も配置されロケット発射見学場に様変わりしています。
5時52分16秒、ボランティア案内係りのY田君の誘導で車止め完了。すでに駐車場は50台以上で満車となっています。係りの人たちは前の日の午後9時から配置についているとのこと。ご苦労様です。Y田君コーヒーありがとね。おいしかったです。
まだ星が瞬く夜明け前の浜の堤防は、打ち上げを待つ見学者たちが発射場に向かって横一列に並んでいるようです。寒いなかでも、なんだかわくわく感が伝わってきました。
ちょうど60秒前から、町内防災放送の大スピーカーから射場のカウントダウンが中継され、気持ちが高揚してきます。「スリー、ツー、ワン、ゼロ、リフトアップ・・・」閃光が見学者たちの顔をはっきり見えるくらいに輝き、皆さんの歓声の後に爆音が響いてきました。
ロケットの軌跡は、轟音を残しながら南の空高く弧を描いて揚がっていきました。初めて発射場の近場で見学しましたが、その迫力と美しさに恥ずかしながら感動を覚えました。これからロケットはできればこの時間に打ち上げてほしいものです。
岸良見学場を早速後にして、出社の途につきました。峠のトンネルを抜け、明け始めた道を30kmのドライブ。開けた畑の中の一本道で、ふと見上げると、オレンジに柔らかく輝く光のひだが空に舞っています。まさかオーロラ?ではないでしょうが、人生で一度も見たことのないそれはそれはきれいな光景でした。
夜光雲と呼ばれる現象だそうです。やはり早起きはするものです。いやはや大満足の朝でした。この日は春のような暖かさ、夕方自宅の庭の梅がいくつか花を開いていました。
(美しい写真はN野君にまかせて、次は春のおいしい物でも探そうか M田)
皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、新年に入り、当地はお天気に恵まれ、暖かく穏やかなお正月三が日でした。雨や雪でも降れば家の中でお屠蘇と称して、ちびりちびりごろごろ~ちびりちびりぐぅぐぅといきたいところですが・・・。
陽気に誘われた家人たちにはその楽しみは理解してもらえるわけもなく、初詣に引っ張り出されました。たまたま、私が節目の年を迎えたことも神社詣の理由でもあったのです。
まずは、四十九所神社へ。永観2年(986年)の創建と言われているので千年以上の歴史をもつ高山一位の郷社です。
さすがに、出店なども並んで賑やかで、参拝客も多く、年始めの挨拶が忙しいほどでした。社殿前には御神酒(樽酒)も用意されており、一すくいご馳走になりました。家人たちはお札とおみくじ、おまけにアメリカンドッグを購入しておりました。
さて、高山に来られればお気づきになる人はお気づきになるのでしょうが、この地には神社がやたら多いのです。四十九所神社から南へ1丁ごしに、御社神社、八幡神社と並んでおり、北と西には南方、竹田の2社が、東には護国神社、稲荷神社が鎮座されております。郷土誌によると中世に創建された主なものだけでも27社を数えます。
それで、他地区の神社(四十九所神社は新富地区)にも詣でてみようと言うことになり、前田地区代表 南方神社、後田地区代表天岩戸別神社(通称トガンサァ)に参拝しました。
南方神社は14世紀半ばの創建と伝えられ、立派な社殿が再建されています。元々は武神ですが今は縁結び家内繁栄の神様だそう。これはしっかりと祈願させてもらいました。
ここでご注目いただきたいのが、左右柱下の門飾りです。この地方の慣わしで、シラスの盛り土、その上に末広がりに置かれた堅木の割木(薪)3本と笹竹だけ、松とか梅はありませんが、すっきりとして気持ちがいいです。
後田地区白坂の天岩戸別神社(通称戸神様トガンサァ)はこの地区の守り神さま。天の岩戸開けの神々を祭ってあります。右手に大きな椎の木があり、家内は子供のころ、ここでドングリやコジイの実を拾うのが楽しみだったそうです。しみじみと静かな田舎のお社に、家に祭っていたお札を納めさせてもらいました。
3つのお社に詣で、去年の穢れを清めて、晴れ晴れとした気持ちになりました。
皆様にとって本年が素晴らしい年となりますように。
(次は春を探そう M田)
【おまけ】
後田の民家の門飾り(木戸かざい)
割れ木は飾らずへつらわず、堅く無ければならない。
竹は親勝りの竹の子。節がある。
ユズリハは代々譲り受け次ぐ。
シラスは土までも白く新たに。とか
今は残念ながら、この木戸かざいを飾った門口をほとんど見ることは無くなってしまいました。
参考文献 『高山郷土誌』1997年版
師走、年の瀬がいよいよ迫ってきました。
正月を指折り数えて待っていたころがありました。しかし、このところは、正月の準備がなかなかはかどらず、大晦日までの残りの日数がどうも足りないような気がして指を折っています。
生け垣の剪定から始まって、風呂、玄関の掃除までは序の口、破れた網戸、障子の張り替えはどうしても済ませておきたいところ、流しの排水管もすっきりと通るようなどと家人のリクエストが年を追う毎に質量共に充実してきたおかげでしょうか。
それに追い打ちを掛けるのが、暮れや正月にいただく魚などの買い出し、これは楽しみも半分ほどはあるわけで、M田の優先順位はおおかた掃除なんかよりこっちなのです。
当地では正月用に、秋から地元産で捕れるミズイカ(アオリイカ)を冷凍しておく家庭も多いようで、味も良くなるとの説も聞いています。まちの魚屋さんにもおいてあるのですが、今回ひそかに漁協の直販を狙ってみました。
向かったのは地元肝付町漁協。ここでは、毎月第三土曜日の午前中「朝どれ市」が開かれ、定置網で捕れた大小のお魚から、養殖もののブリやハマチなどを割安で一般の人に販売しています。
この日はあいにくの雨日よりでしたが、午前10時開店にもかかわらず、9時すぎにはもう30人ほどが並んでいました。傘を広げて大きなクーラーボックスを椅子代わりに腰掛けている人もいます。
ミズイカ、ハマチ、カツオなどちょいと形の良いお魚はあらかじめポリ袋に入れられてテントの中できちんと並んで寝ています。片や、哀れ買い出し人たちは冷たい雨の中、カラーコーンで囲まれた枠に順に並んで立たされ、まんじりともせず開催を待っているのです。
午前10時ちょうどに鐘が鳴り、カラーコーン枠の口が開かれ先着順に20人一組ずつでテントに通され、ひとりいくらでも買ってもらって良いですシステム。二組、三組目まではなんとかお目当てのものを買えたようですが。
開催時刻通りに会場に来た人たちは、思いの魚は売り切れて、南蛮漬け用小アジはポリ袋に詰め放題、塩焼きにちょうど良いカマスが買い放題だったようです。おそらく次は早めに来ようと強く思ったことでしょう。
もちろんM田も取材に集中していたため後者となってしまい、南蛮漬けと塩焼きをもうたくさんというほどいただくことになりました。
12月には内之浦漁港でも直販市が立つようです。こんどこそ、そちらで大きなミズイカを手に入れて年を越したいと決意を新たにしております。
(次はのんびり陸のことにしよう M田)
今日は立冬。
こちら肝付町でも朝晩はジャンパーなしでは寒いぐらいで、鍋料理も恋しい季節になってきました。すき焼き、水炊き、もつ鍋、寄せ鍋。何でも入れて美味しくいただけますが、私は地鶏を使った「鶏すき」が何より好物、割り下の良くしみた筍などが顔を覗かせてくれれば言うことはありません。
我が社のTI顧問も筍好きとのことで、10月末の宴席では、タケノコ談義で盛り上がりました。その折、鹿児島では、ちょうど今の時期秋から初冬に掛けて芽を出す筍があるので、取れたらお持ちしましょうという約束もしてしまいました。
その日から10日たった今朝、はたとその約束を思い出し、慌てて友人の竹藪に行ってみました。果たして藪の際に数本の筍を見つけることができました。
でも、ちょっと伸びすぎです。10月半ば当たりが旬だったのかも。でも先っぽは柔らかで食べられそうです。友人には事後承諾を得ることにして、5本だけ収穫させてもらいました。
この竹の名は、地元で「シカクダケ」と呼ばれるシホウチク。茎の断面が普通の竹に比べると、角が立っていて四角いのが特徴です。
野生種ではなく、住宅の屋敷に植えられていた観賞用の竹が、屋敷跡に繁茂して竹藪になった感があります。
地元では、皮付きのまま下ゆでし、あくを抜いてから料理に使います。茹でると紫色の色素がでるので、手早く皮を剥くのがいいとか、一晩漬けっぱなしがいいとか諸説あるようです。
ともあれ、淡泊な筍のかおりがしてなかなか味わい深いものです。
ここ肝付では、早堀の1月から立冬の11月までさまざまな筍が楽しめるので、飽きが来ません。
TI顧問にはお渡しすることができそうにないので、今夜はこれで一杯。頂きます。
(つぎは海からかな M田)
10月に入り、秋の気配が日ごと深まっております。
街中の四十九所神社の参道では、10月15日(第三日曜日)に行われる神事「流鏑馬(やぶさめ)」の稽古が始まりました。
朝には、高く青い空をサシバの群が渡っていきます。
当地で秋風が吹きはじめると、味わいたくなるのが「やまたろう蟹」(モクズガニ)。
大きなはさみを支える太い腕?には藻屑のような毛が密集しており、見た目はちょっとグロテスクです。しかしながら世間では、なんと「日本の上海蟹」という超高級な異名を持つ淡水性のカニです。
この時期産卵のため山奥の清流から川へ下り海へと向かいます。この習性を狙って、山手の川に魚のアラなどをえさに蟹かごを漬けて生け捕りにします。だれでも採ってかまわないのですが、漁師さん同士のなわばりがあって、下手に仕掛けるとかごは川の外というはめになることも。素人さんには手を出しづらい漁ではあります。
そんなこともあって、買って食べるのが経済的にも精神衛生上もベターなわけで、川上地区にある地産地消のデパート「やまびこ館」にて購入することにしました。
甲羅の直径が6cmから10cm程度の蟹が10匹ほどはいった小かご(表示1.3kg)が1000円。雄が7,雌が3の割合でしょうか。雄に比べ雌がはるかに美味しいので、この割合ありきの価格設定なのだと納得しつつも、欲を出してほかの小かごの中も覗いたりしていると、お店の人にせかされることになるので注意しましょう。
急いで家に持ち帰って大鍋に放り込み茹でる段取りを。と、わずかでも油断をすると奴らは身の危険を感じているので大脱走を試みるのであります。毛だらけの大きなはさみに挟まれないよう気をつけながら水を張り、弱火にかけます。
弱火に掛けるのは、ゆっくりゆっくり温度が上がる生温かいお風呂から入っていると暴れないので、蟹の手足がばらばらに分解せず、形良く茹でるためのコツなのです。ちょっと卑怯な調理ですが。
野生につき寄生虫がいるのは当たり前。甲羅や足が赤くなっても10分ほどは茹で続け、ゆで汁に味噌をいれる間、しばしお湯から上がって休んでもらいました。
やまたろう蟹は味噌汁にしていただくのが当地のしきたりです。添える野菜はズイキ(里芋の茎のような野菜で南九州では「いもがら」という)に、薬味は刻んだ大根葉に限ると古老たちは言います。うちに大根葉がないので青ネギを代用しました。
まずは、たっぷりと蟹のエッセンスが溶け出た濃厚な汁を飲み尽くし、さらにその汁をスポンジ状の体にため込んだズイキの小口切りを熱さをものともせずほおばり終えたあと、本命の蟹に手を掛けるのです。
ほとんど口もきかず、手づかみでしゃぶり食い尽くす姿は他人に見せられるものではないように思われます。
あー今年も味わえた、ごちそうさまでした。
(次も山からか M田)
前回のブログで、志布志市から大崎町にいたる志布志湾岸にコアジサシの営巣を確認したことをお伝えしました。繁殖が成功すれば8年ぶりのこととなります。
以前はこの地に飛来し数百羽単位でコロニーを形成していたのに、なぜ来なくなったのか。
その理由として、以下の3点が考えられます。
まず、砂浜の懐が侵食によって狭くなったこと。 台風の大波が砂浜の奥まで到達し営巣地が流されてしまうリスクが高まってしまいました。
そして、狭くなった砂浜に4WD車で簡単に入り走り回れるようになったこと。人の楽しみの場所と鳥たちの繁殖場所が重なってしまい住み分けができなくなってしまったのです。コアジサシは特に、繁殖地への侵入者に対する警戒心が強く、卵や雛がいたとしても、場合によっては守っていた巣を放棄してしまうことがあるのです。
一方で、小魚が沿岸に近付かなくなり、餌が十分に確保できなくなった可能性もあったかもしれません。
海岸の形の変化と餌の小魚の回遊については、自然の力のなせる技ですのでなかなか手の打ちようもないわけですが、車の進入については繁殖地を避けてもらうことができそうです。そこで有志の皆さんが、県や市町にお願いし、7月はじめから9月半ばまで、営巣地周辺に進入禁止であることを知らせる看板とロープを設置しました。砂浜を利用する皆さんの理解も得られたようで、期間内、営巣地が保護されたことはありがたいことでした。
コアジサシの抱卵は成功し、7月22日には雛を確認することができました。
上2枚撮影 小手川清隆さん(7/22)
8月5日から6日にかけて、台風5号が九州の東側を通過。大波に浜が洗われることで雛たちの安全が心配されました。しかし、台風後の観察で、営巣地が少しだけ小高い砂山になっていたため、雛たちは波による被害を受けることなく、飛べるまでに成長した姿を見せてくれました。
志布志湾で子育てを終えたコアジサシの群れは、南を目指して飛び立ったのでしょう、8月27日の観察では、砂浜には彼らの姿はありませんでした。
お蔭様で今年は楽しみがひとつ増えたいい夏でした。来年また飛来してくれることを期待したいと思います。
(次は山のたよりかも M田)
2017年6月、志布志湾沿岸の鳥友だちからうれしい知らせが届きました。志布志市から大崎町にかけての海岸にアジサシの仲間が100羽以上飛来しており、営巣をはじめた可能性もある。コアジサシが主だが、他のアジサシ類も混じっているようだというのです。
コアジサシは、チドリ目カモメ科の鳥、大きさはハトぐらい。白い翼と尾羽を広げて糸を引くように飛翔する姿や獲物を狙うときのホバリングはさながらツバメを思わせるほどです。日本には4月ごろから夏鳥として渡来し、海岸や河川の砂地にコロニーを作って繁殖します。
10年ほど前までは、志布志湾沿岸でもその姿は夏の風物詩で、志布志市から肝付町までの河口や砂浜にいくつかのコロニーが形成され、6,7月には雛たちの可愛らしい姿を見ることができたのです。しかし、ここ数年集団でこの地に渡来することはほとんどなくなり、もちろん営巣を観察することは皆無となっていました。鹿児島県の2016年改訂レッドデータブックでは絶滅危惧種Ⅰ類(絶滅の危機に瀕している種)にはいってしまいました。※1
そのような中、2年前から志布志市在住の方がたが、志布志湾にコアジサシを呼び戻す環境を整備しようと営巣地の造成やデコイの設置などの活動を続けておられます。
参照:2016年4月ぶらり旅(番外編)「帰っておいでコアジサシ ボランティア活動 in 志布志」
鳥友だちからの情報を得て、早速大崎町の海岸に行ってみました。青い空と海を背景に数十羽のコアジサシが飛び交い、砂地のあちらこちらに抱卵をするようにしゃがみ込んだ固体を観ることができました。運がよければ雛がかえるかも知れません。(写真は2017.6.29 益丸海岸)
これから本格的な夏を迎え、この辺りの海岸には人や車も入ってきます。花火大会の大きな音も響くこともあるでしょう。何といっても大波寄せる台風がやってくる季節。
久しぶりに帰ってきてくれたコアジサシたちが、何とか無事に、うまくいけば子育てをしながら、この夏を乗り切ってくれることを祈るばかりです。
※1 環境省平成24 年8月作成の第4次レッドリストでは絶滅危惧Ⅱ類に位置づけられている。
(できれば次回で続きを M田)
参考文献
「鹿児島県レッドリスト 平成26年改訂」
「環境省レッドリスト 2017」
環境省「コアジサシ繁殖地の保全・配慮指針」平成26年3月
「フィールドガイド 日本の野鳥」高野伸二著
ここ肝付町本町には、間口が狭く奥行きの長い町屋づくりが残されています。原田印刷さんのお店もそのひとつ。店に入ると狭い通路の左側に、よく油拭きされ磨かれた印刷機、そして機械越しの壁一面に活字が並べて置いてあります。ほかのいくつかの機械もこの並びにそって置かれていますが、どれも少し暗いお店の中で鈍く輝いており、いつでもスタンバイできる状態に整備されているようです。
この印刷機械は昭和36年製。60年近くこの店の稼ぎ頭として働いていることになります。もうすぐ還暦ですね。この機械、当初は足踏み式の人力駆動で大変だったようですが、今は右側のモーターで時間2500枚まで印刷可能とのことです。試しに動かしてもらいました。カムと歯車だけで制御された機械は、サラッサラッと実に軽やかな、いい音で回ってくれました。原田さんにお聞きしたところでは、活版印刷機のうちこの機種で鹿児島県内に残っているのはこれともう1台の2台だけになってしまったのではないかとのことでした。
では、活版印刷の「活」字について。
壁いっぱいの活字は、漢字やかななどの和文は1文字ごとに数個から十数個、数字は数十個ずつ並んでいます。文字の大きさは7段階。最小は1mm未満。原田さんいわく、「鉛で鋳造されている活字はとても柔らかくて、床に顔(文字面)から落とすとつぶれて使い物にならなくなる。だから大事に扱います。また、横(側面)に圧力が加わってへこむと他の面のどこかが膨らんで、盤面にきれいに並ばなくなる、そのときは尻叩きするとまっすぐに直るんですよ。」なんか大切な子どものことを話されているような口ぶりでした。
活版印刷の手順の第一。「文選箱」という掌より少し大きい小箱に活字を拾う工程をちょっとだけ見せてもらいました。この箱に文書の段ごとの文字を左詰めで拾っていきます。本格的にやれば活字の壁を右へ左へ移動しながら、根気の要る地道な作業となることでしょう。
その後、手順第二にはいります。文選箱に拾った活字を植字板に並べて印字面を作っていく工程(ゲラ)。真鍮製の真っ平らな植字板の上に活字や薄い金属板を組み合わせながら置いていくのです。文字間隔が金属板で、厚さは0.1mmくらいから、倍々で厚みを増していきます。キーボードで調整していくのとは全く異なる職人技に驚くほかはありません。
活版印刷の工程はまだまだ先があるのですが今回はここまで。
二つの工程を見せてもらって、あのミニチュアバードカービングを作る素を十分に理解することができたように思います。
鳥と活字面という違いはありますが、対象物を真剣にとらえ、探求し、細かい作業をいとわずに具現化していく気持ちと技の結集力があればこそ可能になることなのでしょう。生半可ではとてもできないことのようです。感服致しました。ありがとうございました。
ところで、「原田さん、こんな小さい字が眼鏡かけないで見えるんですか?」というM田の老眼鏡必須の愚問に、原田さんがにこにこしながら出してくれた答えが、これ。
下の四角い箱の中に一つ見えているのは米粒です。曰く「米に名前とか文字を書くんですよ。眼鏡なしで。」いやはや・・・、凄いのひとこと。この次にはM田の氏名も書いてくれるそうです。
パソコンとプリンターで安直に印刷ができてしまう今日、私たちの業務のなかでは活版印刷をお願いすることもほとんどなくなりましたが、原田印刷さんには、学校の通信簿封筒、名刺の印刷などの依頼があるそうです。アナログでしか出せない味のある職人技の印刷物。まずは名刺からお願いしたくなりました。
(次は夏の海か M田)
肝付町高山新富本町商店街。通りの先には東のお寺の大きな屋根が見えてくるあたりに、「原田印刷」とだけ書かれた看板とそのお店が静かに佇んでいます。
ご主人の原田健二さんとは40年近く前からの知り合いで、以前は印刷もよく頼んでいましたが、長くご無沙汰をしていました。ふとしたことで、原田さんが鳥の模型を作っておられると聞き、半年ほど前に再訪する機会を得たのでした。それから、鳥つながりのお付き合いを通して、今回ゆっくりと立ち寄らせていただくことになったのです。
入り口の引き戸を開けると、どこか懐かしいインクの匂いに包まれました。
そして、すぐ右手には長さ80cmほどのガラスケースが置かれています。この中に収まっているのが、原田さんが作られたバードカービングです。全部で47種類五十数羽の鳥たち。
驚くのはその大きさと色彩の美しさです。鳥の大きさは、最大でも長さ5cm、小さいものはわずか2cmに満たないものもある超ミニチュアサイズ。にもかかわらず、鳥たちの色どりは実に美しく精密に、しかし手仕事の優しさをも残しつつ再現されているのです。
一つひとつを観ていると、原田さんのそれぞれの鳥たちに対する深い思いが伝わってくるようです。それは、鳥種の選択が実に渋いことからもうかがい知ることができる気がします。ここにあるのが、目を引くような色鮮やかなきれいな鳥ではなく、身近にいて普段に見ることのできる鳥に絞られているからも。
カービングの材料は、主にタモ。癖が少なく粘りがあり使い勝手がいいそうです。(ハウスメーカーから切れ端をわけてもらって使うこともあるとか。)
木彫の道具は市販のカッターナイフ大小2本と学習用彫刻等だけ。
薄くうすく削っていく作業だけに1年に彫れるのは3種類くらいで、10年余りでやっと今の数になったそう。群を抜く手先の器用さと根気のいる趣味です。
このふたつの必須能力は、原田さんのお仕事とも深く結びついているように思われます。
お店に入ったときの懐かしい匂いは、活版印刷で使われる油性インクのものでした。ケースの通路越しに置かれた機械と壁一杯の活字。原田さん、仕事と趣味は表裏一体なのですね。
(次回につづくのだM田)
立夏を迎えました。孟宗の筍は高々と伸び、枝を広げかけているものもあります。里山の常緑広葉樹はいっせいに黄金色の花を咲かせはじめ、いま、まさに当地は山笑う季節となりました。気温もあがり少し動くと汗ばむくらい。お水も美味しい。
汲み置いていた水がそろそろ底をつきそうなのでゆっくりあるときに汲みに行きたいという、家人からのリクエストにお応えして、GWの昼下がり、ポリ缶を積んで出かけることにしました。
行く先は、届け物もあるというので志布志方面に。蓬(よもぎ)の里湧水とか高下谷(こうげたん)のわき水とか知る人ぞ知る、知らない人は知らない名水をなんどか汲んだことがあります。が、今回は志布志の町中、宝満寺の近くにもいい水汲み場があるとの噂を聞きつけ、そこに行ってみることに。
去年「お釈迦祭り」でウロウロした辺りで、ちょいと土地勘もありすぐに見つけることができました。
「沢目記湧水」という銘のあるたいへん立派な水汲み場です。ここ沢目記集落の皆さんが整備された共同の水汲み場だそうです。渾々と湧きでる清水を称えるようにこれまた立派な句碑も鎮座しています。
ポリ缶にたっぷり汲み終えて、句碑の横の看板を読んでみると、大正5年の秋、あの山頭火が志布志の町中を2日間托鉢して回ったそうな。『きき水』の達人ともよばれた彼は、そのときこの湧き水も飲み味わったかも知れませんね。と解説されております。昔から大切にされてきた湧水なんです。心していただきましょう。
山頭火と言えば、30年近く前フランキー堺さんが熱演したドラマがありました。今でも記憶に残っています。フランキーさんは鹿児島の出身なので、あの人のドラマはよく見ていました。
さて、ここ志布志には、山頭火が2日間過ごしたなかで詠んだ句が14の句碑に刻まれ、街のあちこちに残されているようです。そのうちこの湧水から一番近いところに、彼が鹿児島を去るきっかけになった出来事を読んだ句碑がありました。
解説看板によると47才の彼は、若い巡査から「托鉢なら正々堂々とやれ。」と注意されたので感傷的な気分になり、行を止め宿に戻って、翌日は都城に向かったそうです。なんかわかる気がしません?旅路の果ての山頭火の気持ちが。しかも秋なんです。
他の句碑も見つけてみたいのですが、霧雨が小雨になってきたので、わたしたちもそろそろと帰路につくことにしました。
(次は緑の中かな M田)
参考文献
・「種田山頭火白碑めぐり 山頭火と志にあふれる旅」 志布志市
春の彼岸を迎える頃になると、海沿いの山肌には、深みどりの木々のなかに山桜が花を咲かせます。にわかに姿をあらわす綿菓子のようなその樹形や色の違いに、思わず目を細めて見入ってしまうほど。こちらではこの風景の中、早期米の田植えがはじまるのです。
この時期からやたらと話題になるのが山菜の情報。タラの芽はまだ早い、ウドなどは更にまだ先、タケノコはそろそろだよなぁとか。
ということで、近くの竹山に行ってみました。あわよくば、孟宗竹の初ものをいただけるかもという薄い期待をいだきつつ。
朝夕はまだ寒さが残っているからでしょう、たけのこはまだ土の中、地表には芽も頭も出してはいません。そこで、日当たりの良さそうな場所をゴム長の底ですり足前進して筍の芽を感知するという「すりすり探索法」に打って出ました。勘も技術も何もいらない、時の運だけが左右するやり方ですが・・・。
効果ありでした。
今年初挑戦で5本の収穫。これはこれは。「いつものように酢味噌和えで一杯かな。いやいや若竹煮も外せんぞ。」とか自慢したいくらいうれしかったので、SNSサイトに投稿したところ、I先生から美味しい食べ方のフォローをいただきました。「鮮度がよければ焼きタケノコもいいですよ。」とのこと。孟宗竹のたけのこではまだやったことのない調理法でしたので早速チャレンジ。
ガスレンジで直火焼きにしてみました。
焼けた皮をあちちちちちっ・・ とむいて、なにもつけずに、はふはふ。口いっぱいにひろがる筍の香りと甘さを堪能しました。これがまた鶏刺しと相性抜群。
I先生に感謝しつつ、本年第2弾、東をむいて「わっはっは」と大声で笑わせていただきました。ごちそうさまでした。
(次も山か? M田)
山仕事にたずさわる人々(うちの会社も)は、旧暦正月16日は「山の神」のお祭りをするのが慣わしです。これは、冬場の山仕事から、春の農作業に移る区切りの意味もあるとのこと。このころが春の始まりだとご先祖様たちはお考えだったのでしょう。
そういえば、ウグイスの初音を聞くのも、バレンタインのチョコの日もこのころ。野も人も陽射しの暖かみを感じて活発に動きだす時期なのです。
そこで先月、まだ小さく縮こまっていたフキノトウを見に行くことにしました。寒さの残る土のうえで、ふっくらとちょうど良いくらいに大きくなっているはずです。
***前回のぶらりにメッセージをいただいた もりやまさまへ***
もりやまさまからのメッセージ
いいですねー ふきのとう 子供の頃見た風景を頼りに去年ようやく自生地を探し当て味噌、てんぷら
で大満足でした。
先日のこと、場所は確認済みワクワク気分で現地直行すると既に先客あり、あたり一面踏みつぶされたふきのとうがもう来て欲しくないと言いいたそうでした。
自生地を見つけるコツなどあれば教えていただければ有難いのですが?
フキノトウは、食べ頃をとるにはやはり、前の年にとったところや蕗のあったところを覚えておく他はないと思います。落ち葉や枯れた蕗の葉などで隠れているフキノトウを知らないところで探すのは至難の業です。しかし、それもまた楽しみのひとつではありますが。
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覚えのある、ちょっと近場の畑のきわに行ってみました。
ぽこぽこと浅黄色のとうがいくつも、顔を出しています。寛い心で、小さいものは残して(釣り部用語で「リリース」)おきましたが結構な収穫ができました。
早速たべごろのものは天ぷらに。大きいものは、鰹節や砂糖をくわえて味噌炒めにしてみました。
天ぷらのころもは卵なしのあっさりさらさらで、ちゃっと揚げるのが私の好みです。
まずは、なんにもつけずにいただきます。はふはふの後に口ひろがる独特のにがみ。すかさず、焼酎のお湯割りを流し込むとこれはもう至福のひとときなのです。私の家では、初物を食したときは東を向いて大声で笑うのがしきたりなので、天ぷらと焼酎が胃の腑に落ちると同時に大きな口を開けて「わっはっはぁ!!!」。
あとは砂糖をちょっときかせた甘味噌炒めで、ちびりちびり。ご馳走様でした。
(つぎも山なのか M田)
1月のブログにどこのどなたか存じませんが、「M田よ。ベトナムかタイをぶらりせよ!」とのコメントをいただきました。貴重なご助言をありがとうございます。M田は今年もちまちまとこのあたりをぶらついていこうと思います。でも、いつかは・・・
さて、はやくも立春を迎えました。が、月の名はきさらぎ。寒さはこの2月がピークになり、巷ではインフルエンザが流行しています。こんなときは人ごみをさけ、春の初物でも探してみましょうか。とりあえず、人っ子ひとりいない山の中へ。
家人を誘うも寒いから嫌だと断られ、ひとりドライブすること20分。川上地区を過ぎ二股キャンプ場近くへ行ってみました。ここは標高400m、低地と比べるとかなりの冷え込みようです。春の初物を探すにはもっと暖かいところを選ぶべきだったと後悔しながらも水辺に向かいました。ここはネコヤナギの群生がみられるところです。
近づいて見るとぽつぽつとわずかですが、赤い角をはじいて白銀色の花穂が顔を覗かせていました。柔らかい産毛が春のあたたかさを予感させるような気がします。あと十日もすると一面眩しいほどになることでしょう。
肝付町は海沿いの土地柄かツワブキが多く見られますが、山寄りの水辺近くには蕗も生えているところがあります。はつはるといえば、山菜、ふきのとう。この辺りの自生地を目を凝らして探してみることに。天ぷらにして・・・あの独特の苦味がたまらないんだよなぁ。
なんとか、親株の枯れ葉のかげに隠れるように顔を出した小さなふきのとうをひとつ見つけました。朝夕はまだ凍るような土のうえに萌黄色の花芽がきれいです。しばらくして春めいてきたら、もう少し大きめのやつがぽこぽこと出てくるはずです。天ぷらはそのときを待っていただくことにいたしましょう。
いやはや、寒い寒いと言いながらも、春の確かな訪れを感じることができました。
(春の食はどうするM田)
皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
さてこのシリーズで、肝付町内の、あちらの食堂やこちらのラーメン屋さんなど気軽に入れる飾らないお店をいろいろ紹介してきました。というか、この町には、そのカテゴリーに入らないところはほとんどないといってもよろしい。値段が一番高いのが、あの活魚食堂のお刺身「松」定食、注文しないだけで別に入りにくいわけではありません。
しかし、2年ほど前から気にはなっていたものの、なかなか敷居の高いお店がありました。
その名も「カフェKAGURA」。おじさんの好みからはもっとも遠い位置にある、婦女子オシャレ目、おいしいの科、量少ないで種「カフェ」の仲間。とても一人では入店は無理だよなぁというイメージなのです。
とある上天気の日曜日、連れ合いと町の南端に出かけることになり、お昼をそこで、という話ができあがってしまいました。じつはこのカフェは、肝付町役場を基点にすると南へ約30Km、車でおよそ1時間駆けた、岸良海岸にあるのです。正直言って遠い。
自宅から、県道542号線のつづら折の道をドライブすること1時間弱、岸良海岸の休憩所に到着。ここは広い駐車場があり、その奥に建っているさっぱりとした切妻の家が「カフェKAGURA」。
車をおりると目の前に砂浜。冬のやわらかな日差しを反射して、白い海岸線がさらに白く感じられます。遠くの岩々には釣り人の姿も。暖かなのんびりとしたお昼時です。この風景の中、飾りのない切妻の家がしっくりと馴染んで見えました。
中に入ると、2組のお客さんがお食事中でした。東側の大きな窓には、静か過ぎるくらい穏やかな海岸の風景が広がっています。
食事は、皆さんランチのよう。コーヒーつきで800円は好評のようです。ではこちらもそれで。
地魚のカルパッチョ3種と鳥の燻製、魚フライ、ロール白菜。おしまいに挽きたての豆で入れたコーヒーが運ばれてきました。おじさんにもこれだけあれば十分です。とてもゆっくりとお昼を楽しむことができました。・・・やはり連れは必要でしょうが・・・ ご馳走様でした。
(次は初春のぶらりか。M田)
11月も末、年の瀬もそこまで来ています。初霜も降り、南国鹿児島大隅にも冬の足音が近づいてきました。
そんな折、近畿在住の知人から届いた1通のEメール。その中に「高山、大隅の秋の名所はどのような所があるのだろうなどと考えております。そのような場所はありますか?」との一文が添えられていました。
ぶらり担当者としては、このリクエストにお答えしなければならないという使命みたいなものを感じてしまうのであります。しかし、いかんせん当地は、スギ林以外は照葉樹の森に囲まれ、紅く色付く楓などは、自然の中でなかなか目にすることはできないのです。また、寒暖の差が小さいことから、紅葉ではなく枯れ葉になってしまうのです。
そこで、肝付町本城にある道隆寺跡を訪れてみることにました。この寺は鎌倉時代初め(1246年)に蘭渓道隆禅師により開山されたと伝えられています。明治初期の廃仏毀釈で破壊され、埋められた遺跡を、地元の福谷 平さんが、個人でひとつひとつ掘り起こし整備されたものです。
入り口から山門へと田んぼの中に参道が延びており、聞こえてくるのは寺跡の竹林から鳥の声だけ、静けさにつつまれながら歩きます。山門跡の石段は苔に覆われ、訪れる人を柔らかく迎えてくれます。
寺跡には、修復されたたくさんの五輪塔や石燈籠が並んでおり、そのあいだ間に、風情良く楓が植えられ、夏の青葉、秋の紅葉を楽しめるようにしつらえてあるようです。
訪れたのは11月末でしたが、高山ではまだ紅葉狩りには早かったようで、赤みが乏しいのが残念でした。もう少し寒が強くなれば見頃を迎えることでしょう。
そのときは凄腕の写真部に撮影してもらうことにしますので、お楽しみに。
(次は海の近くか M田)
秋です。吹く風も澄み切って きもつきの田園風景のはるかかなた、霧島連山がその姿をくっきりと見せ始める季節となりました。大隅半島からは、左手にどっしりとした韓国岳、右手に流麗な高千穂峰と連座しており、ちょうど中程に平成23年1月に噴火した新燃岳が望めます。
ある晴れた土曜日、霧島があんまり美しく見えているので、「これは山に呼ばれているなぁ」と思い込み、早速翌日早朝、高千穂峰に登ってみることにしました。
霧島連山は肝付町の真北に位置し、高千穂河原ビジタセンターまで約2時間。
やはり、この日もよく晴れていました。
駐車場のおじさんの話では、「土曜は少しガスっていたけど、今日は最高ですなぁ。」とのこと。これはラッキー。
登山口からしばらく森の中、石畳の道で足慣らし。樹海が切れたあたりから火山礫の砂利道に変わり、勾配がきつくなって来ます。日頃の運動不足から、息はあがるわ、膝は笑うわの有様でした。
しかし、お鉢にたどり着くと、その風景のすばらしさに元気が出てきます。錦江湾の桜島、その左向こうには開聞岳がうっすらと浮かんで見えます。やや東に目を移すと我が高隈山の勇姿も望めます。
ここから「馬の背」と呼ばれる火口縁の道を進むのですが、今日はガスッてないので安心して歩けます。いったんやや下って500mほど登ると高千穂峰の山頂(1,574m)に到着。ここに坂本龍馬が抜いたという伝説の「逆鉾」が刺さっています。これが天孫降臨の印なのです。
今日は風もおだやかで、ゆっくりと山頂でいただくご飯もご馳走に。
これから、紅葉の季節を迎える霧島。さらに多くの登山客が訪れることでしょう。
(つぎは肝付に帰るのか? M田)
サシバというタカの仲間がいます。タカとしては中型で、翼を広げるとちょうどカラスくらいの大きさ。
近年里山の環境悪化で、数が激減し環境省の絶滅危惧種に指定されています。毎年春3月ごろ南アジアの島々から日本や中国大陸に北上して、繁殖し、初秋、大集団となって南へ渡っていきます。
南九州では、10月2週目あたりに秋の渡りのピークが訪れるようです。
鹿屋市の大隅広域公園は、その渡りを360度パノラマで観察できることで有名な、全国でも知ってる人は知っているところなのです。
10月10日体育の日、公園と野鳥の会との共催で観察会が開かれるというので行ってみることに。
9日は雨だったので、足止めを余儀なくされた集団がいるのではと、早朝からちょっと期待に胸を膨らませております。
6時30分に公園に到着。晴天、ほぼ無風。絶好の渡り日和となりました。
これから、陽がさして、上昇気流が発生しだすとサシバが飛び始めます。彼らは上昇気流を利用して旋回しながら高度をあげ、次の上昇気流まで滑空します。その繰り返しでエネルギーを出来るだけ消費せずに南の佐多岬、南西諸島を目指すのだそうです。
しばらくすると、期待したとおり、後から後から渡りの集団が現れ、公園の上空で旋回を始めました。
10時までに観測したサシバの数は3860羽を超えました。ここから南に50キロ、佐多岬では5000を超えたとのことです。
青空を舞いながら渡っていく鳥たちの、力強さとひたむきさに感動を覚えてしまいました。
また来年も会いたいですなぁ。
(次は高山へ帰るのか M田)
二百十日を過ぎ、秋の気配が少しずつ濃くなっていく季節となりました。これから、あれよあれよと日が短くなって、夜長の一献が実に楽しみになるのであります。
9月サツマイモ(当地では「からいも」という)の収穫が始まると、同時に新焼酎の仕込みが始まり、焼酎蔵からは甘いもろみの香りが漂って来る。取りあえずビールは控えられ、いきなり正統派お湯割りをいただくことになってまいります。そのとき、グラスの横には、どんぶりにたっぷりと盛られた塩ゆで落花生があれば十分。あと秋刀魚の塩焼きに大根おろしが添えてあれば申し分ないけれども、これは贅沢というものです。
さて、そんなことをあれこれ考えながら、畑の道を散歩していると、この時期限定のなんとも可憐な花を見つけました。
サツマイモが朝顔に似た花をいっせいに咲かせています。蔓の生育状態にもよるのでしょうか、一面お花畑のような畑もあれば、ほとんど花のない畑もあります。この花の終わる頃、芋の収穫が始まるのです。
柔らかな緑の葉の下に花を付けているのは、落花生です。しぼんだ花から地面に向かって子房柄(しぼうへい)が伸びているのが見えます。これがあのピーナッツを育むことになるのです。この株はまだ小さいので秋の中頃に食べ頃の実を着けることでしょう。大きな株は高さは50㎝以上になります。このころが採り時。畑の中でおじちゃんやおばちゃんが手作業でむしり取る風景が、またいい感じなんです。
台風がきても土の中の芋や実は大丈夫。大風に悩まされてきた南九州ならではの作物なのですね。
(今夜ははやく帰ろう M田)
この夏、可愛らしいネーミングのゲームソフトがリリースされました。
会社の中でも、町中でも、ところかまわず、スマホを片手に「アッ、いたいた!」とか「でたぁ!」とか大騒ぎになっております。いたり、出たりしてるのは「バーチャルなモンスター」の仲間だそうで、道ばたにころころ転がっているのだそうですが・・・。
私の中では、この世に、いたり、出たりしているのは、ツチノコとか妖怪の類であり、なかなか目にすることはかなわず、できれば一生お会いしたくないほうの「リアルで妖しげな化け物」たちでした。
そして日本では、昔から夏真っ盛りのこの時期になると、そちらの類が出ることになっているようです。
実は、ここ大隅高山地区(現在の肝付町)は、メジャーな妖怪の出身地といわれています。あの鬼太郎に出てくる白いひらひらした、人?のいい妖怪、その名も「一反木綿」。
伝説によれば、志布志湾に面した波見地区、権現山に住んでおり、夕方薄暗くなる頃、肝付川を遡りながら一反の布のようにひらひらと飛び、人を見つけたらぐるぐる巻きにして絞め殺してしまうという恐ろしい化け物です。
特に、四十九所神社の前の道を通る子どもたちも襲うそうで、何でもいちばん後ろにいる子どもが狙われるらしく、ご老人から、昔はこの道にさしかかるとみんな死にものぐるいで走ったものだと聞いています。
そこで、ある日のお昼前(夕方以降は本当に出たら怖いので)、すみかの権現山に行ってみることにしました。
麓の波見荒瀬集落からよく舗装された林道を車で走ること10分余り、30台はゆっくり停めることのできる登山口大駐車場に到着。
観光地並みに水洗トイレも整備され、清掃も行き届いています。「権現山=一反木綿」をキーワードに観光地としてアピールしたかったのかも、と勘ぐりたくなるほどの力の入れようです。
まずは、山頂に向かってみましょう。
頂上へ向う細道が、うっそうとした二次林の中を通っています。木製の階段があったり、苔むした緩い坂であったり。私外にはおそらくは誰も登ってはいないのでしょう。心細くなるほどの静けさにつつまれています。海から吹き上がってくる風が涼しく汗ばむこともありません。木陰を心地よくゆっくり歩き15分ほどで山頂のお宮が見えてきます。
ここに祭られているのは龍神です。一反木綿の本当の姿は龍神様なのかもしれません。
そういえば、スタジオジブリの映画「千と千尋の神隠し」で龍神「珀(ハク)」が空を飛ぶイメージと一反木綿とはどこか似ているような気がします。
山頂に設けられた展望所からは、鹿屋市から志布志市まで肝属平野を一望の下に見渡せます。人間ながら、ここから肝付川を遡り飛べたらさぞ気持ちが良かろうと思うことでした。
その昔、権現山は海上交通の目印であり、物見櫓だったことは想像に難くありません。人々はここを神聖な場所として崇め、子どもたちを水難や事故から守るために、恐ろしげな妖怪を誕生させたのではないでしょうか。
この穏やかな風景を眺めていると、ここに住まう妖怪「一反木綿」は肝付の守り神だったんだなぁと実感することでした。少し運動になって、気持ちを落ち着かせてくれるゲームでした。
(次は海辺にしようか?M田)
昨日までの大雨がうそのようにあがり、まぶしい夏空が広がっています。こんな日は、帆翔する鳥のように、高いところにあがって、ゆったりと広がる景色を眺めてみたくなるものです。
知り合いのお宅にツリーハウスができたそうなので行ってみました。
場所は、会社から500m、高良橋を渡ったすぐ向こう側の集落。こんもりとした森の中です。
家主(樹主?)の馬場さん夫婦とは昔からの知り合いで、今日はアポなしで訪ねてみました。くつろいでいらっしゃいましたが、久しぶりにいろいろなお話をすることができました。
まず、この樹(楠です)、目の高さの幹周り5mくらい、高さは30m超。馬場さんのおじいさんの小さい頃からこのぐらいの大きさだったとのことで、樹齢はわからないそうです。まっすぐに伸びた幹がスマートな樹形を見せています。
ツリーハウスは息子さんが、1年ほど前に解体現場から古材を運んできて、こつこつと、文字通り作り上げました。小屋の高さは20m。自宅の屋根を遙かに超える高さです。
しっかりはしているものの、昇るにつれてスリルが増していく螺旋階段をあがって小屋につくと、
これはこれは、あの映画“Stand by Me”に出てくるツリーハウス。
思わずおなじみの曲を口ずさんでしまいそうです。季節も夏だし・・・。
360°のパノラマロケーションは、肝属平野が錦江湾から志布志湾までそれほど大きな高低差もなく続いていることを教えてくれます。(これは必見!)
馬場さんのお勧めは、ここから眺める夕焼けだそう。「会社がひける頃、夕陽の様子を見て上がればいいのよ。ビールもって。」とは奥様のことば。
次はぜひそうさせてもらいます。映画のように友達と。今日はありがとうございました。
(これからは肝付なのかM田)
K松先生が南京でぶらり。大陸の雰囲気が味わえる楽しいブログありがとうございました。長江の水平線を遙かに眺めながらのフェリーに一度乗ってみたくなりました。そのときは先生、よろしくお願いします。
さてさて、お釈迦まつりの日、甘茶掛けやパレードで賑わう志布志の裏通りに、興味深いものを見つけました。この日に合わせて1年に1回だけ公開される洋館、「東郷医院」です。
総2階建てのこのおしゃれな建物は、大正6年(1917年)の竣工とあり、ちょうど100年目を迎えています。現存する洋館としては鹿児島市の山形屋デパート社屋(1916年)に次いで2番目に古いものだそうです。
外装は手の込んだモルタル仕上げで、100年を経た今も当時の美しさを保っています。必見は右手上、切り妻の軒下に掲げられたレリーフ(おそらく鏝絵)です。微笑む子ども(天使?)が地球の上に乗っている構図は、子どもの命を何よりも大切に考えていますよという旧東郷医院としてのメッセージなのかもしれません。
中に入ると病院の受付が正面にあり、左手が診察・治療室になっています。
受付枠のデザインは、外窓上のレリーフと統一されています。
右手階段を上って2階へ。階段は向こうの居住エリアからも上がれるようになっており、2階が応接室と客間だったことがわかります。さすがに大正の初めに贅を尽くして建てられた洋館だけに、内装も目を引くものばかり。各室のシャンデリアはご覧のとおり。洋間は湾曲した折り上げ天井で柔らかい雰囲気、和室をしきる欄間には屋久杉が使われているようです。廊下の床も1尺を超える広葉樹板(タブかな)で張られており、なかでも一番広いのは3尺巾の2間長ものでした。
大隅半島ではいちばん古く、とても興味深い洋館でした。オーナーが大切に保全されていることが伝わってきました。また、一年後、ゆっくり見させていただきたいと思います。
(志布志からどこへ M田)
やはりM田は、志布志にはまってしまいました。ということで今回も志布志編です。
毎年4月29日、志布志ではお釈迦様の誕生をお祝いして「お釈迦まつり」が賑やかに開催されます。四半世紀以上この大隅の地に居住しながら、不信心ゆえに一度も行ったことがありませんでした。
かわいい盛りの稚児行列や、この日の朝、仏前結婚式を挙げたばかりのお嫁さんを乗せたシャンシャン馬行列があると聞いていたので、これは見なけりゃと早めに出かけたのですが、遅刻。思い思いの踊りを披露してくれるお仲間内のパレード見学となってしまいました。
お祭の中心となるのは、旧道の一番奥に位置する安産祈願で有名な宝満寺です。お稚児さんもシャンシャン馬お嫁も、町内の踊り連も、観光客もみんなこの寺に向かって進みます。
わたしのような俗物かつ不信心ものがどうやって、お釈迦様の誕生をお祝いするのか。なかなか恐れ多いことではあります。お寺の境内に入ると、花で飾られた小さな小屋が建てられ、その中心に金色に輝くお釈迦様がたらいのプールに鎮座されております。このお釈迦様にたらいに満たされている甘茶を、竹のひしゃくでジャブジャブかけるだけなのです。実は、年の数だけかけるのが習わしだと言われています。
わたしの前に並ばれていたグランパもかなりの時間をかけ、甘茶の産湯をされていました。しかし、一人で60回近くもかけてたら、次に待っている人には迷惑なはなし。早めに切り上げるのが仏の道というものでしょう。5回に切り上げましたが、果たして御利益はいかがなものか?
初夏の陽のなか、お寺では参拝者用の温かい甘茶も振る舞われ、なんともほっこりとした気分になってきました。
道沿いのいいにおいをさせている出店をのぞいて、ちょっと小腹を満たしてから、もう一つ楽しみにしているところへ行ってみようと思います。
(次も志布志だよ・・・M田)
第3回 吹上町 透き通る碧の湯 もみじ温泉
日吉からさらに南下し旧吹上町にはいると「温泉のやど」などと書かれた看板が目につくようになる。鹿児島市街からも県道22号線で伊作峠を越えれば30kmほどの距離だから、疲れを癒したい人にとっては、日常生活からしばし離れてゆっくりと休める湯治の里といったところだろう。
鹿児島県内には霧島や指宿のように全国的にも有名な温泉街のほかに、ひなびた湯のまちが多い。そこには地元の人たちが毎日通っても飽きないほどの魅力にあふれた立ち寄りの温泉がある。ここにもいいお湯が湧いているはずだ。期待を胸に看板の案内のまま車をすすめてみるとしよう。
国道270号線から県道を山の手に1.5㎞ほどはいったあたり、湯之浦川という小さな川沿いに5軒ほどの温泉宿があつまる「吹上温泉」はある。
まちへの入り口に建て替えが終わって間もない「吹上温泉郵便局」が見えてきた。郵便局の名前に地名ではなく、わざわざ「温泉」の文字がついているのは、往時、なじみの宿に長逗留して、便りや送受金をする湯治客が多かったことの証しだろう。しかし今、かつての温泉街に向かう道は人通りもわずかで、営業している店も多くはないようだ。
通りを進んでいると左手に「西郷南州翁来遊の碑500m→」と白塗りの板に一行筆書きのみの札が立っていた。矢印は、温泉のある方から右に180°の方向を指している。まずはこちらからご覧なさいと言うことか。その先に続いている林道は、道幅もせまく急な登りである。ありきたりな石碑にがっかりさせられることがよくある。そんな気もしないではないが、行ってみることにした。林道の途中に、今度は踏みあともうすい山道をさして、「徒歩80m」の札が立っている。ここまできたら見て帰らぬわけにはいかない。落ち葉と枯れ枝を踏みながら短い坂を登ったさきに、杉と楠のうっそうとした林に囲まれて、2m四方、高さ3m以上はあろうか、立派な石碑が建っていた。上段の天然石には「西郷南州翁来遊之碑」と刻字されている。その碑名にそえて「元帥伯爵 東郷平八郎 畫」とある。
日露戦争において、日本海戦でロシアバルチック艦隊に完勝した東郷平八郎が揮毫しているのだ。元帥まで登りつめ軍神といわれるほど崇敬された彼がどのような思いで、「西郷さんが来て遊んだ」と書いたのだろうか。大いに興味をそそられるものがある。
下段の碑文には昭和2年建立と記している。ちょっと調べてみると、この年は西郷隆盛が西南の役に敗れ鹿児島城山で自刃して、ちょうど50年の時が流れていることになる。半世紀という節目の年の意味もあるのかも知れない。
明治維新、日清、日露戦争の勝利をへて大正、そして昭和まで海軍軍人として生きた東郷平八郎は、西郷より20歳年下、同じ鹿児島城下加治屋町で育っている。そして、この碑名を揮毫したのは彼がかぞえで80歳の時であった。年を重ねた東郷元帥が、明治政府を下野して帰郷した時期にしばらくここで過ごした西郷に対するさまざまな思いと、その後西南の役で50歳にならない若さで逝ってしまったことへの哀悼の意を込めて筆を執ったことは想像して差しつかえはないと思う。
ふたりの偉人を刻した碑は、当時の吹上温泉街の誇りとして、まち全体を見おろすことのできる丘の頂上に建てられたのだろう。そのころは周囲の樹木は払われていて、まちから歩いて登れるような小径もあったかもしれない。
想像を切りあげて、西郷南州翁が何度も訪れたという伊作温泉に浸かってみよう。
坂を下りて通りの交差点を直進すると「もみじ温泉」が右手に見える。木造の白壁に「源泉かけ流し」と書かれてある。今回はここに決めた。
向かって左に島津の宿、右に島津の隠し湯と二棟。奧には家族湯もあるようだ。
さっそく棟間のせまい通路にはいり、右手の受付で勘定を済ます。そのむかいが温泉の入り口になっていて、暖簾がかかっている。木床の脱衣室はきちんと清掃され、素足に心地よい。壁の適応書には硫黄泉、疲労回復、切り傷にも効能有りとある。先の碑文に、西郷は戊申戦争後と、征韓論に敗れたとき鹿児島に帰り、伊作の霊泉を訪れたと書いてあった。傷つき疲れた心身をこの淡い硫黄の香りする源泉で癒したのだろう。
濁りのない碧色のお湯で溢れた三畳ほどの広さの湯舟が二槽、少し熱めとちょうどいい熱さに仕切られている。赤銅色のタイルで覆われた壁床に暖かみを感じる。
大きな窓からの陽射しで浴室全体が明るく、木造の天井も湯気を逃すためのがらりが光を通し梁や桁、天井板などを明るく見せてくれている。快い開放感のある風呂場である。
先客は、地元の知り合い同士らしい、かなりの先輩が二人、年金の話で盛り上がっていた。
この澄んだ温泉に毎日浸かっているからだろう、声も大きくて元気、そして気さくである。
先の碑文に「翁(西郷隆盛)は常に愛犬を牽きて萬山を渡り衆人と混じて霊泉に浴し」とあった。うさぎ狩りを好んだ西郷が山々を駆け回ったあと、温泉に浸かりながら伊作の人々と語り合うようすが浮かんでくるようだ。
ふたつの湯舟に交互に浸かって、身もこころも芯から暖まった。
外に出ると、まだ浅い春の川風がほてりをほどよく冷ましてくれる。
日置市を吹上海岸に沿って南下してきた。伊集院は関ヶ原の戦いで敵陣中央突破し敗走した島津義弘。東市来は朝鮮出兵時に連れてこられた陶工たち。日吉は明治維新十傑の小松帯刀と、それぞれの町に時代の主役がいた。そして、吹上では、西郷隆盛と東郷平八郎が現れた。
あらためて薩摩の歴史は奥深く、路は楽しみで満たされていると思う。
さらに南へと足を伸ばしてみよう。
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もみじ温泉
入浴料 400円
営業時間 午前6時~午後9時(立ち寄り湯)
定休日 水曜日
日置市吹上町湯之浦2503
(M田)
第2回 手作りバイキング 味処正ちゃんで昼ご飯
鹿児島県の地図を広げると、西側が薩摩半島、東側が大隅半島、南に薩南諸島が続いている。その地図を右に90度回転すると、薩摩半島は子牛の首頭のように見えてくる。きれいに弧を描く首のあたりが吹上浜、47kmにおよぶ砂丘である。海岸線に沿って、国道270号線がいちき串木野市から日置市をへて南さつま市まで、南へゆったりと延びている。
日置市は、2005年に伊集院、東市来、日吉、吹上の4町が合併して誕生した平成大合併のまちである。東シナ海を望む薩摩半島の西に位置し、ちょうど鹿児島市と背中合わせに隣接している。
鹿児島市からはまず市役所のある伊集院にはいる。この町には、関ヶ原の戦いで徳川家康軍の中央突破を果たした戦国武将島津義弘公の菩提寺が置かれている。毎秋、義弘公の遺徳を偲ぶため鹿児島市を起点に、大勢の人々が甲冑を装して歩き参拝する「妙円寺詣り」は、町の一大行事となっている。武将姿もさることながら、実は、歩きながら謳われる「妙円寺詣りの歌」こそが次代に伝えたい肝心のところなのだと思う。
JR伊集院駅前に建つ、島津義弘公の像は、歴史好きならずとも、一度見ておくのも悪くはなかろう。
ここから国道3号線に乗って西へ20分ほど移動すると東市来のまちが見えてくる。
東市来町といえば、司馬遼太郎著「故郷忘じがたく候」で描かれた沈寿冠窯をはじめとする薩摩焼の窯元が集まる苗代川美山が有名である。高台の美山から海のほうに下ると、東市来の市街地だ。町に入るとすぐに、湯之元温泉という泉質のよい立ち寄りの湯がいくつも軒を並べている。温泉はしごを好む向きにはたまらないところだ。
そこから国道270号でさらに南へ向かうと旧・日吉町だ。道沿いに、明治維新の十傑のひとりといわれる「小松帯刀」ゆかりの看板が目につくようになる。彼は、養子としてこの地にはいり、22歳で日吉城領主となった。薩摩の小松として大政奉還を成し遂げた後、病により36歳の若さで世を去った帯刀は、いまは小松家歴代の墓所円林寺跡にねむっている。
そろそろ昼食でもと思いながら日吉町吉利の広い畑地の一本道を走ると右手に「味処 正ちゃん」の大きな看板が立っている。先客も多いようだが、駐車場は広い。
軒下には、日替わりランチ(サラダバー、コーヒー付き)890円の文字。よく見ると8の字が上書き修正してある。物価高の波はここにも押し寄せているのだ
この店のランチは、主菜に加えて、取り放題のバイキングがついている。
サラダはもちろんだが、焼きそばもナポリタンスパゲッティもある。麻婆豆腐もカレーもあるし、野菜炒めも蕪の酢の物もある。ありふれたバイキングメニューではあるが、よく見ると料理の一つひとつに手作り感があふれている。決して豪華さはないが、産直の野菜が調理されて並んでいる安心感が伝わってくる。しかも、どれも美味しそうだ。
しかし、昔のようにはいかない。今日の主菜は天ぷらの盛り合わせだ。冷静に自制心をもって、みあった料理を選び適量を皿に盛ること。特に、仕上げにカレーライスなどもってのほかなのである。
思い留まることができずに多すぎる昼飯をすませて、駐車場に出ると海からの心地よい風が吹いてきた。 松林のむこうは吹上浜、そして東シナ海が広がっている。
おおいに元気をもらった。これから、さらに南へ、旧吹上町から南さつま市にむかって車を走らせよう。
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味処正ちゃん
営業時間11:00~14:00 休み日曜・月曜
日置市日吉町吉利1589
(M田)
みなさま、素晴らしいご新年をお迎えのことと存じます。
ご無沙汰しておりました。M田です。
気分も新たに、さつまの国の道々で立ち寄った、じわりといい感じのところをご紹介できればと思います。本年もよろしくお願い申し上げます。
第1回 夕日がにあう癒しの湯 薩摩薬師温泉
平成の大合併は、中央や県から見れば自治体の数が減った分だけ事務などの負担は減少したかもしれないが、さつまの国をあちこちと移動しているわたしには広くつかみどころのない境界線が引かれたうえに、合併前にその町がもっていた由緒ある名前や独特の魅力を無理やり剥奪してしまったように思えてならない。
さて、鹿児島市郡山町(旧日置郡郡山町)あたりから伊佐市へと向かうには、薩摩川内市入来町を経てさつま町で国道328号から267号へと乗り換えて走ることになる。現さつま町は、薩摩郡宮之城町と薩摩町が合併して誕生した町である。
宮之城は地元では「みやんじょ」と発音され、薩摩言葉にはめずらしく語感は穏やかで豊かな土地の印象が伝わってくるように思う。大河川内川の流れにのる水運と、南に向かえば鹿児島市、西には薩摩川内市、東は伊佐市、北は出水市にと幹道が集まっている。北薩摩の商業・交通の要所であり、観光・遊興の中心地であったし、旧国鉄時代には宮之城線という地元の足として欠かせぬ路線が、川内駅から薩摩大口駅まで走っていた。
一方薩摩町は、江戸時代から隣の山ヶ野金山とともに永野金山の門前町としてさかえ、明治期には西郷隆盛の子菊次郎の指導で、鉱業と人材育成に重きをおいた一種文化的な雰囲気をもつ賑やかな町であったと聞く。高校時代、宮之城線に乗ると汽車は薩摩永野駅で、大口へ向かう分岐と登り勾配を緩やかするためにスイッチバックをしていたことを思い出す。いまは、駅公園にその軌道が、往時を偲ぶように残されている。
宮之城を後にして、ゆったりとした山あいの国道を東に向かうと、右手の田んぼの向こうに、あぶなく見落としそうなほど控えめに、薩摩薬師寺が見えてくる。九州八十八ヶ所霊場第48番、山号は音泉山、真言のお寺だ。この境内に質素な温泉舎が本堂の手前に建っている。
わたしがここを通るのはきまって日が沈むころで、本堂と温泉舎は、杉山を背にして夕陽に照らされている。稲刈りの終わった田には、電柱の影だけが長く延びる。この時刻、一日の仕事をおえた善男善女がひとっ風呂浴びに来ていることだろう。
さっそく、玄関横にある受付窓式の番台に挨拶して入浴。
壁に大きく掲げられた温泉分析書には、アルカリ性単純温泉、泉温42.5℃とある。掛け流しである。なるほど浴槽には無色透明で無臭、40℃あるかないかのお湯があふれていた。みなさんつるつるのぬるめの湯に、ゆっくりと浸かり疲れを癒している。
二つある湯舟のひとつは、境内の井戸からひいた水風呂で18℃くらいだろうか、ほどほどの冷たさで心地よいばかりだ。蛇口からとくとくと流れ出る水を手ですくって飲むと美味い。自宅用に持参したペットボトルにこの水を汲んで帰る人も多いようだ。
温浴と冷浴を数回繰り返せば、からだは芯から暖まり、浮き世の垢も、煩悩もすっきりと落ちてしまい、どことなく身軽になったような気がする。
浴槽も、洗い場も、脱衣場もきれいに清掃されていて、清潔感がただよっているのがうれしい。
番台の皿に、柿が切っておいてあったので、湯疲れ防止に一切れいただいた。
汗を拭きふき駐車場に出ると、豆腐屋の移動販売車が、夕餉の一品にいかがと停まっていた。薬師如来様の恩恵を受けた手前今宵は精進。奮発して鹿児島産大豆の木綿豆腐と黒胡麻豆腐を買って帰ろう。冷や奴とお湯割りが待ち遠しい。
ここから伊佐市までは長いのぼり坂が続く。夕暮れ時の求名坂(ぐみょざか)である。
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薩摩薬師温泉
住 所 薩摩郡さつま町求名570
入浴料 250円
(M田)
コロナウイルスの緊急事態宣言が日本全国を対象として出されました。もちろんこちら大隅半島も例外ではありませんが、ありがたいことに現段階では、会社には通常出勤できています。
けれども問題はお休みの日。
街にもいけず、山にもいけず、妻にも愚痴の多さにも負けぬ丈夫な心を持ち、いつも静かに笑っている、こともなかなか続くものではありません。
そこで、今回は自宅の窓から外を覗いてみることにしました。
外を覗くというと刑事に追い詰められた犯罪者のようで何かしらうしろめたい感がありますが、そうなるにはそうなるだけの理由があるんです。相手に気付かれてはまずいんです。逃げちゃうんです。
カーテン越しの窓の外、ちょいとした木もあるが、手入れの行き届かない庭に、取ってつけたような小さな水場がしつらえてある。シチュエーションはこれだけです。
ある日曜日のこと。まずこの水場に現れたのはキジバト。ひとっぷろ浴びていきました。
水場は鳥たちにとっては体や羽根を清潔に保つためのいわば銭湯。
「浴来てくれます。」(byヒゲジイ:NHKダーウィンが来た)
つぎに喉カラッカラのヒヨドリが水をチュウチュウ?
くちばしを水に突っ込んでかなり大胆に吸っているように見えますが、ヒヨドリをはじめ一般的な鳥の仲間は、チュウチュウできないそうなんです。水をいったん口にためて上を向いて飲み下すといわれています。あとから来たムクドリもくちばしを水につけた後上を向いてゴックンしているようでした。
ただ、ハトの仲間はチュウチュウ吸えるみたいです。なんでかはわかりませんが。
さらに、カーテンに隠れてじっと待っていると、珍しいお客が現れました。シメです。
からだに似合わない太いくちばしと目の下の隈によって、かなり陰険な表情に見えます。硬い木の実や草の実を主食にしているスズメより少し大きめの小鳥です。はじめてこの庭に来てくれました。
この日、ほかにもいろいろな鳥や昆虫がこの水場のまわりにやってきて、隠れて覗いている変なおじさんの目を楽しませてくれました。
ぶらりもいいけど、家にいてこそわかる良さもあるものだと思うM田です。みなさま楽しみは身近にありますぞ。くれぐれも STAY HOMEで。
(M田)
令和2年3月14日 観測史上最も早く靖国神社のソメイヨシノの開花宣言が発表され、22日には満開とのお噂でした。
しかし、九州南端鹿児島だけは27日になっても開花は発表されていません。「休眠打破」がぼんやりしているのが原因だそうですが、それならこの冬はどこも暖冬だったはずで、少し納得がいかないところであります。地元では、「鹿児島気象台の標本木は遅咲きの性分らしい。」という説がまことしやかにささやかれ始めました。
ただこの春は、新型コロナウイルスの感染拡大対策で、満開となった桜の名所も花見の宴は自粛をうながされているとのこと。憂さ晴らしもままならないでしょう。
身近なソメイヨシノは並木になると美しさが何倍にもふくらむようで、西の造幣局、東の目黒川あたりがその筆頭でしょうか。
こちら大隅にも名所と呼ばれる並木がいくつかありますが満開の予想は4月初旬とのこと。薄紅色の雲のような花群を眺めながらそぞろ歩き、楽しみです。
さて、肝付の南、30分ほどドライブした海沿いに岸良というのどかな集落があります。温暖で霜もない土地柄、路地のバナナには花が咲いて実をつけており、ヘゴがすくすくと伸びている。少なからず亜熱帯に近く、休眠打破の話題とは無縁に思える気候です。
この岸良集落の山手にテコテンというユニークな名前のついた桜があり、山桜がそろそろ盛りを過ぎるころが見頃を迎えるという話はかなり前から聞いていました。しかし、実際に見たことはありません。その昔、このあたりの首領が地元でテコテンドンと呼ばれる北岳から移植したという伝説をもつ大きな桜を一度は見ておきたい。
てことで、時間を見つけて南下ドライブ30分。岸良集落に入るとすぐに「テコテン桜」の小さな看板が消火栓の横に立っています。尋ねる人影もみえないのでそのまんま里道を直進、したもののいつしか林道になっていました。5分ほど走ってもなかなかなかなか目的の木が見えてこない。この道で大丈夫かなと不安になりながらも、さらにうっそうとした混合林のガタゴト道を進むことしばし。林が途切れ明るい場所に出たとたん、林道の左下にその巨木が出現しました。
山間の段々畑に、純白の裾を四方に大きく広げどっしりと構えるその姿には圧倒的な存在感がみなぎっています。桜と言えば女性的な印象を持っていましたが、この樹の清冽な咲きっぷりからは力強い雄々しさを感じます。
林道に降り立つと、さわやかな花の香りとその花々に群れている虫たちの羽音に包まれました。林道から根もとにおりる小路をたどって樹の下へ。
20m近くある樹高をささえる幹回りは3m強、見上げれば四方30m以上に広がる枝振りのたくましさはまさに圧巻です。樹齢は二百年以上とも伝えられる太い幹の胸高あたりには注連縄、根方には榊と塩、米、酒が供えられ、ご神木として祭られているようです。
近づくと5弁の花びらは純白で、花が大きく開くにつれ花心の薄紅がしだいに濃くなっているのがわかります。山桜の仲間のように葉が先に伸びることはなく、花びらはソメイヨシノに比べるとほんの少し大きいようです。花数も多くボリュームも感じられます。
この日訪れる人はわずかでした。もしかするとこの集落のお花見以外でこの桜を見に来る人はほとんどいないのではないかと思われます。いや、地元の人も、かつてこの樹を植えた人も、そしてこの樹自身も、咲かせた花の下に多くの人に来てもらうことを望んでいないのではなかろうかという気もしてきます。ただ咲くのみ。そんな気概を発しているような大樹です。
それにしても、花のいい蜜に誘われるのでしょうか、蜂や甲虫の羽音、それから、メジロやヒヨドリのさえずりも途切れることがありません。
ほとんど訪れる人もいない山間に、真っ白な花を咲かせる孤高の桜。
このところの鬱々とした気分を一気に吹き飛ばしてくれました。
(次はどこかな M田)
森昌子が「ヒュルリー、ヒュルリララー」と情感をこめて歌った「越冬つばめ」。テレビの前で裏声を絞り出しながら口ずさんだムキも多いことでしょう。季節にそむいたために冬の寒さに凍えてしまいそうなはかなさがせつせつと伝わってきて、思わず「大丈夫ですかぁっ?」と声をかけたくなるほどです。
ツバメは、春先3月半ばころに南の国から日本列島に渡ってきて、夏中に子育てをし、秋にはまた南の国へ帰っていく夏鳥です。おおかたは冬を待たずに姿を見せなくなるのですが、本州以南では少数が越冬するそうです。こちら肝付、鹿屋あたりでも真冬に見かけるようになりました。しかしながら、この越冬ツバメたちがどこをねぐらにしているのかは、M田研究不足で知りませんでした。
2月の半ば頃、いつものように西平石油店高山スタンドで会社の車に給油をお願いしていると、メンテナンスピットに飛び入るツバメを何羽か見かけました。「もう、渡ってきたのかな」とも思いましたが、時季としては早すぎます。店のスタッフさんに聞いてみると何年か前から数十羽がピットで冬を越すようになり、ここ2年は150羽を超えているとのこと。なんと、いつも来ているガソリンスタンドが越冬ツバメたちのねぐらのひとつだったというわけです。
ツバメは、昔から農業では害虫を餌とすることから益鳥として大事にされてきましたが、現在では糞の問題とかで、軒先に営巣されるのを嫌がるひとも多いですし、そもそもこのお仕事では車を汚したりすることもあるはずです。それなのに追い出さないのはなーんでか。実はここの社長の深い思い入れに理由がありました。
曰く、「ここに来る一羽いちわに名前を付けたいくらいツバメが大好きなのよ。だから鳩は追っ払ってもツバメは大切に扱うように言っている。天皇陛下もお召しになる最高の礼服を燕尾服というようにとても縁起の良い鳥。迷惑などとは全く思っていない。数が増えてくれるのをとても楽しみしている。」とのこと。恐れ入りました。
ツバメは人に最も近いところに営巣する鳥です。それはかれらの天敵であるカラスから雛を守るためだと言われています。それにしても、このお店では昼間も店員さんたちが働いており、さらには、自動車の出入りも激しいピットです。社長もさることながら、従業員のみなさんも温かく見守っているからこそ、何年も前から居付き、年を経るたびに数を増やしたのだろうと思います。
「夕方になれば、帰ってくるから待ってれば。」と店長さん。日没後、ツバメたちは餌場からこの店の上空に集まって旋回を繰り返し、薄暗くなる6時過ぎには小集団ごとにねぐらに入ってくると言う。見上げれば、エネオスの看板のうえには50羽を超えるツバメが舞っていました。
落ち着いた頃ピットの中をのぞくと、蛍光灯の笠のうえや壁に40箇近い巣が作られており、その中や鉄骨の上あたりに200羽を超えるツバメたちが肩を寄せ合っています。夜にはシャッターがおろされて翌朝まで、凍えるような冷たい風も、恐ろしい猫も入ってはきません。まさに、ここは越冬ツバメのパラダイスなのです。
このブログが配信される頃、鹿児島には南の国から越冬しなかったツバメたちが渡ってきています。その頃から秋まで、このパラダイスは入れ替わり立ち替わりの賑やかな様相を見せてくれることでしょう。
ちなみに、ツバメのさえずりは、力強い声で「虫食って、土食って、渋―い」と聞きなし(※)されるそうです。
(次こそ花かな M田)
(※)聞きなし・・・鳥のさえずりを意味のある人の言葉やフレーズに当てはめて憶えやすくしたもの
ご協力:株式会社鹿屋西平石油店様
参考文献:平凡社『日本の野鳥650』
偕成社『ツバメ観察事典』
新年のご挨拶を交わしてから早1ヶ月。寒中お見舞い申し上げます。
気象庁からは全国的に暖冬傾向にあると予報が出されましたが、いかがでしたか?
こちら南九州大隅では、特有の黒土の畑が真っ白な霜に覆われる朝もあれば、外水道のバケツには薄い氷が張る日もあるにはありましたが、いつもと比べれば冬らしい日の少ないお正月でした。
そんな中、1月25日旧暦での元旦を迎えたとたん、鹿児島県内では南風が吹いて最高気温が20℃近くまで上昇。外での作業は汗ばむくらいで、上着を脱いでTシャツ一枚の人もおりました。さらに、26日の夜から翌日の明け方にかけては、季節外れの暴風雨が吹き荒れ、フェリーや新幹線など交通機関への支障も出るほどでした。
ほんとの意味で初春を迎え、その陽気に応えるように、庭の梅もほころび始めています。
やはり私たちの暮らしは、旧暦(太陰太陽暦)で日を追う方が何かとしっくりくるようで、花や木の開花や成長、昆虫や鳥などの活動・移動時期などはなおさらの感があります。27日未明の暴風雨は、季節外れではなくまさに「春の嵐」と呼ぶにふさわしいものだったのでしょう。
そんなうれしい春になったので、とある日曜日、家人と野に出てみようということになりました。
まずは、日当たりの良い畑の土手。ここは毎年、蕗のとうが一番早く顔を出してくれます。今年も丸くふっくらとした上物を期待通り収穫できました。独特の強い香りが早春を実感させてくれます。
水源地近くの湿地には、柔らかくたけの長い芹が見つかりました。ゴム長を履いて、温んだ水から細い茎をすっと伸ばした新芽を根ごと抜き取ります。緑の葉と白く細い根。すっきりとした感じが食欲をそそるのであります。
最後に、「まだ出てるはずないよ」と訝しむ家人をよそに、いつもの竹山へ。すりすり足で探索していると、ちっちゃいのがころころと転がり出て、そのすぐ近くに手のひらサイズのりっぱな筍を発見!思わずどや顔。ここは慎重に掘り出しました。
その夜、とれたての筍と蕗のとうは天ぷらに、芹はかき揚げにすることにしました。前割りした焼酎「大海」には燗をつけて、準備万端。揚げたてを放りこむとほろ苦さと野の香りが口いっぱいに広がり、初ものをいただく喜びに思わず「わっはっは」と笑いたくなるのです。そして、一献。
(次はあの花か。M田)
前回、ここ大隅の秋は近頃なくなったようだ、というようなことを書いてしまった気がします。しかしながら、四季の国日本で秋が削除される現象が起こってはいけないはずで、11月も末を迎えた頃、それを証明できるものはないのか?コスモス畑とかバラ園とか何となく「秋っぽいなぁ」とは思わされるけれども、どうも印象的すぎて弱い。「大隅の秋はこれです。」と日本中に胸を張って言えるようなものはないのだろうか。と探していました。
そんな思いを知ってか知らずか、大海酒造株式会社 営業の平後園さんから「今年の焼酎の仕込みもほぼ終わりました。工場見学できます。」とのお声かけをいただきました。
大海酒造さんは鹿屋市にあり、地元で収穫されるさつま芋を原料に美味しい焼酎を醸しているメーカーです。ちなみに、M田とその仲間たちの血中には、ほぼ毎日、ここの焼酎が注ぎ込まれている状況なのであります。
9月はじめから、1日あたり約20トン、地元の契約農家さんが春から丹精込めて作った芋が持ち込まれるそうです。原料の芋はここから洗い場を経て、不良部分を切り取られ、醸造の工程へと流れていくのでしょう。3ヶ月にわたって休む間もなく受入に動いていたこのホッパーも、仕込みが終わった今、きれいに掃除され静かに佇んでいるようでした。
二次もろみから蒸留の工程も見せてもらいました。工場の中は、もろみが発酵する音もおとなしく修まっていて、銀色の蒸留器から蒸気が白く上がっており、もろみや原酒のかおりが濃く淡く漂っていました。
原酒は、それぞれの旨み成分を残すように濾過され貯蔵タンクに納め、寝かされたあと、杜氏の味覚の基準に達したところで、割り水をして出荷という段取りとのこと。新焼酎が11月に入ってからになるのもこれで納得。今年もいい焼酎が胃の腑に染みるわけですなぁ。
なぜ、11月の末に、仕込み芋の搬入が終わるのか?
その疑問に平後園さんがあっけカランと答えてくれました。
「それは霜が降り始めるから~!」(芋は霜で凍ると使えなくなるそうです。)
ボーッと生きていたことにはっきりと気づかされました。
ここが秋と冬の境目なのです。9、10、11月は大隅の秋だった。これからが冬なのだと。
これからますます焼酎が美味しくなる季節。蔵人のお話しによると、熱々のお湯で割るよりも、好みで先割りした冷や焼酎に燗をつける方が、香りが飛ぶことがなくまろやかで美味しいそうですよ。
大海酒造の皆様、お忙しいところ、ありがとうございました。お陰さまで、実感できる秋が見つかりました。
(次ははずせない肴かな。 M田)
立冬を迎えると、ここ肝付の最低気温は11℃前後になってきました。このあたりの山肌の木々は紅葉する前に茶色く散ってしまうものが多いようで、南国の少し残念なところです。
そんな山あいの風景にかこまれて、11月10日川上地区の産地直送物産販売所「やまびこ館」で新米祭りが催されるという看板が目にとまりました。地元の農家さんたちが作る季節の旬の野菜やくだものを提供してくれるうれしいお店です。新米祭りでは、地区の人が総出でお米の他、蜜柑や野菜、地元で山太郎がにと呼ばれるモクズガニまでお手頃価格で販売されています。
まつりの呼び物の新米「川上清流米」は、この地区の山から冷たい水を、大きな機械が入らない小さな田んぼに引きいれ、ほとんど手作業で作り上げる美味しいお米です。5Kg入りで用意されていますが、午前中には売り切れてしまうほどの人気があります。
「川上清流米」の「清流」には、山から引く冷水に加え、もう一つ、この地区自慢の滝にも由来するのではないのかとの説(M田推測)もあります。この販売所のすぐ北に川上神社という霊験あらたかなりと噂の高いお社が鎮座されており、その社殿の裏に大きくはありませんが、見事な瀑布と蒼い滝壺を持つ「片野の滝」があるのです。
神社から滝まで続く遊歩道は、地元の皆さんが奉仕作業で整備されており、木の階段や手摺りなど歩く人への心配りを感じさせる、歩きやすい歩道です。神社の鳥居から200mほどで川面に下りることができ、オオタニワタリが自生している大木も左右に。大隅半島の植生の豊かさを実感できます。
明るい冬の木漏れ日を浴びながら、河原でこの滝を眺めつつ、新米で炊いたおにぎりを頬張ってみたいと思うのはM田ばかりではないだろうなと思うところです。
(次は冬真っ盛りだな M田)
10月に入りました。しかし、南国鹿児島はさすがに南国だけあって、昼間は熱中症注意報で「要警戒」が呼びかけられるほどの暑さです。この地方の住人たちから、
A:「こんごろ、あっがねごっなったなぁ。はい、なっ、いっきふいじゃ。」、
B:「まこっじゃ」
C:「じゃっど、じゃっど」
という四季の国NIPPONに暮らす者とは思えない会話が聞こえてくるもの無理からぬことかもしれません。(和訳はページ下。)
ここ肝付で、初秋を体感させてくれるのは、夕方暮れかかる頃に吹く風くらいでしょうか。ビール片手に庭に出て、夕月を見上げながら、涼しい空気に包まれるのいいものです。
天気のいい夕方は、佐藤春夫先生ではないけれど、七輪でも出して秋刀魚など焼いてみようかという気分になってしまう。お隣に気をつかうこともない田舎ならではの気軽さです。
めんどくさがる家人を、おれが焼くからとなだめすかして、秋刀魚やら地元の赤えびやら茸やらを買い出しにやり、自分は七輪のほこりを払って庭に出し、炭をおこして、準備OK。
団扇でぱたぱた七輪に風をやりながら、火相を見ていると、やがてものが届く。まだ明るいうちに焼き始めました。
我が家で愛用の七輪は防油、防水仕様の黒塗り。丈夫なつくりでもう20年は使っているかもしれません。七輪の上に乗っている鋳物の輪っかは「はちりん」と呼ばれています。七の上は八。だからでしょうか?炭火との距離を調節するものです。
火力は、下に見える通風口を風上にむけて、あるいはここから団扇などで風を送って調節する仕組みになっています。脂の少ないものから乗せていく方が煙たくなくていいかもしれません。焼けた順に、はふはふっと口に放りいれて、ビールで流しこめば、それで至福が訪れるのです。厚揚げだのごぼ天だのを乗せる頃には、ビールから焼酎に選手交代しております。最後に秋刀魚の登場で七輪は赤く燃え上がるのでありました。
「あわれ秋風よ」などどこ吹く風。今年も秋刀魚を大変美味しくいただきました。
「やはり秋刀魚は肝付にかぎる」などなどと。
(次は体力を使うぞM田)
A:「こんごろ、あっがねごっなったなぁ。はい、なっ、いっきふいじゃ。」、
B:「まこっじゃ」
C:「じゃっど、じゃっど」
和訳 A:「近頃は、秋がなくなりましたね。春、夏、一気に冬です。」
B:「ほんとですね。」
C:「そうです。そうです。」
処暑も過ぎ南国大隅でも、朝夕は幾分過ごしやすくなりました。近くのスーパーへの買い物も、「ちょいと自転車で行ってみるか。」などという気分にもなってしまうくらいの肌持ち。歩きにはまだまだ暑いけど、自転車に乗って走る風の涼しさはなかなかいいものです。手軽さと、購入費用を除けば経費は0というのも、自動車にはない魅力かもしれません。
鹿児島県では2020年、東京オリンピックが終わった後に国体が開催されます。そして自転車競技は、わが肝付町を通過するコースが設定されており、リハーサル大会を9月8日に実施、しかも時間制限付きの全面通行止めでやるのだ!とのお布令です。
走路を俯瞰してみると、鹿屋市から肝付町そして錦江町まで、つまり北隣から南隣を繋ぐ位置に置かれているわけで、町内会の回覧板なら、わざわざこちらに回り道してくれてありがとね、と軽くお礼でも言いたくなりそうなコース取りです。通常なら、鹿屋市内から西へ直接錦江湾沿いに抜けるコースを選ぶのが順当です。では、なぜ主催者は「わざわざ回り道」を選択したのか。なにか底知れない動機があるのではないか?
その動機を究明したい一心で、そしてちょっと休みの時間を持てあましていたので、犯人の否、主催者の残した地図でいうエリア1からエリア2を自転車に乗って走ってみることにしました。
まずは出発点鹿屋市役所へ向かいますが、肝付町を出たとたんに土砂降りの雨に襲われ、続行か断念か迷いました。が、カッパを持ってきていたので、これを着用し続行(無謀という声もある)、40分ほどで到着。
国体開催の垂れ幕が真ん中に燃える赤で設置され、肝付半島の中心都市「鹿屋市」が来年の国体で担うであろう役割をしっかりと表しているようです。
でも、ここがスタートではなく、商店街を通り北田交差点までみんなでパレードするのだそう。当日商店街に賑やかな応援ができる人通りがあることを祈りながらとぼとぼと走りました。
「北田交差点」。リナシティかのや前あたりがスタートラインになるのでしょう。ここは鹿屋シラス台地の底になります。百台を超える自転車がいっせいに商店街を走り抜け、寿台地への坂をあがる姿は壮観でしょう。
寿地区・笠野地区のアーバンヒルズ地帯を東へ。肝付町境まで。コース予定時間は、スタート後10分と車並みです。(M田タイム:30分)
ここから左折して、台地を下り肝付町内へ。
エリア1からエリア2の途中まで(回り道部分)、川に沿った田んぼと、緩い坂を上ったシラス台地畑の風景が何度もくりかえされる、いわゆる鹿児島の里の風景が続くのです。日頃自動車ではさほど感じない台地と谷地とのアップダウンが自転車を漕ぐことで実感させられます。登りのきつさと、下りの開放感はきっとやみつきになることでしょう。
大姶良町横尾岳峠への長い登りを越えると、錦江湾が見えてきます。急な坂を海岸まで下りきると浜田交差点です。コース予定時間はスタートから50分。(M田170分)
曇りの日、錦江湾の水墨画にも似た風景を右手に見ながら、国道269号線を南下します。
道路はカルデラの縁を通り、街境ごとに何回かアップダウンを繰り返しながら錦江町に。実コースでは栄町交差点を左折し、錦江町田代地区(旧田代町)へ一気に高低差200mを駆け上がりますが、M田の体力では無理と諦めました。コース予定時間はスタートから90分。(M田240分)。これから山に登って走る国体選手はやはりもの凄い人たちです。大会記録はもっと早いのでしょう。
へとへとのM田は、この交差点を直進し、南大隅町役場をめざし、20分後に到着しました。
さて、自転車を漕いでみて分かりました。
「わざわざ回り道」のコースを設定したのは、「全国から訪れる選手たちに鹿児島の里のようすを実感させたかったから~」ではないでしょうか。
自転車の気持ちよさを改めて感じた一日になりました。
(次は楽に行こう。M田)
7月24日頃、気象庁は九州南部の梅雨明けを発表しました。確か北陸当たりまで同じ頃の梅雨明け宣言だったようです。今年の梅雨は長かった、雨も多かった、だから涼しかった。
思えばあの頃はよかった。いまはただ、真っ赤に燃える太陽に夏を乗り切る力を試されている毎日です。
さて、我が町肝付には、あの初代「はやぶさ」を打ち上げたJAXA内之浦宇宙空間観測所があります。ここで暮らしている町民は「全国的に見ても、宇宙に一番近か町の筆頭と威張っても良かくらいだ、種子島とは歴史が違う。」と密かに誇らしく思っている風であります。たとえば、鹿屋市から肝付町への入り口には、イプシロンロケットの実物大模型がトーテムポールのように立って訪問者を見下ろしていますし、内之浦地区に入るとその風はさらに強くなり、小学校の大外壁に宇宙遊泳する子供たちの姿が描かれていたり、ランチの美味しい定食屋さんは「ニューロケット」だったりと、ロケット関連満載の町並みになっているのです。
とある休日、熱中症対策として塩分補給のため、あの「まつわきラーメン」を食べに行きました。旧内之浦町民のソウルフードを美味しくいただき、夏の海をながめながら南にドライブ。橋の親柱の形状が気になっていたのですが、いつもスルーしていました。この日初めてじっくり見てみました。
なんと、観測所で打ち上げた人工衛星をモデルにした親柱でした。大きな花崗岩を成形したうえに、英語・カタカナ・日本語訳をひらがなで橋名を刻むという念の入れようです。。街に一番近い橋がヴィーナス(金星)、その次はマーズ(火星)。
この二つのモデルは同じ衛星のようです。火星がちょっと斜に構えてますが。
次はと見ると、
ジュピター(木星)です。この大胆なデザインはドライバーの目を釘付けにしそうです。
あれあれ、もしかして太陽に近い方から惑星を並べてあるところでしょうか?水星橋はまだ未完成なのですね。地球は、今いるから飛ばしたと。では次は・・・
土星でした。この橋からは、宇宙空間観測所自慢のパラボラアンテナも見えてきます。
銀河系の外へと広がってきました。最後はやはり天王星橋(ユウラナス)です。
5つの橋の名に、街を太陽に見立て惑星を順にならべるとは、感服致しました。
いつも何気なく通り過ぎている道沿いに、街のほこりや思い入れが込められていることを改めて知ることができました。今夜はジュピターでも聞きながら、はやぶさ2に思いを馳せてみましょう。
(次は、山も良いかもね。 M田)
※参考 肝付町ホームページ
7月に入りました。梅雨前線は日本列島の真上を横切って、局地的な大雨など活発な活動を続けています。そんな季節の中で、志布志湾沿岸の浜辺で繁殖を始めたコアジサシたち。その後の報告をすることにします。
5月末、コアジサシ100羽ほどが志布志湾に注ぐ河口近くの砂浜に飛来し、6月初旬には抱卵を確認することができました。その後、コロニーの中の鳥たちは少しずつ種類と数を増やし、6月10日過ぎには、ベニアジサシという岩礁で繁殖するといわれている種類も100羽を越えて加わり、卵を抱き始めたのです。このコロニーで少なくとも4種類200羽以上をカウントしました。
コアジサシは、産卵後20日ほどで雛が孵るとのことです。その日を楽しみに待つことに。
そして、抱卵を確認してから、ちょうど3週間たった夕方、見守っている方たちの一人から雛の写真が送られてきました。早速親鳥が雛に餌を与えている姿もとらえられています。これから次から次に孵化していく時期に入るのでしょう。
ところが、野生の厳しさは、人の手の届かないところにあるようです。
2日後の朝、コロニーが天敵のタヌキかイタチのなかまに襲われて、卵も雛も、親たちすらも姿を見ることができなくなってしまいました。残っていたのは、薄く掘られただけの砂の巣ばかりでした。
この志布志湾岸のなかで、営巣する場所をほかに見つけることができるのか、営巣しても雨や波、そして外敵から卵や雛を守り育てることができるのか。5000kmもの旅をしてこの海岸を選んだ鳥たちに、ここでもう一度子育てを見せてもらいたいものです。
季節は梅雨の真っ只中。こちら大隅半島では、紫陽花の盛りは過ぎ、蓮の花が開き始めました。鹿屋市串良支所の大賀蓮の蕾も雨に似合います。
(次回は悲しい思いはしたくない。 M田)
気象庁HPの「令和元年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」によると5月31日ごろ、昨年より5日早く、南九州が梅雨入りしたようです。たしかにその日以降曇りか雨、じっとりとした気候になっています。あれほどわがもの顔で青空を泳いでいた鯉のぼりは姿を消し、紫陽花が静かに咲いているのがふさわしい季節になりました。
これから夏にかけて、いろいろな夏鳥たちも繁殖の時季を迎えているようです。
2017年にこのブログで紹介した、コアジサシ(小鯵刺)もはるばる東アジアからオセアニアにかけての地域から5000km近くの旅をして、志布志湾岸にやってきてくれました。今年は、5月末ごろからコロニーを形成し、抱卵を始めており、6月2日現在約100羽をカウントしました。
現在コアジサシは、鹿児島県版レッドリストでは絶滅危惧種Ⅰ類(絶滅の危機に瀕している種)に、位置づけされており、鹿児島県内での繁殖は確認できないとされている鳥です。
・・これまでのコアジサシブログ・・
参照①:2016年4月ぶらり旅(番外編)「帰っておいでコアジサシ ボランティア活動 in 志布志」
参照②:2017年8月ぶらり旅(番外編)「コアジサシが帰ってきました!」
参照③:2017年9月ぶらり旅(番外編)「コアジサシが帰ってきました!(2)」
ペアが成立すると、砂地に簡単なくぼみを作り、メスは1~3個ほどの卵を産みます。そして、雄雌交代で20日ほど抱卵したあと、雛がかえり、子育てが始まるのです。彼らは主に海の小魚を餌としており、求愛のときも子育てのときも、海に真っ逆さまにダイビングして小魚を取ってきては、パートナーや雛に与えている様子を観察することができます。
折りしも梅雨の季節と抱卵の期間が重なりますが、卵をできるだけ雨に濡らさないよう交代を繰り返すひたむきな姿に、しみじみとした感動を覚えずにはいられません。
ただ、砂地には、雨に削られた跡が生々しく残っており、これからの大雨でさらに広く深く浸食されるのは避けられないことでしょう。また、夏に向けて、大風や大波が砂浜を襲います。自然の影響を強く受ける中での子育て。環境省が実施した調査によると雛が飛べるようになる割合は例年1割にも満たない場合が多いそうです。
また、営巣地は、釣り人やレジャーで訪れる人たちが簡単に入ることができる場所で、入ってきた人に親鳥たちが驚いて、子育てを放棄してしまう恐れもあります。
降りしきる雨に翼を濡らしながら、雛がかえるまでひたすら温めつづける親鳥たちを、せめて人が脅かさないように静かに見守ることができればと思いました。
(次もここから報告できるのか M田)
参考文献:環境省「コアジサシ繁殖地の保全・配慮指針」
4月初旬、里の桜が散り終わるころ、肝付町国見山系では、アケボノツツジが開花の時期を迎えます。薄いピンクのその花に魅了されている山好きな人々は数多いようで、町観光協会が「アケボノツツジ群落お花見ツアー」の募集を開始したところ、たちまち定員に達したとのお噂でした。ただ、このツツジの開花時期は気象条件により前後するため予想は難しく、このツアーがドンピシャだったかは不詳です。
4月下旬の休日、アケボノの咲き残りでもあればという下心で、家人と甫与志岳に登ってみました。ポピュラーな姫門登山口から。案内看板には山頂まで60分の表示があります。
ここからの登山道は、よく整備されており、迷うような心配はありません。ただ、尾根道に出るまでは結構急な登りが何箇所かあり、呑みすぎ+運動不足+久々の登山者にとっては息が上がることしきりでした。
アケボノツツジばかりが花ではないぞ、登りながらそこに咲く花々を撮影すると称してしばしば足を止め、息を整えながらの山行となりました。それで今回は出会った花たちを紹介することにします。
登山道の湿った林床に、透明感のある白色をしたギンリョウソウ(銀竜草)。暗い山道に透けるような白さでうつむいて立つ姿から、ユウレイタケとも呼ばれるそうですが、見つけるとなぜかうれしくなる花のひとつです。
フデリンドウ(筆竜胆)。少し日当たりのよい斜面に一輪だけ咲いていました。高さは5~6cm。とても小さな春に咲くリンドウです。落ち葉をどかして撮影。
ヤマルリソウ(山瑠璃草)。花の直径は1cmあまり。花色が薄桃色から瑠璃色に変化するそうです。道脇に何箇所か群生していました。
甫与志岳山頂から国見山方向へしばらく歩いたところに、咲き始めのミツバツツジ(三葉躑躅)を一株見つけました。ゴールデンウイークに見ごろを迎えるツツジです。アケボノツツジは見られなかったけれど、こちらも山に登らないと出会えない花です。
息も切れ切れでしたが、心地よい風の中、楽しいぶらりとなりました。
(次は海が呼んでいるか。M田)
啓蟄が過ぎました。まちを囲む山を見回すと、あちらこちらに白い山桜が咲き、深まる春を実感させてくれます。
さて、今年正月、Hさんにお供して、波見、唐仁地区を歩いて中世のあたりを旅し、歴女ならぬ歴爺の仲間に入ってしまいました。この地をはぐくんできた歴史やその成り立ちを、これまで何も知らなかったことを少し反省しながら、ぶらりを続けております。
前回までの中世から一気に、4~5世紀・古墳時代に遡ります。しかし、場所は前回と同じ東串良町唐仁地区。ここには国指定史跡「唐仁古墳群」として、大小130基あまりの古墳が集中しているのです。その中心に位置し、最大規模を誇るのが大塚神社として祭られている「第1号古墳」(大塚古墳)です。
鳥居のうしろにある森が、長径が185mほどもある県下最大、九州でも3番目に大きな前方後円墳なのです。後円部の高さは現在11mほど、建造時はそれ以上あったといわれています。
海抜5~7mの平地の上に、これほど大きな規模のお墓。このことは、その時代に一大土木事業を実施できる絶大な経済力と支配力を持った一族が存在したことの証でしょう。
などと思いを馳せながら鳥居をくぐり、まずは、古墳の周囲(堀だったのか)をぐるりと歩いてみました。
そこは、大きく枝を張り出した楠や椎の巨木がしっかりと根を張って、隙間なく杜(もり)を形作っています。そして、その林床はみごとに清掃されており、地域の方がたのこの神社(古墳)に対する畏敬の思いが伝わってきます。
参道に戻り、真北に進むと後円部に鎮座する社殿へ登る階段が見えてきます。
この階段がいい。緑の苔に覆われた石段は、長い歴史の中で擦り減り、その踏みしろはわずか15cmと驚くほど狭いのです。これは足元をしっかり見ながらゆっくりと参詣するための仕掛けなのかなと思わずにはいられません。
社殿からは真南に唐仁の目抜き通りを経て、国見連山を望むことができました。その時代海抜13m程度といえば、肝属平野に視界を遮るものは何もなく、この地全方位を見回せる場所であったことでしょう。もちろん、ここには特別な人しか登れなかったはずです。
ここに建つ正月飾りの注連縄は社殿を背にしていることに気づき、何か特別の理由があるのではないかなどと、歴史の妄想にふけってしまうのであります。
今回のお供でこの地域の歴史に触れることができ、旧友Hさんに感謝しつつ、機会があればもっと歴史の想像にふけってもいいなと思いつつ。
(次は山へ行こうか?M田)
2月5日は旧暦の元旦。こちら大隅では梅や緋寒桜が丁度満開となり、さわやかな香りを漂わせています。初春と呼ぶにふさわしい季節を迎えました。
先月Hさんに誘われて、肝付町波見を散策しながら、中世から藩政時代にかけて、この地に日本有数の財力を有する人々が実在していたことを知りました。そして、その人たちは、志布志湾に注ぐ肝属川河口を本拠地として、海を渡り、中国大陸や南方諸島との交易を活発におこなっていたのです。
Hさんが、「今の行政区域が歴史の舞台だったわけがなく、肝属川両岸に広かる地域、さらには志布志湾岸を一帯としてとらえるべき。まずは、対岸の東串良柏原、唐仁あたりに行ってみよう。」と言うので、有明大橋を渡って東串良町に入り、柏原を経て、少し上流に位置する唐仁にやってきました。道のりにして約4Km。
いつもはここは、田んぼの中に広がっているごく普通の集落として通過しています。この日はじめて、むらの真ん中を南北に伸びている道を、車から降りて歩いてみました。
人が設計して造ったに違いないまっすぐな道は、ブロック塀とコンクリート側溝にはさまれています。一見近頃作られた集落道路に見えますが、500mほどの間、十字路はなく左右からの丁字路になっており、突き当たりの壁には文字も判別できないほど風化した「石敢當」(せっかんとう)が丁字路の数だけひっそりと建っていて、この道がただ者ではないことを証しているようです。近年整備はされたものの、この小路の歴史はどれほどなのでしょうか。
Hさんによると「石敢當」は突き当たりの家に魔物が入らないようにするための魔よけの石碑で、中国福建省あたりから発祥し、沖縄、鹿児島に伝わってきたのだそうです。やはり、ここも海を越えて交易をしてきた人々が実在していたのでしょう。あるいは、唐仁と言う名の示すように中国大陸からやってきたり、連れてこられたりした人々が住んでいただろうという推測はできるのかもしれません。(Hさんはそのように確信しているようですが。)
東串良町郷土史を読んでみると、確かにこの地にも、中世から近世にかけて、波見にも劣らない財力をもった幾つかの家系があったことが記されており、今も末裔の方々が居住されているようです。
何気なく通り過ぎている村や小路に、現状では想像できないような人々の暮らしぶりや、豪快な経済活動があったことを、てくてく歩くことで垣間見ることができました。
川を背に北に歩いて大塚神社に向かい歴史の旅のお供は続きます。
(はまったか?M田)
新年明けましておめでとうございます。
平成最後のお正月は、南国の冬としても暖かく穏やかでした。
みなさまのところは如何だったでしょうか。
昨年の暮れ、高校時代からの友人で歴史に深い造詣を持つHさんから、1月はじめに高山、東串良のあたりを見に行きたいので案内してくれないかとの依頼がありました。今年、弊社の年始休暇には、ゆとりがあったので、一日丸まるお供することにしました。
「時代をさかのぼって、古代4~7世紀あたりと、中世14~17世紀のころを現地で想像したい。」というのが、Hさんの来訪目的のひとつ。志布志湾に面する「波見」と「下伊倉」、「唐仁」を、おじさん二人でじっくり歩いてみました。
まずは、波見へ。高山郷土誌(平成9年発行)には、波見港が、柏原港ととともに大隅半島における海上交通の要所であり、中世においては、日本人の海外雄飛への根拠地あり貿易港であったこと(室町時代は和寇として)。江戸時代は密貿易港として琉球を通じて中国や南方からの物資を交易し島津藩の財政を潤し、外来文化の玄関口ともなったこと。豪商重(しげ)家は室町時代からこの地で交易を行い、幕末においては全国長者番付で西の関脇であったこと。などが記されています。
波見浦の屋敷跡は、道沿いに堅牢な長い石積みが続いており、数百年の歴史と、その豊かさが実感として伝わってきます。海外から訪れた人々や、商人、船人、船を建造・修理する人々などのほか、番所に勤める役人たちも、この石垣の道を往来したことを想像すると、当時の賑わいにわくわくしてきます。
いくつか残る倉の窓上のひとつには恵比寿さんが満面の笑顔を浮かべています。この浦町に並々ならぬ冨が集められたことを象徴しているようです。はるか中国や南方からの物資はこの倉に入り、国内のあちこちに財として伝わっていったことでしょう。
さらに、海沿いの通りに歩くと権現山を背に、海に向かって「戸柱神社」が鎮座されています。この神社の石造りの鳥居には、「天保5年8月吉日」(1834年)の文字が刻まれ、交易に携わっていた商人たちの財力がどれほどだったかを示しているようです。
ここの境内から権現山へ登る歩道が整備されているようです。志布志湾を見守ると同時に、山上では航行の監視も行われていたことでしょう。この後、車で権現山に登り、志布志湾岸、下伊倉、唐仁との位置関係を俯瞰して、東串良町へと向かいました。
(続くのか M田)
師走に入りました。上旬は、散歩をすると汗ばむほどの記録的な暖かさでしたが、大雪を過ぎた今日この頃、やっといつもの冬にもどったようです。冬といえばコタツ、コタツといえば宿題しながら聞いていた深夜放送。
我が家には、M田が中学1年の冬に、お年玉と親にねだって買ってもらったラジオが現役で音を出しています。その名も高き「ナショナル2000GXワールドボーイ」。これで「つるこう」とか「ちんぺい」とか「なかじま」とか寝ずに聞いたものでした。もう50年近く、苦楽をともにしていますが、文句ひとついわず付いてきてくれました。まことに見上げたものです。
このラジオから初めてFMバンドを聞いたときは、その音質にびっくりしたのを覚えています。今も少し錆びたアンテナで電波をしっかり拾って放送を聞かせてくれています。
家人がもっぱら選局しているのは「FMきもつき」。町内に基地をもつコミュニティFM局で、弊社の本社工場のすぐ近くの高台に建つ「勤労青少年ホーム」の一室にスタジオを構えています。
朱の鳥居をくぐり、神社の参道を登るというちょいと奇妙な感じの場に建てられている「勤労青少年ホーム」ですが、ここで肝付町の青年たちがいろいろなドラマを繰り広げてきたと噂されています。
このスタジオでは週に3本ほどの収録が行われているそうで、今日は「じじ放談」という、文字通り60歳を超えるおじさんたちが、テーマも決めずに好きなことを話題になるようになるという構成で番組収録の最中でした。とても楽しそうに会話がはずんでいます。
このスタジオは、災害時の停電の中でも3日間放送を継続できるよう非常用バッテリーが備え付けてあるそうです。高台の建物を選んだのもそのような目的があったのでしょう。
ここから肝付町全体に放送を届けるために、国見山、荒西山など3中継局が設置されています。肝付町は国見連山という700mを超える山壁で高山と内之浦が隔てられているので、電波を飛ばすのにもご苦労があるようです。
実はこの放送局は、鹿屋市と志布志市、そして肝付町の2市1町のコミュニティFM局がネットワークを組んで、共同の情報を送れるシステムを構築しているのですが、これは全国でも類を見ない仕組みだということで、総務省もびっくりだったそうです。
もしもの時は補完しあって、さまざまな情報を発信していけるのは、住民にとって、災害への備えとして大いに貢献するものと思われます。
開局10年を超え、小さなアンテナは、今後さらに身近で心強い情報を町民に提供してくれるはずです。
(次は新年 何を見ようかM田)
暦のうえでは立冬を迎えましたが、南国大隅は、最高気温は20℃を上回り、最低気温は10℃あたり。日中は汗ばむ陽気が続いており、服装は長袖シャツに薄手のベストという取り合わせで心地よく過ごしています。
この季節、当地に広がる照葉樹林帯では、樹々を見上げれば、むかご、あけび、こくわ、どんぐりなどがたわわに実をつけ、林床にはきのこの仲間が顔を覗かせているはずです。夏場はすっかり眠っていたはずの狩猟採集民の血が沸々と騒ぎはじめ、山へ山へと視線が向いてしまうのであります。
日曜日の朝、ドリカムの「晴れたらいいね」(26年前のNHK朝ドラ『ひらり』テーマ曲)を口ずさみながら、庭の手入れをしていると、若い友人から「今年は、“ばかまつたけ”が豊作だそうな!」という夢のような情報が飛び込んできました。まつたけの前に「ばか」とは実にひどいネーミングですが、赤松林ではなく広葉樹林にはえるきのこで、香りは弱いながらも姿はれっきとしたまつたけの仲間なのです。20年ほど前この辺りの山中で何本か見つけて、大喜びしたことを思い出しました。
早速、こりゃ山へ行こうと言うことになり、自宅から20分、国見トンネル上部の林道へとドライブ。この辺りは沢沿いに急峻な谷が照葉樹で覆われており、採集の楽しみにあふれています。
路側スペースに車を置き、藪を分け、沢を渡るとすぐに「万滝」の看板が見つかりました。
地元で「万滝」と呼ばれ親しまれている滝へ通じる沢沿いの小径で探索しようという魂胆。
台風の風雨で岩崩れがおきて、上に根を張っていた大きな樹木が横倒しになっています。
倒木にびっしりと生えている白いきのこ。ぬめりたけもどきです。弱々しい姿ですが、火を通すと実に良い食感になり、すき焼きに入れるととても美味しくいただけます。
樫の木の根元にも。
ほうき茸の仲間を発見。菌のひだ先がネズミの足のように見えることから「ねずみ茸」とも呼ばれています。鹿児島では「ねったけ」、煮付けや煮染めにして食べられています。ふっくらとしたおなかのところが美味しいきのこです。
枯れ落ちた枝には、野生の椎茸が良い感じで広がっています。よく似ている有毒の「つきよたけ」を誤食し、中毒する事故が絶えません。注意しましょう。
きのこを探して、下ばかり見ていると、沢の音が大きく聞こえてきました。入り口から上流に300mほども歩いたでしょうか。小径がなくなり沢を登ると、目のまえに大きな岩肌を滑り落ちる万滝が見えてきます。
落差は30mと言われていますが、近づくともっと高いように感じます。花崗岩の一枚岩を三段に流れ落ちる滝は壮観。秋の空に白い流れが良く映えていました。地味だけどしみじみとした風格を感じる滝です。冬には凍ることもあるという万滝。それも一度見に来たいと思いました。
きのこも採れたし、滝を見ながらコーヒーを一杯。ごちそうさま。
(次はばかまつたけの山かな?M田)
秋のお彼岸がすぎると、南国肝付も秋らしさが増してきます。
田んぼの稲の収穫は終わり、シラス台地の上に広がる広大な畑地では、焼酎やデンプンの原料となるサツマイモの収穫が本格的に始まりました。今年は24号、25号と9月末から10月はじめに掛けて立て続けに襲来し、ほかの農作物への被害も出ているようですが、サツマイモはさほどの影響は無かったように聞いています。
台風が過ぎると、九州は大陸からの高気圧におおわれ、澄みきった青空が広がります。この時季になると、夏鳥は日本で生まれた幼鳥を伴って南方へと渡っていくのです。なかでもサシバという鷹の仲間は、おもに大隅半島を通って、佐多岬から南西諸島伝いに、インドネシアやフィリピンへと南下することが知られています。
日が昇り始めるころから発生する上昇気流をとらえて、数十、数百ものサシバが帆翔することで上空へ舞い上がっていきます。その様子は縦長であったり、ボールのようであったりするので鷹柱と呼ばれています。高度を得たものから順に滑空をしながら渡っていくのです。
自宅上空では10月2日、3日の2日間で約1000羽を見ることができました。また、県立大隅広域公園の観察会では10月7日2160羽、8日2350羽をカウントしたそうです。
年々その数が減少していると言われているサシバですが、繁殖地の保全や越冬地での密漁禁止などの活動が広がっており、絶滅危惧種への保護意識は高まっているようです。
サシバの渡りを追いながら、いつまでもこの町の上空で舞ってほしいものだと祈らずにはいられません。
(次は海かな M田)
9月の声を聞いたとたん、風が涼しくなりました。柿も色づきを増し、葛のやぶ奧には紫の花穂も見えております。蝉の声もいつのまにか「カナカナ」に替わっているようです。
月初め、論地工場へ行こうと下住工場を出て、高良(たから)橋を渡り、ふと右手の旧鉄道跡の土手に目をやると、ふだんは全く人気のない桜並木のみちに多くの人影が見えました。馬もいます。
肝付町の秋の大祭「流鏑馬」の練習が、今年も始まったようです。早速右折して、堤防へ。
この地の流鏑馬は、高山「四十九所神社」に毎年10月半ばに奉納される神事で、900年の歴史を持つと言われています。今は射手(騎乗する少年)を、8月に肝付町在住の中学2年生から希望を募り、9月から馬に触れるところから訓練する慣わしになっています。十四歳の少年が、わずか一月半で、手綱を放し疾走する馬上から、弓を引き矢を放つまでに技を磨いていくわけです。
鉄道跡に行ってみると、少年はもう片手だけで手綱を引いて、馬を早駆けさせていました。
大勢の人影は「綱持ち」と呼ばれる加勢人で、今日は高山中学二年生の有志が50人ほど。本番同様、馬の走る方向の右手1.5mくらいに、3町(約330m)にわたってまっすぐに張られた綱をもって立ち、訓練を見守っているところでした。馬にも人に慣れさせる訓練を兼ねているのでしょう。目の前を疾走する馬、綱持ちも結構勇気の要る役割です、みんな良い感じで緊張気味。
指導をし、神事の準備を進めるのは「高山流鏑馬保存会」の方々。この時期からは仕事そっちのけの日々が始まります。疾駆する馬の正面に立って、走りをおさめるのも慣れたものです。が、どちらも大変ですよね。
今年、平成最後の(2018年)の射手は、大園悠馬君。高山中学校の二年生です。バスケット部に所属しているそうで、乗馬の勘は鋭いと保存会のおじさんたちが言っておりますが、まったくそのとおりでしょう。
そして、そのお父さん、健一さんは、昭和最後63年(1988年)の射手なのだそう。しかも流鏑馬の長い歴史の中で、親子での射手は初めてとのことです。何か運命的なものがあるような気もします。
練習は毎夕方、1日四回騎乗。これから本番に向け短い期間の中で、一段ずつレベルを上げる厳しい練習が続きます。
夕焼け空の下お父さんは、毎回息子の無事を祈りつつ、うつむき加減に歩きながら真砂を撒き、馬場を浄めるのです。これを見るだけでもジンとくるものが。そして、お母さんは、あの明子姉さん(※1)のように息子の姿を遠くで見ています。さらにジンとくる。
実は、綱持ちは、練習している馬場に行けば誰でも参加できるのです。近くで見ると、すごい迫力が堪能できるうえに、射手や、お父さんがひとり一人にお礼を言ってくれます。これも感動ものです。近くにおいでの方は参加必見、その価値は十分にあります。
秋がいよいよ深まるこの時期、つるべ落としの夕刻、「やっさん」(流鏑馬祭り)までその準備を見続けるのも、肝付の季節を楽しむひとつの方法かもしれません。
(次は秋空を見るか M田)
※1 梶原一騎原作 川崎のぼる作画「巨人の星」より 明子は主人公星飛雄馬の姉
※2 後射手とは前年の射手で、射手の乗った馬を全力で追走する。射手に事故ある場合は則交代できる技量を持つ。
取材協力 高山流鏑馬保存会
残暑お見舞い申し上げます。
台風12号が去った後、当地でも身体に危険な暑さが続いています。工場内のスポットクーラーや大型扇風機も効果をあらわせないほど気温があがり、熱中症の予防注意が欠かせません。
この時期、大隅半島中南部において、ビールのあてにはもっぱら、塩ゆで落花生が出されます。
この地方の労働者の塩分補給はこれで行われていると言っても過言ではないぐらいの量と頻度で提供されるのです。湯気の上がってる小さなこいつと、冷たくてグッと来るあいつは、まさに永遠の、最強バッテリー。キモツキンリーグ・バンシャクズのサトナカくんとヤマダくんなのであります。
ある日風呂あがりに、こいつらをやっていると、音楽好きの友人から電話がありました。彼もすでに泡をやっているようで「ヨカトコイガ デケタドゥ。ウトデ キッケコンケ。ショチュモ アイヨ。」とのこと。直訳すると「以前建築関連会社だったあの事務所が改装され、ライブハウス風のスペースになった。今度バンドで演奏するから来ないか。音楽を聴きながら酒も飲めるぞ!」となります。
指定された日曜の夕方、うちの本社工場からほど近いところにあるそのスタジオへ。
かなり派手めなおねぇちゃんが横たわる看板には、
「きもつき 街の音楽室 Music Bar & Live House」とあります。つまり、学校の音楽室のように好きな人々が練習できるスペースで、たまにはそんな仲間たちの音楽を聴きながら飲んだり歌ったりするところということでしょうか。なんだかわくわくしながら中に入りました。
すでに、会場は盛り上がっていました。アコースティックな楽曲が演奏される中、50席ほどある客席では、ちょっとお酒がきいているのか意気投合の様子のおじさんたちや、ファンとおぼしき曲に聞き入るお姉さんたちが、普段は見せることない実にいい顔をしています。やはりライブですなぁ。M田も300円で買ったビールを片手に残り少ない客席を探して滑り込むことに。
次は演歌も交えて演奏するグループが登場。その演奏は、観客も思わず話をやめて聞き入るほど。
この時、N崎くんから肩を叩かれびっくり。彼はこのバンドのメンバーをよく知っていて、ビールを飲みながら裏話をいろいろ聞かせてくれました。このバンドのベースをやっているのが、私の年上の友人で、あの「吾亦紅」をしみじみと歌ってくれたのです。古希を迎える彼のしゃがれた声からは、深く温かい思いが伝わってきました。
最後にオーナーの有馬さんとお話しをすることができました。
実は有馬さん自身もプレーヤーでスタジオを作りたいと思っていたそうで、この春に今までの仕事がひと区切りつき、事務所を改装することに。6月にこのスペースができあがり、音楽仲間に声をかけ、7月から本格的にそれぞれのバンドがライブをするようになったとのことです。
本当に、ヨカトコイガデケタど。ありがとうございます。次のライブも楽しみ。
(次は秋の海かな M田)
今日は七夕です。
昨日来の猛烈な大雨で西日本を中心に洪水や崖崩れなどが発生しています。
被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
この時季、肝付では、七夕かざりが商店街を彩っています。商工会の呼びかけで、保育園や幼稚園、小学校が各クラス毎に、また、社会福祉施設や自主的なグループがそれぞれ飾り付けをした笹竿をお店の前の外灯に立てているのです。町並みに手作りの紙鎖や切り紙、短冊などが揺れるのは、派手さはありませんが、しみじみと季節感が伝わってきます。
ところが、新暦の七夕は梅雨のさなか。それぞれが心を尽くした飾り紙は、雨に打たれて落ちてしまうことが多いのです。今年も飾って二、三日はさらさらと揺れていたのですが、このところの雨ですっかり寂しくなってしまいました。なかば今回の取材は諦めていたところ、その筋に詳しいM理さんから、温泉ドームにきれいな七夕かざりが残っているとの情報。
行ってみると、左右対で飾られていました。そうそう、このさらりとした風情がよろしい。むかしむかしの夏の初めがよみがえるというものです。短冊にいろいろな願い事を書きました。「なわとびが上手になりますように」とか「宇宙に行きたい」とか。誰かが書いた短冊の願いごとをちらりと読んでみたいのも人情です。
なるほど直球。M田も同感です。なかには、「世界平和」とか「給与UP」とか。
そういえば、パソコンやスマホを使ってばかりで、紙に思いを書くことから遠ざかっているような気がします。旧暦の七夕にはまだ十分日にちがあるので、短冊におじさんなりの願い事を書いてみたくなりました。書けば叶うような、ほどほどの。
さて、雨が苦手な七夕かざり。雨の似合う花と言えば紫陽花ですが、こちらではもう時期をすぎてしまいました。これからの季節、花にも葉にも雨粒が遊ぶような蓮も楽しみです。鹿屋市の串良支所敷地には、昔の濠が保存されており、そこを利用して蓮が植えられています。
「この蓮は弥生時代そのままの種だそうで、1951年に千葉で発掘された3粒の蓮の実から発芽させたものを株分けで殖やし育てたと説明書きに記されています。開花させた植物学者、大賀一郎博士の姓をとって「大賀蓮」と呼ばれているそうです。なんと天然記念物。
小雨の日にゆっくり見に行きましょう。
(次はやっぱり海へ行きたいな M田)
肝付町の東岸は、太平洋の荒波に洗われて、山裾が削られ白い崖や巨石となって海辺まで迫り、荒々しい海岸線を形づくっています。特に岸良から佐多に掛けては、石鯛釣りのメッカとなっているようで、あの「釣りバカ日誌」にも登場しました。山佐木材の釣り部の面々もかなりの頻度で通っているようですが釣果についてはちらほらとしか聞き及びません。
そんな海岸ですが、「岸良(きしら)」と「辺塚(へつか)」、ふたつの湾の奧にだけ砂浜が横たわり、訪れるものを柔らかく迎えてくれるのです。どちらも花崗岩質の山から川によって運ばれた、石英を多く含んだ白っぽい砂におおわれています。今回は最南の辺塚海岸に行ってきました。
ここは国道448号を船間から県道74号に乗り換えた先に位置しているため、訪れる人はほとんどいないようです。日曜日のお昼過ぎに着いた砂浜には、親子連れらしい足跡が残っているだけでした。私まで入れてこの日3人目ということでしょうか。波打ちぎわを歩くと、踏みしめる音が聞こえてきそうなくらいきれいな砂です。
梅雨空の下、穏やかな波音に包まれながらあっちの端まで行ってみることにしました。歩いて往復しても20分とはかからない距離です。砂浜の一番北の端におもしろい模様を見つけました。
海亀が上陸した足跡です。この亀は上がってはみたものの、何かが気に入らず手前でUターンして海に戻ってしまったようです。
この美しい辺塚海岸に、これから夏に向けて何頭もの海亀が這い上がり、卵を産み、厳しい自然の中で生命を繋いでいくことを祈りたいと思います。
もうひとつ。
この地域の家々に限って、庭先に植えられていた「ヘッカデデ(辺塚だいだい)」と呼ばれる柑橘類があります。
「だいだい」の名は付いていますが、沖縄のシークヮサーや大分のかぼすの仲間だそうで、8月頃の青い実は酸っぱくて、さっぱりとした良い香りがします。
半割にして焼酎にいれると美味しいんです。今はジュースやドレッシングにも加工されて市販されています。青いうち収穫せずにそのまま冬を越す頃には実は黄色く熟して、果汁に甘みが乗ってきます。
もちろんこのまま飲んでも美味しいのですが、刻んだ皮をジュースで煮込み、マーマレードにすると絶品。香りとほどほどの苦みがパンやヨーグルトに良く合います。
大隅半島でもさらに奥まった手つかずの地域。この辺りは、陸路は急峻な細道しかなく、また海路は外洋の荒波が厳しく、昔は人の行き来が容易ではなかったようです。今は時間さえ作れば、その手つかずの魅力を存分に楽しむことができる。
ぜひ足を伸ばしてみられてはいかがでしょうか。
(次も海にいきたい M田)
皆様、4月の終わりからの大型連休、大いに楽しまれたことでしょう。5月5日、6日辺りはまだうっすらと記憶に残っているかも知れませんが、心に残るイベントを組まずに過ごされた方にとっては、4月29日に何をしたかもう思い出すこともできない、忘却の彼方になっちゃったのではないでしょうか。「年かなぁ」などとため息をつきたくもなります。
そんなあなたにお勧めなのが、毎年かかさず同じ日同じ行事に行くこと。これは効く。私の経験では、ほぼ100%忘れることはありません。ぜひ、お試し下さい。
というわけで、今年も4月29日、志布志お釈迦祭りに行ってきました。この前は遅刻して、メインイベントを見逃したので、早起きして参じました。
9時過ぎから稚児行列が始まります。ここのお稚児さんは、自分で歩くのではなく、紅白に飾り付けられた籠に乗せられて進みます。担ぎ手は、たいていお父さんやお祖父さんでお母さんたちは籠の横について歩くのがしきたりのようです。この籠には年齢制限ではなく体重制限が設けられているという噂です。ともあれ、眉と鼻に白粉をつけてもらったお稚児さんがちょこんと座った姿は可愛いこと。1.2kmほど歩くそうですが、担ぎ手は孫子のためならということでしょう。大変そうです。
子供たちが通り過ぎると、その後ろからは、朝早く、お寺で仏前結婚式を挙げた新婚さんがお嫁さんをシャンシャン馬に乗せてやってきます。毎年5組ほどのようです。
黒紋付きに錦の帯、角隠しで装いを整えた花嫁さんの姿は、白無垢とは違う落ち着いた雰囲気を醸し出しています。馬の口を引くのは紋付き袴の新郎たち。なんとも晴れやかな行列です。どうかお幸せにと、祈るばかりであります。
こちらのカップルたちは、メイン会場の宝満寺まで歩いたあと、甘茶をお掛けして、合同披露宴的イベントに臨むそうです。こちらも早朝からお昼まで長時間大変なことでしょうが、一生の思い出には苦労はつきものです。
そもそもを忘れておりました。お釈迦祭りは灌仏会、別名「お花祭り」。屋根を花で飾った花御堂の中に、片手を天に向けて立っておられる生まれたてのお釈迦様の像に小さな竹の杓子で甘茶を注ぎ掛け無病息災を祈願する行事です。年齢の数だけ注ぐのが慣わしになっているようで、高齢者が続くと花御堂の周りは大勢の人垣でいっぱいになります。
傍らには、甘茶が用意されていて、参拝した善男善女たちは、暖かくほろ甘い一杯をいただくことになっております。
ところで、沿道には、焼きトウモロコシ、焼きイカ、りんご飴、たこ焼きなどなどお祭りにつきものの出店が並んでいます。どれも捨てがたい味がありますが、ここは志布志の商店街。いつもの店先に自慢の商品も並んでいます。お寿司屋さんは、押し寿司やちらし寿司を、お魚屋さんは鯵や締め鯖をパックにしてワンコインで売っています。こちらも美味しくいただきました。
(次は夏。海かな M田)
今年の春は、九州大隅半島を駆け足で過ぎていったようです。
3月25日には桜が満開となり、花見をする暇もなく、その後の暖かさの中で立待ち葉桜になってしまいました。早く芽を出せと掘るのを楽しみにしていた筍も、ちょっと油断した間にすくすくと成長して大人の背丈ほどになってしまったものもあります。タラノメなどは、芽ではなくなった掌ほどの若葉をかろうじて天麩羅にすることができました。
そんな悔しい春を過ごす中、年上の友人から曙つつじ鑑賞登山のお誘いが、ショートメールで舞いこみました。
鹿児島県内では、曙つつじを見ることのできる山はどうも限られているようで、肝付町国見山系が数少ないうちの一つにあげられています。登山道周辺に自生地が見られるのは甫与志岳と黒尊岳の中間あたりだそうですが、M田はまだ実物を見たことはないのであります。
とある日曜日早朝、友人、家人と三人で一路、姫門(ひめかど)林道へ。車で横付けできる甫与志岳への登山口はここだけなのです。駐車場にはすでに先客が何台も、宮崎・大分ナンバーも停まっていました。
登山口からちょうど1時間ほど登ると、甫与志岳山頂下の尾根道にでます。ここからルートを北に、黒尊岳方向にとり、なだらかな尾根の起伏をゆったりと。
椿の赤い花が落ちる道を歩くこと40分ほどでつつじの最初の群落が見えてきました。白に近いピンクの花が枝一面に着いています。
少し盛りを過ぎている枝もあれば、まだ蕾の花もありますが、この花色は春の空によく似合います。さらに黒尊岳の斜面に目をやると、新緑のなかでいくつもの群落が咲いているのが見て取れました。この山の曙つつじの樹が太く大きく、その枝々にたくさんの花を咲かせているからでしょう。
つつじの鑑賞を堪能し、甫与志岳頂上(968m)へ向かいました。
馬酔木の花が満開の頂上は、春の日差しで暖かく、ここで昼食を取っているお仲間もいました。青空の下最高のランチだったことでしょう。
山頂からは、もと来た道を「こんなに急だったかなぁ。」などと余裕を見せつつ50分くだり、大満足で曙つつじ鑑賞登山を終えたのでした。
(次こそ海か? M田)
1月の中頃、この九州の南端でも山には雪が積むほどの寒さでした。春と呼ぶにはまだまだ早い。肌で感じる季節としては初春というよりまだ冬です。
それが2月に入り立春を迎えると木々の枝先はやや赤みを帯びてきて、枯れ草の間から緑の芽が見え始めます。それから10日ほどたった2月16日(金曜日)が、今年の旧暦の正月元旦でした。「新春のお慶びを申し上げます。」という挨拶が、老若男女どなたにもしっくりと受け入れてもらえる肌持ちです。新月の闇の濃い夜が過ぎるころ、白々と明るくなっていく山ぎわから昇る朝日には、晴れ晴れとした快さと暖かさが実感できます。
その週の日曜日。陽気に誘われ春とこの時期のおいしいものを探して散策に出かけることに。拙宅の生け垣周りの草も少し伸びてきました。椿の木の下にはみつばが柔らかな若葉をひろげています。スーパーでは水耕栽培のヒョロッとしたものが一年を通して並べられていますが、あれとは香りも歯ごたえもまるで別物。こいつをたっぷり採って、白和えにしていただくことに。当地では白和えは白味噌仕立てです。今時分、焼酎のつまみとしてこれに勝るものは無いでしょう。
昨年12月に友人二人の手を借りてして間伐を行い、日当たりのよくなった竹山へ行ってみました。孟宗竹の筍はまだ地面から顔を出してはいません。でも靴の底で注意深く探りながら歩いていると、いやはや本当に春なのですなぁ、とんがり頭を発見。まだ、中指ほどの長さですが。
1本の根から5本仲良く並んでおりました。こちらは、「掘った・焼いた・食った」の瞬速三段焼き筍にして食べることにします。みなさまお先にはふはふっ。
そういえば去年もこの時期同じような春さがしをしました。二股トンネルの北にある、ねこやなぎの群落。昨年は1月21日(旧暦12月24日)に訪れて、まだ花穂は出始めというところでした。今年は2月18日(旧暦1月3日)。新暦では去年より1ヶ月ほど遅いことになります。1ヶ月違えば花穂は盛りを過ぎてしまうころでしょう。しかし、旧暦ではわずか10日の遅れです。どんなようすなのか気になって、岸良高山線を南にドライブすること20分。人気のない山に入って5分。
群落は一面銀色にふわふわと輝いておりました。堅く赤いさやはなく、ねこやなぎの花、一番の見頃です。いささか乱暴なとらえ方ではありますが、ねこやなぎの花穂に限ってみると、旧暦に近い巡りで旬を迎えているようです。
かく言うM田にしてみても、ねこやなぎ同様旧暦に添って季節を感じる方がしっくり来る。体が無理をしないような気がします。
今日は啓蟄。貫禄のある足高蜘蛛(アシダカグモ)初見、家人は大騒ぎ。いよいよ春たけなわです。
(次は海か?M田)
※参考文献 小林弦彦著『旧暦は暮らしの羅針盤』NHK出版
「初春を探そうか。」などという風流な気持ちも、しょんぼりとしぼんでしまいそうなこのところの寒さです。身をちぢめているせいでしょうか、なんと左の肩胛骨当たりが痛い・・・神経痛になっちゃたようです。しかし、こんなことで挫けてはいられない、今回は全国にも希なイベントが発生するというので気張って出かけることにしました。
わが肝付町には、宇宙航空研究開発機構JAXAのロケット発射場があります。ここから1月18日(木)午前6時6分11秒にイプシロンロケット3号機が打ち上げられるのです。流石に科学の力、宇宙の事情によって、11秒が肝なのでしょう。が、M田にとっては「これなら発射を見てから会社に行けるじゃありませんか。片道1時間の距離まで余裕で往復可能!」の時刻と解釈してしまうのであります。負けじとこちらも秒読みで行動。
当日4時50分22秒に起床、身支度を整えて、5時3分57秒、岸良方向へ向けて発車。普段は通る車もいない経路ですが、さすがに前を走っている車のテールランプが三つ、二つ見え隠れしています。
岸良繁華街中心部には、消防車&救急車も待機、交差点から内之浦方面へは交通規制がかけられ一般車は通行できません。そこで、国道448号を錦江町方向へ右折し、船間方面へ。1㎞ほど行くと岸良海岸の駐車場がやたら明るい。幾台もの投光機が周りを照らし、車両案内係も配置されロケット発射見学場に様変わりしています。
5時52分16秒、ボランティア案内係りのY田君の誘導で車止め完了。すでに駐車場は50台以上で満車となっています。係りの人たちは前の日の午後9時から配置についているとのこと。ご苦労様です。Y田君コーヒーありがとね。おいしかったです。
まだ星が瞬く夜明け前の浜の堤防は、打ち上げを待つ見学者たちが発射場に向かって横一列に並んでいるようです。寒いなかでも、なんだかわくわく感が伝わってきました。
ちょうど60秒前から、町内防災放送の大スピーカーから射場のカウントダウンが中継され、気持ちが高揚してきます。「スリー、ツー、ワン、ゼロ、リフトアップ・・・」閃光が見学者たちの顔をはっきり見えるくらいに輝き、皆さんの歓声の後に爆音が響いてきました。
ロケットの軌跡は、轟音を残しながら南の空高く弧を描いて揚がっていきました。初めて発射場の近場で見学しましたが、その迫力と美しさに恥ずかしながら感動を覚えました。これからロケットはできればこの時間に打ち上げてほしいものです。
岸良見学場を早速後にして、出社の途につきました。峠のトンネルを抜け、明け始めた道を30kmのドライブ。開けた畑の中の一本道で、ふと見上げると、オレンジに柔らかく輝く光のひだが空に舞っています。まさかオーロラ?ではないでしょうが、人生で一度も見たことのないそれはそれはきれいな光景でした。
夜光雲と呼ばれる現象だそうです。やはり早起きはするものです。いやはや大満足の朝でした。この日は春のような暖かさ、夕方自宅の庭の梅がいくつか花を開いていました。
(美しい写真はN野君にまかせて、次は春のおいしい物でも探そうか M田)
皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、新年に入り、当地はお天気に恵まれ、暖かく穏やかなお正月三が日でした。雨や雪でも降れば家の中でお屠蘇と称して、ちびりちびりごろごろ~ちびりちびりぐぅぐぅといきたいところですが・・・。
陽気に誘われた家人たちにはその楽しみは理解してもらえるわけもなく、初詣に引っ張り出されました。たまたま、私が節目の年を迎えたことも神社詣の理由でもあったのです。
まずは、四十九所神社へ。永観2年(986年)の創建と言われているので千年以上の歴史をもつ高山一位の郷社です。
さすがに、出店なども並んで賑やかで、参拝客も多く、年始めの挨拶が忙しいほどでした。社殿前には御神酒(樽酒)も用意されており、一すくいご馳走になりました。家人たちはお札とおみくじ、おまけにアメリカンドッグを購入しておりました。
さて、高山に来られればお気づきになる人はお気づきになるのでしょうが、この地には神社がやたら多いのです。四十九所神社から南へ1丁ごしに、御社神社、八幡神社と並んでおり、北と西には南方、竹田の2社が、東には護国神社、稲荷神社が鎮座されております。郷土誌によると中世に創建された主なものだけでも27社を数えます。
それで、他地区の神社(四十九所神社は新富地区)にも詣でてみようと言うことになり、前田地区代表 南方神社、後田地区代表天岩戸別神社(通称トガンサァ)に参拝しました。
南方神社は14世紀半ばの創建と伝えられ、立派な社殿が再建されています。元々は武神ですが今は縁結び家内繁栄の神様だそう。これはしっかりと祈願させてもらいました。
ここでご注目いただきたいのが、左右柱下の門飾りです。この地方の慣わしで、シラスの盛り土、その上に末広がりに置かれた堅木の割木(薪)3本と笹竹だけ、松とか梅はありませんが、すっきりとして気持ちがいいです。
後田地区白坂の天岩戸別神社(通称戸神様トガンサァ)はこの地区の守り神さま。天の岩戸開けの神々を祭ってあります。右手に大きな椎の木があり、家内は子供のころ、ここでドングリやコジイの実を拾うのが楽しみだったそうです。しみじみと静かな田舎のお社に、家に祭っていたお札を納めさせてもらいました。
3つのお社に詣で、去年の穢れを清めて、晴れ晴れとした気持ちになりました。
皆様にとって本年が素晴らしい年となりますように。
(次は春を探そう M田)
【おまけ】
後田の民家の門飾り(木戸かざい)
割れ木は飾らずへつらわず、堅く無ければならない。
竹は親勝りの竹の子。節がある。
ユズリハは代々譲り受け次ぐ。
シラスは土までも白く新たに。とか
今は残念ながら、この木戸かざいを飾った門口をほとんど見ることは無くなってしまいました。
参考文献 『高山郷土誌』1997年版